転轍器

古き良き時代の鉄道情景

直方西部

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 直方駅勝野寄りに構内を見渡せる「御館橋」という跨線橋があり、ここは絶好の撮影場所であった。機関区の扇形庫脇に信号扱い所があり、「〇〇列車接近!」など通信の音声が聞こえる不思議な場所でもあった。そんななか、列車番号は聞きとれなかったがD6046〔直〕がセラ・トラ・トキの短い編成を牽いてやって来た。セラには炭鉱で使うであろう坑木が積まれていた。発駅はどこで着駅はどこだったのか知る由もない。 直方西部 S46(1971)/8/10

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 多賀陸橋の下から勝野方を望む。右の丘は直方市石炭記念館の櫓がそびえ立っている。転車台の桁を伸ばしたような(トラバーサーの桁かもしれない)跨線橋筑豊本線伊田線の複線4線と引上線1線を跨いでいる。D6071〔直〕の牽く飯塚発若松行736レが接近してきた。 直方西部 S46(1971)/8/10

 広大で長大な直方構内は東部、中部、西部に区分けされ、操車場・動力車基地・旅客駅が渾然一体となって機能していた。地図で見ると直方構内は北西から南東に線を描いているので気動車区側筑前植木寄りが西部構内、機関区側勝野寄りが東部構内と勝手に思い込んでいた。ある日その認識は誤認ということに気づかされた。

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 「直方駅80年のあゆみ」(直方駅編纂/昭和46年)に掲載された線路配線図を見ると、筑前植木側は「東」、勝野側は「西」と記されている。はて、何故か?この件は北九州市大塚孝さんにお訊ねし、以下の回答をいただいた。
 ■停車場構内の東・西について
    起点方を東、終点方を西と呼ぶ。配線図・構内平面図は起点方を左に描く(地図は北が上)。
     例)久大本線では方位の西が東に筑豊本線では方位の北が東となる。
    車輛運用表も起点が左となる。
    東部・西部の読み 国鉄部内ではとうぶ・さいぶと読んでいた。 
     例)小倉西部(こくらさいぶ) 戸畑西部(とばたさいぶ) 香椎西部(かしいさいぶ)

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 29611〔後〕の後方に2階部分がとび出した信号てこ扱い所が写っている。配線図で見ると扇形庫右にてこ扱い所(第一種)の記号が描かれている。四角囲みの中の─はてこ、・は操作する人を表わしているとのこと(大塚孝さん説明)。偶然にも機関車の後方に写ってくれていた施設は直方西部の象徴といえるのではないだろうか。 直方西部 S45(1970)/8/3

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 御館橋と並んで架かる「多賀陸橋」から構内を望む。貨物列車の通る横の建物はかつての信号所かもしれない。その手前の煉瓦の橋脚は以前の跨線橋のものであろうか。御館橋の向こうに直方西部信号てこ扱い所が見える。 直方西部 S46(1971)/8/10

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 本線を塞いでDD13が入換を行っている。幸袋線用に配備されたDD13は直方構内で9600に混じって活躍していた。御館橋の向こうに跨線橋の橋脚らしきものが見える(上記写真の反対側の橋脚)。手前の箱はリレーボックスであろうか。 直方西部 S45(1970)/8/3

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 形式入プレートを付けた79635〔直〕が煙を噴き上げて石炭車編成を牽き出してきた。線路際には名前はわからないがさまざまなアクセサリーが配置されているのがわかる。 直方西部 S46(1971)/8/10

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 機関区の出区線から出てきたC11329〔直〕は転線して伊田線列車の先頭に付くものと思われる。この角度から見ると伊田線の上り線(左から2線め)は筑豊本線の下り線に渡ってさらに筑豊本線上り線に出るように設計されているようだ。石炭列車の流れを最優先した結果と思われる。伊田線の複線と筑豊本線の複線は直方西部で複雑に絡み合う線路配線の妙が見てとれる。 直方西部 S46(1971)/8/10

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 かまぼこ形ドーム、石炭増炭枠、換気窓の装備が特ちょうのC11302〔行〕が転線のため出てきた。線路沿いの家並みに風情を感じる。 直方西部 S46(1971)/8/10

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 昭和44年3月現在直方機関区はD60ー11、D51ー10、9600ー19、C11-5、DD13ー3の計48輛が配置されていた。D60D51筑豊本線上山田線の客貨、9600は筑豊本線糸田線後藤寺線宮田線・漆生線の貨物、C11は伊田線宮田線上山田線の旅客にそれぞれ運用されていた。 39625〔直〕 直方機関区 S45(1970)/8/3

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 直方機関区の扇形庫は23線ある大規模サイズで、2段屋根に煙突が並ぶ様は威容を誇っていた。 C11294〔行〕 直方機関区 S45(1970)/8/3

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 直方駅本屋と1番ホームの間に3本の貨物本線があり、そこに並ぶ貨物列車の編成は圧巻であった。枝光から船尾に向かうホキ8000の空車返送列車は直方から牽引機が変わり、9600重連が連結され伊田線へと入って行く。 39601〔直〕+59681〔行〕 直方 S46(1971)/8/10

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 直方駅を貫通する本線は10線あり、2面4線の旅客線以外は全て貨物線であった。入換仕業の49619〔直〕の手前にかわいいモーターカーが控えている。セラの向こうはD51の機影も見える。 直方 S46(1971)/8/10

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 直方構内は東西3Km以上の長さがあり、東部・中部・西部にそれぞれの機能が割り当てられて効率的な石炭輸送が行われていた。大塚孝さんの解説から各所の役割をふり返ってみたい。

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 直方東部は本線と気動車区の間に山元への返空編成のヤードが設けられていた。大塚孝さん曰く、中部上り仕分線の積車編成は動脈で、東部下り空車編成は静脈であると。若松や戸畑からの石炭車、外浜や枝光からのホッパ車はこのヤードに入り、そのまま筑豊本線宮田線伊田線糸田線等各最寄りの発駅へ進める配線になっている。東部にも給水と転車台があり、ここで機関車交換を行う列車もあるようだ。東部から中部、機関区の移動は本線横断になるが、一気に渡れないので上下線間に機待線が設けられていた。

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 直方東部は到着線5線と仕分線4本があり、それぞれ出発信号機がある。本駅へは下り本線ではなく、図に表示のある「下り出発兼通路線」を通るとのことで、直方構内の東部~本駅間は複々線の構造であった。東部の信号てこ扱い所の記号は西部とちがって第2種連動装置のようである。

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 中部はホーム側上り線と上り仕分線1~5番、6~13番が合流する辺りに中部信号てこ扱い所が見える。上り仕分線は行先別仕分で、石炭車の積車は「盈車えいしゃ」と呼ばれていたと聞く。図面には「車輛留置時の注意」、「指差確認見たか良いか」、「ブレーキ確認」、「踏切支障注意」、「飛び乗り禁止」、「気動車入出区注意呼びかけ」等々細かな記載があり、見ていると鉄道現場に居るような錯覚に陥る。大塚孝さんの解説に感謝申し上げたい。

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