転轍器

古き良き時代の鉄道情景

回転火の粉止め 藁屋根の時代

 この写真は昭和35年頃の久大本線天神山駅の様子で、父親が遺したネガから見つけたものである。汽車の写真を撮る趣味は無く、汽車に乗って出かける際のスナップと思われる。私の昭和30年代の移動といえば、徒歩とボンネットバスD60が牽く汽車が全てであった。画像を拡大してみると機関車は確かにD60のようだが印象が違って見える。煙突に被り物のようなものが付いているのに気づく。線路脇の通信線電柱が建つ横に藁屋根の民家が写っている。私が育った辺りの家の多くは藁屋根だった記憶がある。この頃は沿線防火対策で機関車の煙突に回転火の粉止めが付けられていたと思われる。

 国鉄時代vol.24(平成23(2011)年2月号)所収「由布院盆地の汽笛ー久大本線由布山麓D60ー」に掲載された昭和35年撮影の化粧煙突の印象が異なるD6022の写真が気になっていた。作者は大分市の平瀬清隆さんで、昭和30年代から現代までの鉄道を克明に記録されておられる方だ。作品を拝見させていただくと、一関のD62、北陸旧線の重装備D51やDD50、米原のE10、亀山のC51、浜田のC54、山陽筋のC62・D52・EF58・EF61、宇品線のC58・D51が並ぶアルバムに昭和30年代の、私が知っている形態とは違う姿をした久大本線の機関車を見出して感激したのはいうまでもない。

 私の汽車に対する熱き思いをお伝えして被り物をしている機関車の写真をお借りした。私が見たD6021とは全く別人に見える姿に感動と驚きが入り混じる。SLブームの頃は忌み嫌われたクルクルパーが付いている。私が知っている昭和40年代ではお目にかからなかったのでかえって新鮮に映る。豊後森機関区配属であったD6021〔森〕が短い貨車を牽いて大分を後にする光景が捉えられていた。林立する腕木式信号機久大本線下り、日豊本線上り場内信号機である。この時豊肥本線日豊本線と線路を共有していた。 久大本線南大分~大分 672レ S35(1960)/8/21 撮影:平瀬清隆さん

 同じ位置で反対側から撮った上り貨物列車。私が直方で会ったD6022とは全く別機の趣きの化粧煙突上に付いた火の粉止めで、同じく豊後森機関区所属のD6022〔森〕である。ランドセルを背負った小学生が汽車の通過を見守っている。私もこのようによく汽車見物をしたものだ。 672レ 久大本線南大分~大分 S35(1960)/7/19 撮影:平瀬清隆さん

 昭和40年代に撮られたD6070はパイプ煙突であった。昭和35年時点ではこのような化粧煙突のいで立ちであったことに感動を覚える。D6070〔森〕も豊後森の罐で、3輛豊後森に渡った罐は何れも火の粉止めを付けていたことになる。平瀬清隆さんの貴重な記録から新たな事実が解き明かされたと思う。 672レ 大分 S35(1960)/8/30 撮影:平瀬清隆さん

 驚きのC55の回転火の粉止め装備。C5560〔宮〕は形式入ナンバープレートが付いている。大分のC55はC57の進出によって宮崎へ漸次転出していく頃の時と思われる。 大分 S35(1960)/3/18 撮影:平瀬清隆さん

 手元に昭和32年11月と昭和36年4月の配置表がある。大分は昭和32年ではC55ばかりでC57の配置は無く、昭和36年で5輛(60・65・66・82・109)のC57を数えることができた。C5782〔大〕はC5760と共に幸崎電化の際鹿児島へ転じたようだ。日豊本線を回転火の粉止めを装備したC57が走っていた貴重な記録といえる。連結した荷物車はその独特な形から戦災復旧車の70系客車ではないかと推測する。 荷4071レ 大分 S35(1960)/4/7 撮影:平瀬清隆さん

 煙突がとても長く見える58652〔大〕は私が昭和40年代に見た姿とは大きく印象が異なる。この時代は回転火の粉止めを付けて入換の他に本線列車を牽引して豊後竹田由布院を往復していたものと思われる。 大分 S35(1960)/4/4 撮影:平瀬清隆さん

 藁屋根の多かったあの時代は、沿線の飛び火を避ける対策が施されて鉄道運行が行われていたことを知る。昭和30年代の鉄道模様を垣間見ることができたのは望外の喜びで、平瀬清隆さんに感謝申し上げます。