昭和44年3月時点で若松機関区のC55は7輌(3・19・46・51・52・53・57)が在籍し、筑豊本線と上山田線の客車運用に就いていた。45年以降はC57との置換えが始まり、新庄からのC57170、大分からのC5753、豊岡からのC5752が全検期限まで使われた。47年3月最後の2輌(52・57) が吉松に転出して若松機関区からC55・C57は全滅した。冷水峠で迎える伝統の客車列車はC55牽引を期待していたが、時すでに遅くD51にとって代わられていた。 原田発若松行728レ 筑豊本線筑前内野~筑前山家 S47(1972)/3/30
冷水峠は筑後と筑豊を結ぶ交通の難所で、原田から筑前山家にかけて筑紫平野は終端となりサミットの冷水トンネルをはさんで筑前内野まで25‰の山越えとなる。D5142〔若〕が上り勾配を駆けあがる。 筑豊本線筑前内野~筑前山家 S47(1972)/3/30
前日の熊本での撮影を終えて大阪行急行202レ“屋久島2号”に乗車、ほとんど眠らぬまま鳥栖からは長崎・佐世保発門司港行夜行1420レに乗換えて原田着、原田からは筑豊本線上り一番列車門司港行1722レで、まだ夜も明けやらぬ午前5時27分筑前山家の駅に降り立った。小雨の中を歩き峠に着いて1890レの通過時刻になった頃やっと空が白みはじめ、安心する。山の向こうに煙が見え始めた。2本の煙が上がっているか?いや1本しか見えない。ドラフトが近くなりカーブの先から現れた列車は何と本務機はDD51で愕然とする。昭和47年春、筑豊本線にはかなりのスジにDD51が入るようになっていた。 1890レ 筑豊本線筑前内野~筑前山家 S47(1972)/3/30
D60が懸命に押している。しかも逆向きで。なぜ逆向きなのか?など考える余裕もなくただただ目の前の補機付貨物列車の迫力に感動していた。1890レの後部補機は飯塚から209レ“天草”の後部補機を務めるため逆向きに付くことを後になって知る。これまで後発のC55牽引728レの後部に付いて飯塚まで回送されていたが、今回のダイヤ改正で“天草”の飯塚着が早くなったので先発の1890レに代わったものと思われる。 1890レ 筑豊本線筑前内野~筑前山家 S47(1972)/3/30
D60はパイプ煙突とデフの形状から63・64・67の何れかと思われる。
D51の牽く若松発原田行723レが峠の高所を下る。夜も眠らず赴いた冷水峠は旅客牽引のC55がD51に、貨物牽引のD60がDD51に代わっていたのは残念であった。もう少し早い時期に来るべきであったと後悔する。 筑豊本線筑前内野~筑前山家S47(1972)/3/30