転轍器

古き良き時代の鉄道情景

下郡信号場のこと

 下郡信号場は大分川の東、日豊本線豊肥本線が離れる場所に位置し、豊肥本線から大分電車区が分岐するのに設けられている。上記の場所は少年時代の私にとって蒸気機関車を身近に見ることのできる魅惑の鉄道地帯であった。日豊本線D51貨物にC57旅客が、豊肥本線は9600とC58の客貨を、下郡信号場では大分からの回送客車を牽く8620とC58が日に数往復していた。市道から築堤上の線路を見上げると単線の日豊本線は橋梁の架け替えで2線のガーダー橋が、信号場の入出区線はコンクリート橋が架けられ、また築堤壁面はさまざまな形の橋脚が露出して、不思議な鉄道地帯の雰囲気を味わうことができた。

 西日のさす入出区線に夕方の通勤列車編成を迎えに来たハチロクが規則正しい排気音を鳴らして待機している。誘導掛が入換信号機の方向を注視していた。 下郡(信) S47(1972)/1/30

 69616〔熊〕の牽く貨物列車が場内信号機手前を徐行して通り過ぎる。 795レ 下郡(信) S44(1969)/4

 上の位置からくるりと反対側を向くと回送客車が出発線に入線していた。逆光で黒くつぶれた客車は「豊後竹田行」のサボを下げたオハ3554〔分オイ〕であった。この編成は大分駅6番ホームに据え付けられるとスイッチバックして再び豊肥本線に入る。その際編成の前後で、解放される下郡からの牽引機、連結される豊後竹田仕業C58の光景が展開されていたはずだ。 回746レ 下郡(信) S44(1969)/4

 配給車代用の貨車を従えた回送列車をC58224〔大〕が牽く。手前の線路は日豊本線。 豊肥本線下郡(信)~大分 S44(1969)/4

 豊肥本線から分岐した下郡信号場入出区線を見る。日豊本線はDF50重連の旅客が通っている。 下郡(信) S47(1972)/5/25

 日豊本線側から見た下郡信号場。何かの点検台のような、乗降用ステップのような物がある。 S47(1972)/5/25

 下郡信号場の建物を撮った写真はないが、偶然写り込んだくれた建屋は豊肥本線側に遠望がきく張り出しが付いていた。新見から来た、集煙装置を外したC58262〔大〕の煙突は心なしか短く見える。場内信号機が赤なので停止している。 6795レ 下郡(信) S47(1972)/5/25

 下郡から出て行った回送編成は、今度はC58124〔大〕の牽く豊後竹田行となって再び下郡信号場を駆け抜ける。沼地に架かる低い鉄橋を渡って大分平野は南に進路をとる。翌朝は再びここを通り、客扱いを終えた客車は下郡で昼寝をする。 豊肥本線滝尾~下郡(信) S46(1971)/9

 下郡信号場は日豊本線から豊肥本線が分岐する際に設けられたのが最初で、以降の変遷は「停車場変遷大事典」から詳細を知った。初めは日豊本線側に設けられ、大分から単独の豊肥本線ができた時に廃止されている。その後日豊本線の電化による基地の新設で新たに設置された経緯がある。日豊本線側と豊肥本線側から整理してみた。
日豊本線
 M44(1911)/11/1  別府から延伸した大分線(豊州本線)は大分まで開業する。
 T3(1914)/4/1    大分以南の佐伯線(豊州本線)は幸崎まで開業する。
 この際、同時開業した犬飼軽便線を分岐させるのに下郡連絡所が設置される。
 T11(1921)/4/1   下郡連絡所は下郡信号場に改称される。
 T12(1923)/12/15 豊州本線と宮崎本線が統合されて小倉~吉松間が日豊本線となる。
 S38(1963)/3/20   下郡信号場(初代)廃止。
豊肥本線
 T3(1914)/4/1    犬飼軽便線として大分-下郡連絡所-中判田間が開業する。
 T11(1922)/4/1  下郡連絡所は下郡信号場に改称される。
 T11(1922)/9/2   犬飼軽便線は犬飼線と改称される。
 S3(1928)/12/2   犬飼線と宮地線が統合されて熊本~大分間が豊肥本線となる。
 S38(1963)/3/20  豊肥本線は独立線となり下郡信号場(初代)廃止。
 S42(1967)/8/13  日豊本線電化により大分電車区の分岐点として下郡信号場(2代)が新設される。