転轍器

古き良き時代の鉄道情景

立石峠

 立石峠は宇佐から立石にかけて25‰の勾配が立ちはだかる日豊本線の難所のひとつであった。電化前は柳ヶ浦機関区のD60が前付けや後押しで補機を務めていた。西屋敷を出た長い編成の貨物列車は前補機D6066〔柳〕、本務機D50341〔柳〕の兄弟機が立石隧道めざして力を合わせる。 569レ 日豊本線西屋敷~立石 S36(1961)/8/22 撮影:平瀬清隆さん

 国東半島のつけ根を横断する宇佐から杵築にかけて23.4Kmの区間は、下り列車は立石から先は下り勾配、上り列車は杵築から立石隧道まで長い上り勾配が続く。DF50の牽く編成の長い“高千穂”や“日向”は停車駅の杵築から補機を付けていた。DF50先頭の門司港発大分行下り517レはテンダ標識灯赤色板が凛々しいD6059〔柳〕が補機を務めていた。 日豊本線西屋敷~立石 S36(1961)/8/22 撮影:平瀬清隆さん

 D6059〔柳〕は立石までの補機運用を終え、単機で宇佐もしくは柳ヶ浦まで戻るところで、坂を軽快に下っているように見える。 日豊本線西屋敷~立石 S39(1964)/8/28 撮影:平瀬清隆さん

 幹線系で使われたD50を下級線区へ転用するため、動輪重量を先輪と1軸増した従輪に移して軸重変更されたのがD60である。昭和29(1954)年から30(1955)年にかけて久大本線投入用として大分に10輛のD60が新配置された。D5059はその内の1輛で、D6066と共に立石峠の補機として柳ヶ浦へ配置変えとなり、直方から転属のD6034を加えた3輛で電化まで立石峠の補機として活躍した。電化完成後、34は直方へ行くも、59と66は揃って柳ヶ浦で最後を迎えた。