転轍器

古き良き時代の鉄道情景

肥後小国の印象

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 16時43分、キハ402038〔分オイ〕は上り最終の運用で肥後小国を後にする。キハ40はエンジン音を響かせながらだんだん小さくなって美しい杉木立に吸い込まれて行く。 228D 宮原線肥後小国 S59(1984)/10/8

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 機回し線と留置線の間に設けられた花壇に駅名板が掲げられていた。宮原線肥後小国駅は恵良から26K640M、昭和29年3月15日の開業と記されている。海抜431Mの標柱、側線分岐の転轍器標識も見える。 宮原線肥後小国 S59(1984)/10/8

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 2基の信号てこ装置。肥後小国の腕木式信号機は下り場内と上り出発の2基が建っていた。 宮原線肥後小国 S59(1984)/10/8

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 行燈式のりっぱな駅名看板の下は廃止が決まってから設置されたのであろうか、日付入り乗車記念板が掲げられていた。 宮原線肥後小国 S59(1984)/10/8

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 蒸機時代の給水塔と給炭台がまるで現役のような状態で残っていた。豊後森機関区に1輛だけ配置されていたC11191〔森〕がここで佇んでいるような光景を想像する。 宮原線肥後小国 S59(1984)/10/8

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 小国地方は日田や飫肥と並んで九州の代表的林業地域。宮原線の建設は小国杉搬出が目的のひとつでもあった。車が止まっている所は貨物側線跡で、C11が来ていた時代は黒い有蓋車や無蓋車が置かれていたであろう。終着駅の線路はこのまま菊池方面へ延びているように見える。 宮原線肥後小国 S59(1984)/10/8

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 肥後小国構内は本線と機回し線、それに機留線も健在であった。給水塔も給炭台も、貨物ホームも上屋もそのままの姿で残っていた。木材搬出全盛期は貨物側線にチキやトラが押し込まれて木の皮がめくれた太い丸太が積まれていたにちがいない。線路は構内南側も途切れることなく道路橋の所まで続き、あたかも菊池方面から列車が来るような構図が印象的であった。小国地方は昔から日田・豊後竹田阿蘇・菊池からの道が集まる交通の要衝の地でもあった。恵良からのレールは「小国線」として菊池まで延びる予定であったが、期待の構想ははかない夢で終わってしまい残念でならない。 宮原線肥後小国 S59(1984)/11/28

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 廃線を惜しむ記念列車が終着駅に入って来た。日頃は単行しかやって来ない駅は長編成の入場で活気づく。貨物上屋まであふれる多数の乗客の姿はホームが意外と長いことがわかる。 宮原線肥後小国 S59(1984)/11/28

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 キハ40は昭和52年に10系気動車の置換え用として誕生、一般形気動車も新系列の時代を迎えた。大分運転所は5輛の配置で豊肥本線久大本線宮原線で運用されている。 キハ402039〔分オイ〕 宮原線肥後小国 S59(1984)/9/27

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 肥後小国駅は昭和29年3月15日に開業、宝泉寺~肥後小国間19.3Kmが開通して宮原線恵良~肥後小国間が全通した時である。開通後は小国杉の木材搬出で大いに賑わったと聞く。駅舎の周りはコスモスが咲き誇っていた。 宮原線肥後小国 S59(1984)/10/8

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 国鉄案内板に貼られた宮原線廃止に伴う定期券利用者への今後のバス転換の運賃差額補償の案内。宮原線廃止まであと53日。寂しい思いがこみあげてくる。 S59(1984)/10/8