転轍器

古き良き時代の鉄道情景

宮原線

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 新聞記事スクラップ帳に昭和44年掲載の「やがて消えるか宮原線」の見出しで8段抜きの記事がある。「走れば走るほど赤字」のサブタイトルが躍るその内容は大分鉄道管理局管内の宮原・細島・日ノ影の各線は道路の発達とバスの競合で旅客・貨物とも減少の一途で、特に宮原線は営業係数839で全国赤字路線のベスト5にランクされ、廃止の方向で調査を進めるということであった。宮原線を意識したのはこの時と思われるが、当時はあたかも日豊・豊肥・久大各本線の蒸機最終の時、宮原線のキハなど眼中には入らなかった。
 時は流れ、赤字ローカル線特定地方交通線という名称に変わり、国鉄そのものの分割・民営化の話を聞くようになってきた。ポストSLから数年後、次の被写体として早く訪れるべきであったが1日4往復の宮原線へはなかなか足が向かなかった。昭和55年12月、国鉄再建法案ができ、宮原線の廃止はいよいよ免れぬ事態へと加速していく。廃止・バス転換される特定地方交通線第1次42線区、第2次35線区が決まり宮原線は第1次選定の中に入ってしまった。九州管内では第1次に香月・室木・添田・漆生・勝田・甘木・矢部・宮原・高森・妻の各線が、第2次に糸田・上山田・佐賀・松浦・高千穂・山野・宮之城・志布志大隅の各線があがっている。
 昭和59年、この年は貨物輸送のシステム転換で貨物ヤードが廃止されるなど私の趣味範囲が狭まる中、宮原線廃止のカウントダウンが始まり、3月5日に宮原線のバス転換が、9月6日に廃止日は11月30日と決定された。時遅しの感は否めず、この年に初めて宮原線沿線の撮影に出向くも気動車はキハ53からキハ40へと変わっていた。11月30日、宮原線は第1次廃止対象の妻線と時を同じくしてその歴史に幕が下ろされた。

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 朝の宝泉寺は日に一度だけの列車交換風景が見られる。先に肥後小国行223Dが入り、しばらくして豊後森行222Dが来て狭いホームに人が溢れる。朝の賑わいは列車の出発とともにまたもとの静寂に戻る。列車を見送る駅長の姿が印象的であった。稲刈りの終わった田んぼは朝日で黄金色に輝き、背景の山々が色づき始める。 宮原線宝泉寺 S59(1984)/11/1

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 極寒の高原、霜で辺り一面真っ白なあたかも雪が降ったような凍てついた線路端で下り列車が現れるのをじっと待つ。朝日がやっと差しはじめた頃キハ40の重たいエンジン音が迫り余韻を残して去って行く。宮原線撮影は一番列車から撮るには午前3時起床が必須であった。高速道路もコンビニも携帯電話もない時代、アウトドア派の友と待ち合せて麻生釣高原に向かう。列車通過後、友の待つ車に戻って冷たく凍ったからだを温める。用意してくれた朝食、「日清どん兵衛」と「八幡浜じゃこ天」は忘れられない味となった。 223D 宮原線宝泉寺~麻生釣 S59(1984)/11/28

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 キハ402038〔分オイ〕の朝の運用は宝泉寺往復と肥後小国往復の2往復。肥後小国からの帰り、豊後森行は木々の間から差し込む朝日を浴びながら紫煙をあげてきれいな小国杉のトンネルへ消えて行った。 224D 宮原線宝泉寺~麻生釣 S59(1984)/11/28

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 キハ40単行は小国盆地を流れる杖立川の支流志賀瀬川を渡る。遠く盆地の突き当り、県境の山々を望む。 227D 宮原線北里~肥後小国 S59(1984)/10/8