転轍器

古き良き時代の鉄道情景

大分交通宇佐参宮線

 宇佐参宮鉄道は官設鉄道宇佐駅を挟んで宇佐神宮のある宇佐町と周防灘に面する高田町を結び、大正5年3月1日に開業した。大分交通宇佐参宮線となったのは、国東・宇佐参宮・耶馬渓・豊州の各鉄道を合併した別府大分電鉄が大分交通として商号変更した昭和20年4月からである。大分交通は鉄道・軌道線合わせて100Km以上の路線を持つ大私鉄であったが、たび重なる災害やモータリゼーションの進展によって宇佐参宮線は昭和40年8月20日に廃止された。

 宇佐から宇佐八幡へ行く線路は大きな弧を描く築堤で日豊本線と国道10号線を乗り越していた。廃止から13年経っていたが築堤の橋脚だけが残っていた。トラスビーム架線柱が橋脚よりも高く見えるのは、複線電化の際に路盤が嵩上げされたのではないだろうか。 日豊本線宇佐~西屋敷 S53(1978)/9

 宇佐参宮線の線路の築堤だけ撤去され、国道と日豊本線を跨ぐ橋脚は取り残されていた。画面左が宇佐構内、右が立石峠方で日豊本線と国道10号線は並走する。 日豊本線宇佐~西屋敷 S53(1978)/9

 宇佐参宮線宇佐神宮参拝で乗ったことがある。小学校低学年の頃ではっきりとした記憶はないが終点の駅は広く車輛がたくさん停まっていた印象が残っている。父親が遺した人物ばかりのネガの中に1枚だけ宇佐駅下りホームの構図(昭和39年1月頃)があった。画面右の宇佐参宮線から日豊本線下り列車に乗り換える際のスナップと思われる。カメラを右に振れば「宇佐神宮へ」を掲げる社の形の待合室と、黄色と緑の大分交通カラーの気動車が写っていたであろうと気持ちが逸る。おぼろげな宇佐参宮線への思いを語りたく、現役時代の写真を北九州市の加地一雄さんにお借りした。

 「宇佐八幡行」のサボを掲げたキハ502“みやばと”が急カーブで宇佐構内に入ってきた。扉が開いているのに驚く。行き違い線が収束する辺りに転轍小屋が見える。キハ502は宇佐参宮線廃止後中津へ移り、エンジンを降ろしてホハフ502となる。 宇佐 S40(1965)/1/15 撮影:北九州市 加地一雄さん

 宇佐参宮線のホームは宇佐神宮を模した上屋が独特であった。「豊後高田行」サボを付けたキハ503“かみばと”は前面3枚窓で運転席のひさしが精悍な顔つきを作っている。ホームに積まれた荷物は国鉄線への積換えだろうか。国鉄大分交通の渡り線が見える。 宇佐 S40(1965)/1/15 撮影:北九州市 加地一雄さん

 DTD編成は宇佐を出ると大きな弧を描いて18.2‰の勾配を上り、日豊本線と国道10号線を乗り越す。大勢の参拝客がハニフのデッキにあふれている。 キハ502+ハニフ114+キハ503 宇佐~橋津 S40(1965)/1/1 撮影:北九州市 加地一雄さん

 客車長大編成はL形ディーゼル機D21とD22のプッシュプル運転のようだ。D21は昭和28年製で国東線から移動、D22は昭和30年製でこの2輛とDL化後も温存されたクラウスBタンク26(形式10)で国鉄乗入れ列車に備えたと聞いた。この位置は画面右側に国道10号線の桜並木が通り、線路跡を偲ぶことができる。 宇佐高校前~宇佐八幡 S40(1965)/1/1 撮影:北九州市 加地一雄さん

 神社のような造りの宇佐八幡駅舎は門前町にふさわしい佇まいの味のある雰囲気が漂う。広いホームと貨物上屋の側線、振り返れば留置線や車庫が並び、8.8Kmの路線にしては規模の大きい車輛基地を備えた終着駅ではないだろうか。私のかすかな記憶を呼び覚ましてくれた宇佐八幡の情景に陶酔している。 宇佐八幡 S36(1961)/8/28 撮影:北九州市 加地一雄さん

 宇佐付近の国道10号線を通るたびに古き良き時代に思いを馳せていた。宇佐参宮線が輝いていた鉄道情景を堪能することができ、貴重な記録を提供いただいた加地一雄さんに感謝申しあげます。