転轍器

古き良き時代の鉄道情景

527列車 オハ35632の車内から

 527列車は日豊本線下り門司港発大分行である。この列車に行橋から大分まで乗車し、途中の交換列車や車窓にカメラを向けた。列車内は人が写るので撮ることはなかったが、この時はどういうわけかオハ35の車内を1枚だけ撮っていた。乗客が少なくなったところで遠慮がちに構えた構図にはニス塗りの座席と窓枠、網棚とその独特な形の受け、天井のきれいな曲線に並ぶ蛍光灯が写っている。端面の形式標記はオハ35632と読め、門司港客貨車区の車輛であった。車内の吊広告は「万国博には国鉄がべんり 会場にもスーッと行けます」のキャッチコピーで旅の案内をうたっている。味のある旧形客車の車内と制服制帽の車掌さんが検札に来る光景は当時は当たり前の日常であった。 オハ35車内 S45(1970)/8/3

 この時はどういう訳かホームに設けられた箱庭のような庭園にカメラを向けていた。鶴と亀も写っている。くすのきを模した看板で最寄りの「本庄の大楠」が案内されている。嵩上げされた石積み風の擁壁のホームが綺麗だ。改札口の柵はパイプ状でこども達が遊んでいる。列車が写っていないので顧みることのないネガであったが良き昭和40年代の情景が切りとられていた。 築城17:03発 S45(1970)/8/3

 行橋を16:51に発車した列車は1時間と少々で柳ヶ浦は1番線に入る。3番線は上り大分発門司港行532レが待っていた。電柱に付けられた青地に白文字の「やなぎがうら」は味のある駅名標だ。1輛めのオハフ61の向こう側の窓には西日を避けるよろい戸が下がっているのがわかる。ホーム擁壁面は蒸機時代の面影がわずかに残る。 柳ヶ浦18:18発 S45(1970)/8/3

 杵築は3番線に入り、2番線で退避するED745〔大〕牽引の貨物列車を追い越した。ED74は昭和43年10月に6輛全機が敦賀第二機関区から大分運転所へ転属となり、日豊本線ブルートレイン“彗星”と貨物列車の運用に充てられていた。 杵築19:01発 S45(1970)/8/3

 527列車は杵築の写真で後ろ2輛、この写真で前4輛が見えているので7輛編成であったことがわかり、私の乗車位置は5輛めであった。杵築を出てすぐの右カーブ、後に有名撮影地となった第6八坂川橋梁にさしかかる。窓から身をのり出すとED76重連で疾走していた。柳ヶ浦でED76が1輛前に付いて重連となっていた。

 きれいなホームの日出に到着する。博多行1506M“ゆのか4号”の通過を待つ。日出は日本一の大蘇鉄があることから駅のホームにも蘇鉄が植えられて旅行者の目を楽しませてくれる。駅のホームは一見高架のような高台にあり、海側の貨物側線は少し低くなった位置に敷かれている。その貨物側線はさらに勾配を下って地平に下り、駅前の道路を横切って倉庫や工場の岸壁に続く引込線となっていた。辺りは暗くなりはじめて、ヘッドライトを輝かせた475(457)系“ゆのか”が軽快なサウンドを残して通り過ぎて行った。退避している貨物列車の編成にX形アングルの扉が目印のワム21000が組込まれていた。 日出19:16発 S45(1970)/8/3

 すっかり夜の帳が下りたところで豊後豊岡に着く。背後に見える山々は鹿鳴越連山で、その昔豊後と豊前を結ぶ道がこの山を越え、フランシスコ・ザビエルが布教の際に通ったとされることから「ザビエルの道」と呼ばれている。ここで杵築行1530Mと交換する。後部にも乗務員の姿が見え、窓からスカートにかけてコードが張られている。何かの測定であろうか。乗客は冷房がないので窓を開けて身を乗り出している。 豊後豊岡19:22発 S45(1970)/8/3

 昭和45年4月号の時刻表から乗車した527列車をふりかえる。色が付いているのがカメラを向けた駅である。行橋で乗車して15:51発、築城17:03、柳ヶ浦で約14分間停車している間に機関車を連結して重連となり18:18発、杵築19:01、日没後暗くなり始めた日出19:16、豊後豊岡19:22で辺りはすっかり暗くなって撮影は終了となったようだ。大分19:54着で乗車距離108.0Km、乗車時間3時間03分であった。

 時刻表を見る楽しみのひとつに駅名の前に並ぶ駅設備を表わす記号があった。門司・小倉・大分は赤帽がいる・洗面所がある・弁当を売っている・電報が打てるのマークが4個、別府は3個、中津は2個、弁当だけは行橋と宇佐である。記念スタンプの設置駅、ホームの立ち食いそば・うどんのある駅、名産と駅弁も欄外に記載されて旅情が感じられた。印字された銘菓名産の数々は今でもその名前が続くものがあって歴史を感じることができる。