転轍器

古き良き時代の鉄道情景

石炭列車仕分線


 直方駅のホームから駅裏口へ通じる跨線橋が当時直方構内を見渡せる撮影ポイントであった。何気なく構内を撮ったスナップに石炭輸送全盛期に賑わったであろう石炭列車仕分線が写っていた。写真左の群線がそれで、なるほどセフやワフがぽつんと置かれているので積車編成の後部に連結されるのであろう。構内は画面奥まで続き気動車区までは2㌔もある。 S45(1970)/8

 直方は石炭集散駅として実にうまく貨物列車が流れるよう設計されている。旅客は島式ホーム2本の4線に対して、貨物線は本屋側に3線、島式ホームの間に中線1線、機関区側に3線の計7線が敷かれていた。
 後年、13線の石炭列車仕分線のことが気になって記述や写真がないか調べた際に出会ったのが「直方駅80年のあゆみ」(直方駅編纂/昭和46年)で全盛時代の隆盛を知ることができ、航空写真でその全貌が理解できたのは宝物を探し当てたようであった。

 「直方駅80年のあゆみ」によると昭和9年当時、13線の仕分線は満線状態であったという。側面のリブが独特の形をした木造石炭車のセム1が連なる光景を想像、全盛期の往時に思いをはせる。直方は筑豊の炭坑から集まった石炭車を取りまとめ、行先別に組成して積出港に送り出す重要な中継駅であった。石炭輸送の中継駅は飯塚、後藤寺、伊田、金田、折尾、遠賀川等があったが、その中心的役割を担うのが直方である。駅の北側には13線の仕分線兼出発線が設けられ、伊田線宮田線・幸袋線・漆生線・後藤寺線糸田線上山田線筑豊本線からの列車が押し込まれて、若松・西八幡・戸畑・門司港と各方面別に仕立て直されて継走していた。仕分線の有効長は石炭車を押し込んで組成した際に1,600㌧になるように設計されていたとも聞き、15㌧積なら自重も加えて60輛以上の石炭列車が闊歩していたのであろう。