転轍器

古き良き時代の鉄道情景

豊州路の汽車電車

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 三重町2面3線の上下本線と副本線は列車で埋まり賑わいをみせている。後方の貨物上屋や隣接する規模の大きい農業倉庫はかつての貨物輸送の隆盛を見るようだ。駅長が立つ上り1番線は別府発三角行704D“火の山4号”、下り2番線は熊本発別府行701D“火の山1号”、そして3番線で退避するはDE101175〔大〕で臨時列車の機関車回送で熊本からの帰りであった。この時貨物輸送は終わっていて豊肥本線をDE10が走るのは珍しかった。 豊肥本線三重町 S61(1986)/5/7

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 濃霧の朝、グリーン車組込み6輌編成の通勤通学列車が行く。この列車は犬飼7:02発大分7:36着で、別府発三角往復の運用に就く急行“火の山”前段の仕事である。豊後水道、別府湾は時として気象と海上の条件が重なって濃霧が発生する。高地はもちろん平野にも覆いかぶさって視界を大きく遮り、道路や鉄道は前照灯を頼りに徐行する光景を時々見てきた。濃霧注意報発令中のこの日、赤とクリームのキハ58群はエンジンを噴かしながら霞みの中をゆっくりと進む。 723D 豊肥本線滝尾~下郡(信) S55(1980)/2

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 門司港発大分行の長い編成が姿を現す。立石峠は蒸機時代はD60が、複線化の成った電化前はDF50が補機を務めていた。新鋭ED76は単機でスユニ先頭の9輌の客車を軽々と牽いて来た。下垂交差パンタのED7683〔大〕は長崎・佐世保線電化対応の昭和50年増備グループの一員である。 529レ 日豊本線西屋敷 S53(1978)/8/29

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 先頭部貫通形のクハ481200番台で組まれた“にちりん6号”が長躯宮崎をめざす。編成は4~5号車がサロ481、6号車はサシ481から置換わったサハ481が入った11輌で運用されていた。 5031M 日豊本線坂ノ市~幸崎 S53(1978)/7/14

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 紅葉が始まった森を見ながら7連の“にちりん”が軽快に走る。この頃になるとクロ480やクモハ485が登場して485系の形式も複雑となってきたが、この7連は下り寄り←①クハ481②モハ484③モハ485④サロ481⑤モハ484⑥モハ485⑦クハ481の純正編成であった。 日豊本線大在~坂ノ市 S61(1986)/11

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 郵便車や荷物車はいつしか新鋭車輌に置換わりカンバス屋根や丸屋根車は姿を消していた。これまで趣味の対象であった貨物列車や操車場、貨物駅が昭和59年2月改正で無くなり、さらに今度は鉄道郵便が61年9月に、荷物輸送は61年11月に全廃された。旧形が新しい車輌になるのは変化対応ができるが、システムそのものの終焉は趣味の対象が無くなるということで残念でならない。61年11月改正は国鉄最後のダイヤ改正となった。荷物列車の走る日常はあとわずかで終わる。 1032レ 日豊本線西大分 S61(1986)/6

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 恵良駅南側は久大本線宮原線が並走し、まるで複線区間のように見える。張上げ屋根がよく目立つキハ58がライトを照らして接近して来た。 久大本線恵良~引治 S59(1984)/3

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 恵良は宮原線の分岐駅で画面左、3番線のレールは光り輝き宮原線健在を物語っていた。上り線の列車はかつての急行のなごりで午後小倉を出て日田彦山線経由由布院行快速“あさぎり”の折返し博多行である。キハ58112+キハ65+キハ58228の3輌編成で、キハ58のナンバーを調べてみると112は長野、228は名古屋の配置車であったが、この時竹下か直方へ転属していたものと思われる。 1638D 久大本線恵良 S59(1984)/3

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 宮原線を宝泉寺から寄り添ってきた町田川は引治で本流の玖珠川と合流し玖珠盆地へと流れて行く。宮原線玖珠川をカーブした鉄橋で渡り国道を乗り越して久大本線と出会い、複線の形で恵良まで進む。この位置は玖珠盆地の入口で玖珠盆地特有のメサと呼ばれるテーブル状の山々が見渡せる。 228D 宮原線恵良~町田 S59(1984)/3