転轍器

古き良き時代の鉄道情景

キハ80系“にちりん”編成の変遷 昭和43年10月~55年9月

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 キハ80系“にちりん”は昭和43年10月登場から電車に置き換わる昭和55年9月まで約12年間運転された。これまで編成について気にとめることもなかったが、かつて撮影したD511081の写真(転轍器2022年4月9日掲載)の後方にキハ80+キハ82が写っているのに気づき、この2輛は何なのか時刻表を遡って調べることとなった。(日付は手持ちの時刻表の発行月)

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 国鉄ダイヤ全面大改正と呼ばれたヨン・サン・トオで九州内特急“有明”に次いで日豊本線回りの“にちりん”が誕生した。時刻表の編成図は食堂車は当面欠車と記されている。当時電車化で捻出されたキハ80系で新たな編成が組まれたが、食堂車だけは他線区との兼合いで間に合わなかったようだ。

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 昭和45年10月、鹿児島電化によるキハ80系の捻出で“にちりん”は隔日の増結が行われるようになった。増結車キハ82+キハ80は下り向きに連結され、博多~鹿児島間全線の運用であった。写真にたまたま写っていた大分でのキハ82+キハ80は何かの事情で外されたものではないかと考えられる。

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 号車番号は通しになったが、9輛編成の運用にはまだ鹿児島運転所のキハ80系の必要輛数が揃っていないのか、隔日の増結は継続されている。

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 昭和47年10月改正で鹿児島運転所にキハ80系が増備されて“にちりん”の変則運用は解消された。この時、編成の向きが変わり晴れて9輛編成となった。キハ82+キハ80の連結位置は上り向きに変わった。

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 昭和48年3月、鹿児島運転所のキハ80系は24輛が配置されていた。想像ではあるが、9輛編成2本が組めて予備車も揃って通年9輛編成が可能となったものと思われる。キシ8016・17は昭和43年以降に鹿児島に来ていることから“にちりん”投入用であったと思われる。キシ8017はその後他区へ転じた模様。キハ80901はキロ80からの改造車で外観はグリーン車の窓配置であった。

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 特急“にちりん”7+2、9輛編成の素晴らしい写真を「G鉄グラフィティ」さんからお借りした。南宮崎電化目前、消え行く蒸機にしか目が向かなかったあの頃、気動車特急の編成美を見事に捉え、記録されたG鉄さんに敬意を表したい。 4011D“にちりん1号” 日豊本線幸崎~佐志生 S48(1973)/9 撮影:G鉄さん

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 “なは”と併結運転の大阪~宮崎間“日向”は、“なは”の電車化で南宮崎電化までのわずかな期間、単独運転となり編成も増強された。電化とともにキハ80系は余剰が出て向日町から鹿児島への転属車は新たな肥薩線経由の特急に充てられることになる。

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 南宮崎電化後、“にちりん”編成はこの時誕生した“おおよど”と共通運用となり、食堂車が外されて7輛編成となった。昭和50年3月改正は列車番号が変わっただけで編成に変化はなく、55年10月改正前まで運転された。

 改めて編成をひも解いてみると、車輛の都合や運用の流れで多様な変遷を辿ってきたことを思い知らされた。そしてまた、DF50やD51が闊歩したのと時を同じくして華麗なキハ80系9輛編成が舞っていたとは、在りし日を思わずにはいられない。

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