転轍器

古き良き時代の鉄道情景

筑豊本線 遠賀川橋梁の両岸

 若松発直方行気動車列車は遠賀川を渡って直方平野を南下する。複々線の線路は中間から先は複線となる。石炭輸送全盛期の筑豊本線は折尾から中間まで複々線、中間から筑前植木までは複線+単線の3線区間であったことを知る。 筑豊本線筑前垣生~筑前植木 S47(1972)/8/11

 D50140〔直〕がセキ6000の石灰石返空編成を牽いて迫って来る。中間から筑前植木までの複線に1線増設されたのは大正12年で両側が複線、中線が単線で使われたらしい。昭和29年頃に1線撤去され複線に戻された歴史がある。手前の線路は香月線。 筑豊本線中間~筑前垣生 S47(1972)/8/11

 若松機関区のC55は激減し、旅客列車は新しいナンバーのD51が牽引することが多くなった。3線が敷かれていた時代は画面右下に見える香月線も新手辺りから3線構造となり、若松へ向かう石炭列車は筑豊本線をアンダークロスして中間構内西側の筑豊本線上り線と接続する貨物最優先でレイアウトされていた。 筑豊本線中間~筑前垣生 S47(1972)/1/6

 DD51764〔直〕の牽くセメントクリンカ専用ホキ6800編成が遠賀川橋梁上り線を行く。上下線の間隔が広く、この間にかつての線路跡と煉瓦の橋脚が残っていた。上り線はかつての3線の外側(下流側)にコンクリート橋で架け替えられたようだ。 5292レ 筑豊本線中間~筑前垣生 S47(1972)/8/11

 トラス橋の下り線を行く返空編成は遠賀川左岸、筑前垣生寄りで撮る。筑豊本線中間~筑前垣生 S47(1972)/8/11

 DD51763〔直〕が返空セラを従えて筑前垣生駅を通過する。遠く遠賀川の向こうに中鶴炭鉱のボタ山が見える。 1690レ 筑豊本線筑前垣生 S47(1972)/8/11

 3線から1線撤去されて複線化の際は遠賀川橋梁では上り線が、筑前垣生~筑前植木間では中線が撤去されたと聞く。上下線間の開きはその名残りであろうか。 筑豊本線筑前垣生~筑前植木 S47(1972)/8/11

 初めて筑豊本線に乗車した時、上り列車から筑前垣生手前でシャッターを押していた。手ブレで見づらい写真ながら確かに上下線の間にもう1線分の用地が実感できる。この時の牽引機はC5551〔若〕であった。 1734レ 筑豊本線筑前垣生~筑前植木 S45(1970)/8/3

 筑前垣生駅でもう1カット撮っていた。駅の前方に見える遠賀川橋梁は上下線ともトラス橋なのがわかる。上り線は昭和45年の時はトラス橋で、47年訪問時はコンクリート橋になっていたのでこの間に架け替えられたものと思われる。 筑豊本線筑前垣生 S45(1970)/8/3

  「石炭列車と筑豊の鉄道 複線・三線複々線」(鉄道友の会九州支部資料/大塚孝著/平成10年4月)によると、 3線時代の運転形態は下り線が貨物(石炭)と旅客の一部、中線(単線)は上下旅客と貨物(石炭)の一部、上り線は貨物(石炭)との事であった。3線時代の筑前垣生駅の線路配置は上り線にホームは無く、単線の中線と下り線でホームを挟んでいた。中線が撤去された際は駅部分は外側の上り線が撤去された形となり、現上り線外側の空地はその名残りではないかと想像する。写真からは駅舎とホームの間は2線分の間隔が感じ取られる。

 D51206〔若〕は鹿児島電化の昭和45年10月、出水から若松にD50の後継機として転属している。筑豊本線は本来D51は入っていなかったが、D50とD60の検査切れで各地からD51を迎え入れなければならなかった経緯がある。 8653レ 筑豊本線筑前垣生~筑前植木 S47(1972)/8/11

 かまぼこ形ドームのD511064〔若〕は若松工場で出場した貨車の試運転運用に就いていた。筑豊本線では営業の貨物列車とは別にぴかぴかの出場貨車を連ねた試運転列車が魅力であった。 試8752レ 筑豊本線筑前垣生~筑前植木 S47(1972)/8/11

 セキ6000群+セラ1群+ホキ8000群の石灰石編成は船尾発の後藤寺線糸田線伊田線筑豊本線鹿児島本線ルートの専用列車である。直方から先の牽引機は9600・D50・D51D60と何れが来ても絵になる列車であった。威風堂々一番人気のD5110〔直〕と会えたのは幸運であった。 8592レ 筑豊本線筑前垣生~筑前植木 S47(1972)/8/11