転轍器

古き良き時代の鉄道情景

飯塚と新飯塚にて

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 筑豊本線上り列車の車窓から3番線に停車する上山田線の列車が見えた。機関車は半年前に直方に来た、久大本線最後の罐、D6065〔直〕で門ワカのオハフ61を従えていた。上山田線は4往復の客車旅客があり、上り飯塚方面は全て朝に集中していた。バック運転得意のD60が本領を発揮する仕業である。上山田線の臼井には巨大なホッパーがあり、そこで撮りたいと思っていたが行程が組めず残念であった。 824レ 飯塚 S47(1972)/3/30

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 この年の1月に若松機関区で会ったD51225〔若〕と再び遭遇。この時期、筑豊本線を闊歩したパシフィックはD51に置換わっていた。列車の窓から後方を振り返ると、筑豊の象徴、住友忠隈炭鉱のボタ山が写っていたにちがいない。先を急ぐ旅で飯塚でのスナップはこの2枚だけであった。 飯塚 S47(1972)/3/30

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 筑豊本線の前身、筑豊興業鉄道(後に九州鉄道)は線路を若松から直方、飯塚、上山田へと建設する間に、途中炭鉱への支線が続々と延びていった。明治26年には開通していた鯰田と飯塚の間に本線から分岐した石炭積込場への枝線が作られ、そこは後に芳雄駅となった。石炭搬出の支線は若松方からの分岐のため飯塚方面へは出られなかった。この不便の解消に芳雄駅を本線分岐地点に移設し、そこが後の新飯塚駅になったと聞く。後藤寺線はその分岐から派生したものと思われる。 筑豊本線新飯塚 S47(1972)3/30

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 猛スピードで迫って来た来た貨物列車の先頭は、何と先ほど飯塚で見たD6065〔直〕であった。上山田線の朝の運用を終えたD6065は客車を残して転線、この編成に付いたものと思われる。貨車は冷蔵車・コンテナ車・タンク車と多彩で若松工場で整備された貨車群の試運転ではないかと想像する。 試8752レ 筑豊本線新飯塚  S47(1972)3/30

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 間髪を入れずに撮った後追いに新飯塚構内が写っていた。中線は貨物列車の退避ではなく、貨車の留置に使われていた。遠くに見えるのは後藤寺線気動車かもしれない。この時すでに構内を乗り越す国道201号線跨線橋はできていた。駅周辺は飯塚よりも賑わいがあるようだ。 筑豊本線新飯塚  S47(1972)3/30

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 逆行D6034〔直〕の牽く長い長い石炭列車が新飯塚2番ホームを高速で通過する。ホームの白線付近では機関車と石炭車の風圧で飛ばされそうになるくらいの勢いを感じた。直方から上山田線運用の機関車は旅客も貨物も上山田行は逆向、直方行は正位となっているようだ。D6034はもと日豊本線立石峠の補機を務めた柳ヶ浦機関区の罐だ。電化前の昭和42年9月に直方機関区に転属し、筑豊本線鹿児島本線上山田線を走るようになった。 上山田行1991レ 筑豊本線新飯塚 S47(1972)3/30