転轍器

古き良き時代の鉄道情景

大分~下郡間1線時代の記録 下郡信号場が日豊本線にあった頃

 下郡信号場は先に開通した日豊本線から豊肥本線を分岐するのに設けられ、大分川に豊肥本線の鉄橋が架けられて単独線になった昭和38年3月20日に廃止されている。日豊本線豊肥本線の列車が1本の線路を共有していた昭和30年代後半の風景を平瀬清隆さんが記録されていた。

 平瀬清隆さんのアルバムを拝見して強烈な衝撃を受けたのがこの写真で、豊肥本線の貨物列車が日豊本線を走っているのに度肝をぬかれた。39680〔地〕の牽く下り貨物列車が下郡信号場で日豊本線に合流し大分川へ続く下郡跨道橋へ差しかかっている。保線掛だろうか、列車の通過を見守っている。編成を見ると古い貨車がつながれ、石炭車や木材満載の無蓋車等、鉄道輸送全盛時代の光景を見るようだ。下郡信号場の建屋、雄大な石積みの築堤、独特な通信線電柱等、良き時代の鉄道情景が飛び込んできた。 779レ S36(1961)/3/29

 回転火の粉止めを付けたデフ無しの、エアータンクを避けた段差のあるランボードがよくわかる58652〔大〕が堂々と本線列車を牽いている。この写真も衝撃を受けた1枚で、先頭は丸屋根細窓のスハフ32であろう客車4輛を従えて日豊本線を走行している。下郡信号場の遠方信号機の進行現示を見て進む。列車は下郡信号場で豊肥本線に入り、豊後竹田をめざす。 728レ S35(1960)/7/20

 大分から下郡信号場で分岐する日豊本線豊肥本線の線路略図に、写真に写っていた信号機を配置してみた。大分上り場内は5本の腕木が並ぶ信号塔で迫力があった。また下郡下り場内は本線分岐を示す上下2本の腕木式信号機が設けられていた。39680の豊肥本線下り貨物列車と、58652の豊肥本線上り旅客列車の位置を示す。

 船底形テンダのC58424〔大〕牽引の下り列車が下郡信号場で豊肥本線から日豊本線へと転線する。二重屋根の客車はオハフ30であろうか。手前の信号機が下郡場内信号機で上の腕木が日豊本線、下が豊肥本線の進行を示す。
 昭和39年3月の豊肥本線ディーゼル化の際に大分のC58423・424・426・427は志布志古江管理所に転じている。 S36(1961)/7/21

 下郡側から見た大分川橋梁(大分川右岸、上流側から)。
 大分川橋梁は大正3年4月に幸崎まで延伸開業した時に架橋され、全長365m鈑桁16連の上路プレートガーダー橋である。この時は橋脚に鉄製の通信線電柱が設置されていた。C5782〔大〕牽引の日豊本線下り列車が軽快に走り抜ける。2輛めの客車は2つ扉と窓配置から戦災復旧車のスユニ72ではないかと想像する。 S36(1961)/3/28

 下郡側から見た大分川橋梁(大分川右岸、下流側から)。
 C5518〔宮〕の牽く列車は、門司港11:18発宮崎22:35着の519列車で、編成の真ん中に荷物車2輛が組込まれている。門司港~大分間約5時間、大分~宮崎間約6時間を要する長距離鈍行であった。 519レ S36(1961)/7/21
 ちなみにこの当時の日豊本線の長距離列車を下りで見ると
1)門司港西鹿児島 511レ 476.9Km
2)門司港~宮崎 519レ 351.0Km
3)別府~西鹿児島 547レ 345.0Km
4)大分~都城 549レ 257.0Km
5)別府~宮崎 541レ 219.1Km
他、多くが運転されていた。牽引機C57とC55、受持ち区と運用区間、機関車交換駅等が気になる。

 日豊本線上り列車が大分川橋梁の土手を10‰の下りで進む。牽引機C5537〔宮〕の深いキャブ屋根は元流線形の名残りをとどめている。列車は鹿児島7:46発、大分17:21着17:30発、門司港22:01着の528レで、473.7Kmを約14時間かけて走破していた。大分から機関車は交代するのではないだろうか。 528レ S35(1960)/8/16

 同じ場所をC58350〔大〕が牽く豊肥本線下り列車が行く。後方に下郡信号場の遠方信号機が見える。熊本発別府行の列車は約5時間かけて終着別府に到着する。当時の豊肥・久大本線の列車は別府発着が多く設定されて、牽引機関車の別府~大分間は本線列車の後付け送り込みや重連・3重連の回送が行われていたようだ。 723レ S35(1960)/8/18

 69616〔地〕が豊肥本線上り貨物列車を牽いて大分川橋梁手前の上り勾配に差しかかる。 780レ S36(1961)/1/4

 下郡信号場で豊肥本線との分岐点を行く日豊本線上り列車。形式入ナンバープレートが美しいC5772は長駆鹿児島からやって来た。下郡信号場ではたぶんほとんどの列車が通過すると思われ、1輛めの客車の脇にタブレット授受柱が見える。 南延岡発別府行546レ S36(1961)/3/29

 下郡信号場では線路の新設、移設工事が行われているように見える。日豊本線から分岐していた豊肥本線は下郡信号場から大分へ新たな線路が敷設されることとなる。
 C57115の動きを手持ちの配置表で見ると、昭和32年11月鹿児島、昭和36年4月鹿児島、昭和40年4月大分、昭和43年3月大分、昭和45年4月宮崎、昭和48年3月大分に記載されている。大分配置最後の蒸気機関車がC57115であった。撮影時は鹿児島から北上してきた姿で優雅な煙室扉ハンドルが輝いていた。 S36(1961)/8/21

 昭和38年2月6日撮影の写真。大分~下郡(信)間が2線になっている。右の線路が日豊本線、左が豊肥本線である。不思議なことに右に豊肥本線貨物列車が、左に日豊本線上り列車が走行している。豊肥本線単独運転直前まで下郡信号場の渡り線が残っていたとしか考えられない。下郡信号場の廃止は昭和38年3月20日と記録されている。  S38(1963)/2/6

 69634〔地〕は宮地機関区が統合された際熊本に移り、昭和44年7月に廃車となっているのでその後の豊肥本線で会うことは叶わなかった。日豊本線の列車は寝台車の編成のようで、もしかしたら“九州観光号”かもしれない。この写真は撮影されたご本人も「不思議?」と言わしめた謎の構図ではある。

 大分~下郡(信)間が2線になってしばらくはこの図のように両方向通れる配線になっていたのかもしれない。下郡信号場が廃止されて日豊・豊肥本線とも単線並列、単独運転になった時に渡り線は撤去されたのではないだろうか。あくまでも想像である。

 昭和36年の時刻表から日豊本線豊肥本線上下列車の通過時刻(大分駅発着時刻から約4分の加算減算)を予測してみた。旅客列車だけで58本を数える。これに貨物列車が加わるので列車密度はかなりのものと言える。時間がひっ迫するのは
 番号16・17番 9:32熊本行“第2ひかり”、9:33大分行 行き違い
 番号26・27番 12:13幸崎行 12:15豊肥大分行 行き違い
 番号41・42番 17:30宮崎行 17:34豊肥豊後竹田行 同方向
 番号43・44番 17:45幸崎行 17:48別府行“火の山” 行き違い
があり、日豊・豊肥の異方向ならどちらかの列車が場内信号手前で退避、同方向なら閉塞解除待ちというところであろうか。短距離の閉塞区間なのででこなせる列車数は増えるものと思われる。

 私が初めて下郡信号場を訪れたのは昭和44年、この時の下郡信号場は豊肥本線から新設の大分電車区を分岐させるもので昭和42年開設の2代めの信号場であった。大分川に架かる鉄橋は日豊・豊肥本線の2本が当然であったが、線路を共有した前史を平瀬清隆さんの記録から知ることができたのは大きな収穫であった。

 写真は全て 日豊本線大分~下郡(信) 撮影:平瀬清隆さん

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