転轍器

古き良き時代の鉄道情景

北海道産農産物から 渡道の記憶

 青果卸売市場に山積みされた北海道産農産物の箱に印刷された産地名を見ると、かつて訪れたことのある場所が思い出されて感慨に浸る。北見?美幌?、この地名を聞くと寝台車を連ねた夜行急行が各駅停車となってC58が牽くあの急行“大雪”くずれが思い浮かぶからである。

 オホーツク海に面した常呂は海産物をイメージするが、たまねぎの産地でもあるようだ。湧網線はキュウロクがボギー緩急車ワムフ100を従えていた印象が残っている。昭和50年4月の「専用線一覧表」(トワイライトゾーンMANUALⅡ)を見ると、湧網線常呂常呂町農協、石北本線北見は北見市農協、美幌は美幌町農協、北見・美幌双方にホクレン農協連の専用線が設けられていた。遠い昔の車扱輸送の時代に思いを馳せる。

 「とままえ」は難問であった。メロンの箱に示された位置から留萠と幌延を結ぶ羽幌線沿線ということがわかった。昭和49年の渡道の際はD61はまだ稼働していたと思われるが何故か足が向いていない。留萌は自治体は「留萌市」に対して国鉄駅は「留萠」ということを今になって知る。

 時刻表昭和49(1974)年8月号(日本交通公社)索引地図から

 時刻表羽幌線のページは留萠本線深川~増毛間66.8Km、羽幌線留萠~幌延間(深川から191.2Km)が連続で掲載されている。留萠~幌延間141.1Kmは日本海の荒波が寄せる長大線区で、苫前までは留萠から50.5Kmの距離であった。
 札幌から稚内まで2度往復したのに残念ながら羽幌線も天北線も通っていない。当初の予定では小平のユースホステルに宿泊するつもりでいたが、それ以前に泊まったユースホステルの規律が厳しくて夜行列車泊に変更してしまった。「とままえメロン」の箱が遠い日を思い出させてくれた。

 幌延音威子府と共に転車台があったようだ。日本海を北上して来た羽幌線は北側、豊富方から回り込んで幌延駅へと合流している。

 十勝平野河東郡士幌町は男爵やメークインなどばれいしょの北海道でも有数な産地である。士幌線士幌駅はこれらばれいしょの積出駅として栄えていた。帯広~十勝三股間78.3Kmは訪問時の昭和49(1974)年は全線で運転されていたが、その後末端区間代行バスに置換えられてしまった。

 中札内(なかさつない)-聞いたことのある響きであるが線区はすぐに浮かんでこなかった。それは帯広から南に向かう広尾線で見つけることができた。帯広~広尾間84.0Kmはキュウロク牽引の貨物列車が運転されていた。

 昭和50年代に流行った「愛国から幸福ゆき」の切符とキュウロク貨物のデザインは今でも使われていることに驚く。

 ばれいしょ・大根・ながいもの箱に印字された「幕別」に反応する。芦別・士別・浜頓別・湧別・然別・伊達紋別など北海道には「別」の付く駅名がやけに多くあった。中川郡幕別町とはどの辺りであろうか。地図を開くと十勝川に合流する猿別川流域でその名前を見つけることができた。幕別駅は根室本線帯広から2つめとなってはいるが、途中に北海道特有の仮乗降場があったようだ。

 道内時刻表昭和50(1975)年7月号(弘済出版社)索引地図から

 帯広は十勝の中心地。東西南北の鉄道網は根室本線士幌線広尾線の一大ジャンクションであった。十勝平野からのの農産物は東は幕別、北は士幌、南は中札内の集散駅を暗示してくれた。

 蒸気機関車にだけ目がいっていた若かりしあの時代、今ネガを見返すと農産物を積む車扱いのワムが列を成しているではないか。広尾線沿線の山海の幸を迎えにいくものと思われる。 帯広 S49(1974)/9/18

 乗車券を兼ねた入場券の勇足は池北線池田から3つめの駅。ゼブラ塗りのキュウロクが貨物列車を牽いていた。

 岩内郡共和町は函館本線小沢から分岐する岩内線4駅の所在地であった。昭和50(1975)年の渡道の際は蒸機撮影も食傷気味となって、「生まれ出ずる悩み」の舞台、有島武郎文学碑を見に岩内線小沢~岩内間を往復乗車した。同行者の気持ちとは裏腹に私としては、C62重連で有名だった小沢駅の発車、岩内線を走った倶知安機関区の2つ目キュウロクの事などが頭に浮かんでいた。しかしせっかく乗ったのに写真は残していないのが心残りである。
 九州でも赤肉の「らいでんメロン」は有名になりつつあり、名前の由来は積丹半島西側の付け根、雷電海岸からで小岬、奇岩が点在する景勝地とのこと。

 函館本線を行くC62やD52の背後にそびえる羊蹄山の写真が印象に残っているが、岩内線胆振線からも「エゾ富士」と呼ばれた羊蹄山が車窓に展開する。これらの線は木材・鉱石・農水産物を大動脈の函館本線につなぐ役割を果たしていた。

 小沢から分岐する岩内線は小樽寄りへ函館本線と並走して左へ分かれて行く。ニセコ国鉄線では珍しいカタカナ駅名。入場券が残っていることから湯本温泉の宿へ行くのに下車したと思われる。

 岩内線胆振線を走っていた2つ目キュウロクのイメージ。ごつい機体が魅力的であった。乗車した気動車も写真に残せていないので北海道形気動車をイメージする。

 かぼちゃの箱に刻まれた「わっさむ町」から即座に浮かんだのは宗谷本線蘭留~和寒のの峠越えである。宗谷本線下りに乗ると上川盆地の北に位置する蘭留から上り勾配となり、名寄盆地へ下ったところで和寒に着く。この区間DD51やDD53の補機が付いて峠を越えていた。サミットの塩狩三浦綾子の「塩狩峠」で知られていた。

 稚内行客車列車は旭川機関区のC5530、C5550、C5787の何れかが来るはずだ。C55かC57か、固唾をのんで待った思い出がある。 宗谷本線蘭留~塩狩 S49(1974)/9/15

 塩狩峠は石狩と天塩の国の境をなす標高274mの峠。塩狩駅は千鳥配置の相対式ホームに中線がある2面3線の構造であった。

 大根のダンボールのシンプルなデザインが目を引いた。中標津町は酪農と農業の町、乳製品とばれいしょ・大根・甜菜が主な産物。「地球が丸く見える」は見渡す限り広がる地平線の眺望で体感できるとか。私としては標津線が真っ先に思い浮かぶ。

 時刻表昭和49(1974)年8月号(日本交通公社)索引地図から

 標津線釧網本線標茶から野付水道に面した根室標津間69.4Kmと根室本線厚床中標津間47.5Kmの計116.9Kmの路線で、中標津で3方向に分かれるおもしろい線形をしていた。根室本線は釧路まで辿り着いたものの、残念ながら最果ての道東に足は踏み入れていない。釧路機関区のC11が全線で貨物列車を牽いていた。標茶根室標津・厚床中標津には転車台があったようだ。

 網走と釧路は釧網本線を乗車したわけではなく、夜行列車宿泊だったので札幌を起点にそれぞれの駅に降り立っている。

 七飯町函館市のとなり、函館近郊で採れる農産物のブランド「函館育ち」の黄色いロゴが入った長ねぎやにんじんの産地であった。函館本線では函館から五稜郭、桔梗、大中山の次で、ここから勾配緩和のために作られた藤城線が分岐する。

 函館市亀田は五稜郭操車場の近く。歴史ロマンあふれる港町は山海の幸が豊富。津軽海峡、連絡船、終着駅は始発駅、異国情緒等々函館を形容する表現は無数にある。農産物のブランド「函館育ち」もそのひとつであろう。青函航路、函館桟橋、函館運転所、函館市交通局五稜郭機関区、五稜郭操車場、等々私のなかの古き良き鉄道情景が浮かぶ。

 函館~札幌間は室蘭本線千歳線経由で318.7Km、山線経由で286.3Kmの道のりであった。どちらも乗車したが何れも飽きてしまうような長い距離感が印象に残っている。

 北海道産農産物を消費地までどのような方法で、経路で輸送されてきたのだろうか。「よん・さん・とお貨物時刻表」(交通新聞社)に掲載された北海道線内上り方面行輸送列車の経路を追ってみた。あくまでも趣味的観点で、途中駅で連結された貨車の形式や区間ごとの牽引機等を想像しながら机上のルートで楽しんでいる。

 釧路発上り:釧網本線標津線の継承車と浜釧路発を組成して発車。帯広で広尾線、落合で池北線・広尾線士幌線継承車を加えて五稜郭操へ至る。

 網走発上り:釧網本線・湧網線の継承車を組成して発車。北見で池北線・相生線、遠軽名寄本線石北本線中間継承車、旭川富良野線函館本線中間継承車、滝川で根室本線継承車を加えて岩見沢操へ。仕分後、苗穂・小樽築港・室蘭本線各方面別に組成される。

 稚内・興浜北線発:北見枝幸・浜頓別発は音威子府を経由し名寄で稚内発に連結。名寄は興浜南線・渚滑線・名寄本線中間継承車を含む。一路旭川を経て五稜郭操へ進み、東北本線方面と日本海縦貫線方面とに仕分される。