昭和45年6月、複数の中学校で割当てられた修学旅行団を乗せる修学旅行臨時列車がキハ58系6連で仕立てられた。日本交通公社の号車札が側窓に貼られたキハ58265〔分オイ〕の窓側に陣取って、仲間たちとの会話やゲームもそこそこに車窓風景や対向列車に目を奪われることとなった。九州半周の未知の行路は新鮮な鉄道風景の連続で胸躍り、窓際から離れることはできなかった。 日豊本線宗太郎~市棚 S45(1970)/6/3
中学校の修学旅行は3泊4日の鹿児島・島原・長崎を巡る九州半周の旅程であった。豊肥本線沿線に点在する3校の中学校で修学旅行団が組まれ、大分鉄道管理局が仕立てたキハ58系6連の特別列車が移動の主役となった。汽車の写真を撮りはじめていた私は初めて県外の鉄道模様に触れる機会を得て小躍りして喜んだのは言うまでもない。
九州半周の日程は表の通りで、1日めは豊肥本線滝尾出発(列車は中判田発)、大分で進行方向が変わり日豊本線をひたすら南下し国分で下車する。この日の私の計画は南延岡・宮崎・都城の動力車基地を確認すること、日向路でのC57の牽く貨物列車を撮ることであった。日豊本線の貨物列車はD51が主で旅客機の貨物はとても魅力であった。
2日めは西鹿児島乗車、宇土下車の鹿児島本線を北上する行路で、電化で消えるハドソンC60・C61を捉えることが一番の願望である。出水機関区のD51、C61と宮之城線に入るC56との重連も見てみたい。
3日めは長崎観光で鉄道移動はなく、最終日4日めは長崎で乗車し長崎本線全線走破、鳥栖でスイッチバックし今度は久大本線全線走破で大分着、再びスイッチバックし豊肥本線滝尾下車で旅の終わりとなる。希望は“とびうお”の冷蔵編成を見ること、大村線・佐世保線・唐津線分岐の様子、佐賀・鳥栖・豊後森の動力車基地を確認することであった。
地図にキハ58 6連の乗車位置を示している。豊肥本線で先頭に乗車するも線路配線の関係から日豊・鹿児島・長崎の各本線は最後尾、久大本線は先頭、豊肥本線下車時は最後尾であった。編成は国分~西鹿児島、宇土~長崎間は回送されている。当時鹿児島本線瀬高と長崎本線佐賀を結ぶ佐賀線が健在で、熊本と長崎を結ぶ急行“ちくご”が走っていたことから宇土から長崎までの回送は佐賀線経由ではないかと想像した。しかしそうであるなら私の乗車位置は先頭になることから、回送経路は宇土から鳥栖に出て長崎ということになる。
また地図には分岐する枝線を記している。順路から日豊本線は日ノ影線・細島線・妻線・日南線・吉都線・志布志線、鹿児島本線は指宿枕崎線・鹿児島交通・宮之城線・山野線・肥薩線・三角線、長崎本線は島原鉄道・大村線・佐世保線・唐津線・佐賀線、久大本線は日田彦山線・宮原線がそれぞれ分岐していた。各駅や沿線で分岐の様子を確認するのも楽しみのひとつであった。
級友と車内に収まるやいなや楽しい旅は始まり、非日常の空間はゲームや会話の花が咲く。またとない未知の汽車との遭遇を期待する私は級友たちとの語らいもそこそこに対向列車を撮るために列車の進行方向右側の席を確保する。親から借りたオリンパストリップというシャッターを押せば撮れるコンパクトカメラは低速のシャッタースピード固定のため高速で動く列車には不向きであった。恥ずかしい写真ばかりではあるが、写り込んだあの時代の鉄道風景は貴重な記録となった。また車窓に展開する鉄道模様はその後の見聞の獲得に寄与したと思っている。
■6月3日 滝尾ー大分ー延岡ー宮崎ー都城ー国分
豊肥本線滝尾駅で3校の生徒が揃い修学旅団結団の宣言で旅は始まった。
キハ58系6連仕立ての修学旅行臨時列車は軽快に日豊本線を下って行く。車窓を流れる未知の行路の眺めは新鮮で感激の風景として記憶に残っている。山の斜面のみかん畑と海岸沿いの瓦屋根の家並を見ながら列車は日代を通過。 日豊本線日代 S45(1970)/6/3
豊後と日向の国境、宗太郎峠にかかる直川で上り列車交換のためしばらく停車する。姿を現したDF50はトンネルを出てきたからかヘッドライトを点灯させていた。 日豊本線直川 S45(1970)/6/3
初めて見る景色に興奮しながら宗太郎峠を越えて宮崎県に入る。工業都市延岡に到着。南延岡機関区の48693〔延〕が出張して入換を行っていた。 日豊本線延岡 S45(1970)/6/3
次の南延岡は機関区があり、その位置は列車の進行方向右か左かで車内を移動しなければならない。列車が減速をしたその一瞬、車窓左に憧れの南延岡機関区を確認し、無我夢中でシャッターを押す。扇形庫には日ノ影線用のキハ10・キハ20とC12、本線のD51がずらりと並びとても圧巻であった。 南延岡機関区 S45(1970)/6/3
車窓左側は広いヤードが展開し、48692〔延〕が長い編成を牽き出していた。南延岡機関区のハチロクを通りすがりに2輌を撮影できたのは幸運であった。南延岡は機関区と客貨の中継基地で日豊本線南部の要衝である。 日豊本線南延岡 S45(1970)/6/3
細島線が分岐する日向市に停車。日向市は2面3線のホーム配置で後方に貨物ヤードが見えることから3番線停車の進行左側の車窓である。延岡と南延岡で会ったハチロクが港のある細島まで運用されていた。延岡の旭化成の工場が燃料に石炭を使っていた時代はその輸送で細島線は大忙しだったと聞いた。 日豊本線日向市 S45(1970)/6/3
次の南日向で交換待ち。方向幕に「臨時」と出した列車が通過して行った。線路脇の通信線電柱、「左よし右よし指差呼唱、運転事故防止」の標語、荷物を載せてホーム間を行き来するリヤカーは良き時代の光景として映る。 日豊本線南日向 S45(1970)/6/3
次の美々津では鹿児島発大分行DF50重連の540列車と出会う。旅客車4輌、荷物車5輌の9輌編成であった。DF50重連の長大列車はとても格好良く見える。 540レ 日豊本線美々津 S45(1970)/6/3
高鍋でDF50556〔大〕の牽く貨物列車を追い抜く。列車はこの先、一ツ瀬川を渡ると大分鉄道管理局から鹿児島鉄道管理局に入る。 日豊本線高鍋 S45(1970)/6/3
宮崎を発車する進行左側車窓は宮崎機関区が手にとるように見えた。勾配を登る給炭線が何とも古典的で印象に残っている。機関区の脇を通るとたくさんのパシフィックC57が集結していた。 宮崎機関区 S45(1970)/6/3
次の南宮崎も大きな駅であった。中線に留置されたピカピカの12系客車を見ながら通過する。趣味誌で“新形客車12系”が紹介されていたので知ってはいたが、まさか九州でこんなに早く実車を見ることができるとは思ってもいなかった。記事は『万国博輸送用としてこれまでの客車の常識を打ち破るユニット窓や出入口の折戸自動ドア、電源装置を備えたユニット編成化などを盛り込んでの登場』とあり新たな時代の客車に胸を膨らませていた。 日豊本線南宮崎 S45(1970)/6/3
宮崎以南での期待は対向列車にC57の牽く貨物列車を撮ることであった。列車は山深い信号場に停車、カーブの先からC57貨物が現れるのを願い、級友との会話も上の空で車窓に集中する。来た、お目当ての列車と無我夢中でファインダーに収める。帰って現像してみると驚くことにC57ではなくC55の貨物であった。この時吉松のC55は宮崎まで足を延ばしていたことを知る。 日豊本線門石(信) S45(1970)/6/3
後追いの構図でこの場所が門石信号場とわかる。清武を過ぎると急に山深くなり、本線とはいえローカル色豊かになってくる。長い駅間距離に信号場が多く置かれ、北から田野~青井岳間に門石(信)、青井岳~山之口間に楠ケ丘(信)、霧島神宮~国分間に南霧島(信)が設けられていた。 日豊本線門石(信) S45(1970)/6/3
長い交換待ちはもう1本の列車を期待する。エンジン音が近くなり西鹿児島発博多行キハ80系“にちりん”が通過して行った。ヨンサントオで登場した日豊特急は鹿児島運転所のキハ80系7連で鹿児島本線“有明”と共通運用されていた。 2012D 日豊本線門石(信) S45(1970)/6/3
山之口は島式ホーム先端に信号てこ扱い所があり、「指差呼唱の実行」の標識が建てられていた。駅長が通過列車を見送っている。通過する交換列車は宮崎行“えびの2号”と“からくに”の併結列車であった。この列車の経路は複雑で“えびの2号”は博多発肥薩・吉都線経由宮崎・西鹿児島行、“からくに”は出水発山野線・吉都線経由宮崎行で、分割と併合を繰り返しながら宮崎をめざす。 1113D 日豊本線山之口 S45(1970)/6/3
初日の走行距離は滝尾~大分間5.1㎞、大分~国分間299.2㎞で計304.3㎞であった。「花は霧島、煙草は国分」と歌われた下車駅国分は葉たばこの産地と教えられた。キハ58 6連から中学校3校分約480名の生徒が駅前に集結し貸切バスに乗換える光景はどんなであっただろうか。バスはまだ大隅線開通前の錦江湾沿いを走り桜島をめざす。
2日めの朝、前夜の“まくら投げ”の余韻を味わいながら西鹿児島駅から昨日国分で降りた編成に乗車する。
C12208〔鹿〕が荷物車の入換を行っていた。ホーム上の網のかかった台車とそれを牽引するターレットは大きな駅で見かける光景であった。 鹿児島本線西鹿児島 S45(1970)/6/4
DF50560〔大〕+C5749〔宮〕の重連回送がホームをかすめる。 鹿児島本線西鹿児島 S45(1970)/6/4
DD5151〔鳥〕牽引の特急“あかつき1号”が通過する。 21レ 鹿児島本線湯之元 S45(1970)/6/4
鹿児島本線北上中のお目当ては電化前、最後の活躍をするハドソンC60とC61との出会いであった。待望のハドソンはこの一瞬が最初で最後、貴重な邂逅であった。C6016〔鹿〕は前照灯副灯と煙突両サイドのデフレクタは東北装備のままであった。 荷43レ 鹿児島本線木場茶屋~串木野 S45(1970)/6/4
西方は上下本線と中線の3線構造で、D51235〔出〕牽引の下り貨物列車が退避、上り線は我が分鉄仕立ての修学旅行臨が入線し、下り線は熊本発西鹿児島行“そてつ1号”が通過するところである。 3585レ 鹿児島本線西方 S45(1970)/6/4
東京を前日の11:10に出た急行“霧島”は山陽本線で夜を明かして早朝門司に着く。さらに南下を続け阿久根10:57着で東京からはまる一日の道のりである。阿久根はいわしで有名と車内で習い、以後いわしの丸干しは阿久根産と意識するようになる。 DD51572〔鳥〕 31レ 鹿児島本線阿久根 S45(1970)/6/4
阿久根を出ると赤瀬川(信)を経て次の折口ではD511026〔熊〕牽引の下り貨物が退避していた。熊本機関区のD51は13輌が荒尾~鹿児島間で運用されていた。 961レ 鹿児島本線折口 S45(1970)/6/4
出水機関区に憩うD51達が目に飛び込んで、慌ててカメラを構えるも我が修学旅行臨は容赦なく出水1番線に入線していた。3番線は門司港発西鹿児島行“有明”がすべり込んで来た。 11D 鹿児島本線出水 S45(1970)/6/4
11時26分、我が修学旅行臨はあわただしく発車。出水機関区所属D51536〔出〕の貨物列車を追い越す。3番線は特急“有明”が動き出していた。 5062レ 鹿児島本線出水 S45(1970)/6/4
出発前に下調べしておいた津奈木太郎峠・佐敷太郎峠・赤松太郎峠のいわゆる三太郎越えはよくわからないまま列車は肥後二見まで達していた。鹿児島本線は大動脈だけあって次から次へとD51牽引の貨物列車と行き会う。 D51592〔出〕 6371レ 鹿児島本線肥後二見 S45(1970)/6/4
出水を出て水俣の手前、米ノ津と袋の間に薩摩と肥後の国境と鉄道管理局の局界が引かれ、我が修学旅行臨は肥後の国、熊鉄管内に入る。たぶん進行左側車窓はきれいな海岸線が望まれるのであろうが、私は進行右側の席で対向列車の待ち受けに必死で風光明媚な構図は全く印象に残っていない。肥後高田を過ぎると進行方向右手から一条の線路が近づいて来てそれを乗り越してしまった。肥薩線は進行右から合流するものと思っていたが、鹿児島本線の下を潜って進行左から回り込んで合流しているのは意外であった。工場の煙突が見える八代構内に入ると人吉から顔を見せるC57169〔人〕と並走して歓喜する。 八代客貨車区 S45(1970)/6/4
広大な八代平野に位置する千丁で“はやぶさ”を迎える。ここで会ったDD51は旋回窓が付いて鳥栖の機関車であろうか。 鹿児島本線千丁 S45(1970)/6/4
2日めの列車走行距離は西鹿児島~宇土間187.8㎞であった。一行は貸切バスに乗換えて一路天草五橋をめざす。
■6月6日 長崎ー諫早ー肥前山口ー佐賀ー鳥栖ー久留米ー日田ー豊後森ー大分ー滝尾
最終日は帰路につく。長崎駅は高架デッキ式の駅前広場があってとても都会的に感じたものだ。駅は地図で見るかぎり行き止まりの頭端式と思っていたが、ホームに出る時レールは先まで延びていて、後になって長崎港駅があることを知る。
我が修学旅行臨は長崎本線をひた走る。大村湾に沿った線路は諫早を過ぎると有明海側へと出る。佐賀県に入って最初の駅がここ肥前大浦である。D511082〔鳥〕が牽く貨物列車は長崎本線らしい冷蔵車を組み込んだ長い編成であった。ホームの木製の電柱と電灯、筆字体の琺瑯看板が思い出の鉄道風景として残る。 長崎本線肥前大浦 S45(1970)/6/6
肥前山口で佐世保編成を分けたばかりの1列車“さくら”がDD51574〔鳥〕に牽かれて肥前白石を通過する。筑紫平野の白石町はたまねぎの産地で側線のワムで出荷されるのではないだろうか。長崎本線は肥前が冠につく駅が多く、肥前山口から連続して肥前白石・肥前竜王・肥前鹿島・肥前浜・肥前七浦・肥前飯田と7つ続く。 長崎本線肥前白石 S45(1970)/6/6
佐賀は進行左側の構内に転車台や「佐賀機関区」と看板の付いた気動車の庫があった。進行右側の風景は中線に下り貨物列車が停車し、D51が入換をしている。貨物上屋の向こうに扉を開けたワムが見える。 長崎本線佐賀 S45(1970)/6/6
長崎本線を走破した列車は鹿児島本線と合流して、とてつもなく広大なヤードの一角に入っているのに気づく。大きな扇形庫が2棟並んで鎮座しているのにはさすがに驚いた。見とれているうちに列車は進み、このワンショットだけが鳥栖の記憶の手がかりとなってしまった。 鳥栖客貨車区 S45(1970)/6/6
鳥栖でスイッチバックした列車は久留米から久大本線へ歩を進める。筑紫平野東端の筑後草野で対向列車を待つ。前方の場内腕木式信号機は2本の矢が下がり通過の合図が出ているので急行列車が来ると思っていたら、豊後森機関区の68623〔森〕が貨物列車を牽いて意気揚々と通り過ぎて行った。駅長の挨拶が印象に残る。 692レ 久大本線筑後草野 S45(1970)/6/6
筑後草野から2つめの筑後吉井ではドームが日差しに反射する58625〔森〕の貨物列車が退避し、下り本線を我が修学旅行臨が急行の如く通過で追い越して行く。後方に要塞のような工場の建物が見える。 693レ 久大本線筑後吉井 S45(1970)/6/6
福岡県境の駅、筑後大石でまたもやハチロクの貨物列車と交換する。豊後森機関区は5輌のハチロクが配置され、この日3輌と対面できたのは幸運であった。694レは大分発鳥栖行で牽引機は豊後森でD60から8620に交代するのであろう。 78627〔森〕 久大本線筑後大石 S45(1970)6/6
無煙化まであと4ヶ月に迫った豊後森機関区の白い扇形庫脇を通る。庫には2輌のD60と機械式気動車キハ07が収まっていた。 豊後森機関区 S45(1970)/6/6
豊後中村では化粧煙突の美しいD6057〔大〕が待っていた。大分を出て5時間近くを要しているので各駅で入換と退避を繰り返しながらのんびりと進んで来たのであろう。 6696レ 久大本線豊後中村
水分峠を越えたD6061〔大〕が安堵の表情で野矢へ滑り込んで来る。我が修学旅行臨は水分峠越えに挑む。4つの水分トンネルのひとつめがサミットでキハ58は連続下り勾配を一気に駆けおりる勢いであったが、トンネル内にはまだ先ほどのD60の煙が残って上り列車の奮闘の後が実感できた。分水嶺を越えると後は終着目指して下るだけで、楽しかった修学旅行は幕が降ろされようとしている。 638レ 久大本線野矢S45(1970)/6/6
九州半周でお世話になったキハ58265〔分オイ〕の車内。級友を押しのけながら、協力してもらいながら席を左右に移動し車窓に展開する鉄道風景をフィルムに刻む。私にとってはあの時代の鉄道模様に触れることができた貴重な旅であった。
最終日の走行距離は長崎~鳥栖間132.1㎞、鳥栖~大分間148.6㎞、大分~滝尾間5.1㎞の計285.8㎞であった。修学旅行団解団の宣言で旅の幕は降ろされた。