転轍器

古き良き時代の鉄道情景

DF50ー昭和40年代後半の日豊本線ー

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 日豊本線上り1本だけの本線通しの長距離鈍行が健在であった。西鹿児島5:11発、大分16:03着16:20発、門司港21:02着で日豊本線全線(一部鹿児島本線含む)476.9㌔を16時間かけて走破する壮大な行路であった。かつての540レのなごりでDF50重連の仕業は続いていた。 530レ 日豊本線大分~高城 S47(1972)/10/28

 昭和30年代の幼少期、祖母の家が津久見にあったことから日豊本線の列車に乗る機会に恵まれていた。南へ向かう茶色い客車列車の先頭に立つのは蒸気機関車ではなくディーゼル機関車であった。塗色は30年代は茶色であったと思われるが色の記憶は定かではない。ディーゼル機関車の列車は客車の窓を開けて身を乗り出しても目にシンダが飛び込んでくる心配はなく、窓から走行中の機関車を存分に楽しむことができた。鉄橋を渡る際は客車の下を見ると橋桁が見えるわけでもなく列車が宙を舞っているようでスリルがあった。海辺では軽やかなジョイント音とともに線路に沿った電柱が過ぎ去るたびに上がっては下る通信電線のパターンが心地よく感じられた。山間に入ると機関車のエンジン音はたちまち苦しくなり速度が落ちてくるのがわかる。次から次へとくぐるトンネルではトンネルポータルの赤煉瓦が明かりに照らされてすじ状に流れていく光景がとても印象的であった。日豊本線はトンネルの多さと急勾配の連続で九州ではいち早くディーゼル機関車が投入された線区であった。

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 中学生になって蒸気機関車のように喘いでいたあのディーゼル機関車はDF50形式ということを知る。昭和44年、汽車の写真を撮りに初めて大分運転所を訪れる。石炭と油の匂いが鼻をつく活気あふれる構内にはD60やC58、8620と共にDF50が佇んでいた。この時日豊本線の電化は幸崎まで到達し大分運転所で大所帯を誇ったC57群はDF50にとって代わられていた。昭和44年当時DF50は21輛を擁し、日豊本線は亀川から西鹿児島、一部鹿児島本線は伊集院までと広範囲で運用されていた。運転所で聞いた話ではゴーマルの保守は大変で故障に備えて予備機のC57は手放せないとのこと。大分にまず来ることのない宮崎機関区のC57や鹿児島機関区のC57が時々姿を見せていたのはDF50のトラブルや増発のからみであったと思われる。

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 DF50533〔大〕は西部引上線で機回しの通路が開くのを待っている。車体は排煙で煤けた感はあるものの第一線で活躍する貫禄を保っている。前面窓のHゴムは黒、貫通扉窓は白であることがわかる。 大分 S48(1973)/8/13

 DF50の魅力は朱色とグレイがとてもマッチする箱形車体にずらりと並んだ正方形のエアフィルターと屋上のモニター窓、前面3枚窓のマスクであろうか。10系寝台車の先頭に立つとさまになるし、動力車基地でのD51やC57との並びも絵になる。“富士”や“彗星”のヘッドマークを掲げた姿はまた格別である。南宮崎電化が迫る昭和40年代後半は蒸気機関車ばかりに目が行き、気づいてみたらDF50が写ったネガはごくわずかであった。

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 DF50553〔大〕は昭和35年9月大分に新製配置、49年4月の南宮崎電化による宮崎移動まで約13年半、「大」の区名札を掲げて日豊本線で活躍した。 大分運転所 S47(1972)/2/11

 DF50が配備された大分運転所の設備を調べた際、大分市の佐藤晴章さんから昭和33年8月12日付の地元新聞社の記事を見せられてDF50黎明期のことが浮かび上がってきた。記事は次のように書かれていた。「ー来春から日豊線で機関車5両を配置ー来年4月から分鉄局に煤煙のないディーゼル機関車が登場する。これにともなって機関車車庫の新設などの準備も同局で進められている。(中略)特にトンネルの多い日豊線では快適な旅ができるようになると期待されている。機関車の基地は大分機関区になるが、このため分鉄局では現在同機関区にある第二転車台を取り壊し、その後に約230坪の検修車庫、30立方㍍入りの地下油槽給油施設など総工事費約2,500万円の工事計画をたてている」。ディーゼル機関車配備以前は当然ながら蒸気機関車だけで動力車基地は動力近代化に伴って施設も設備も変遷することを思い知られる。記載の5輛のDF50は昭和34年4月新製配置の530・531・532・533・534である。次いで9月に543・544が落成し7輛でマン形500番台の活躍が始まる。漸次35年6輛(551・552・553・554・555・556)、36年3輛(561・562・563)、37年560が敦賀から転入し計17輛までになった。
 昭和41年、立石峠複線化の際にできた下り線の新立石トンネル無煙化補機として遠く秋田から8輛が加わって最大25輛となる。42年10月の電化完成後は補機運用の解消で4輛が米子へ転出、503・509・523・542の4輛が残留しヨンサントオ以後21輛体制に落ち着き無煙化に貢献した。48年10月は予備車だったC57115が宮崎へ移動したため米子から502が転入し、南宮崎電化まで22輛で推移する。明けて49年4月、電化完成とともに区名札「大」を掲げた22輛全機が宮崎機関区へ転出し大分運転所DF50の歴史に幕が降ろされた。日豊本線での活躍は15年間でのべ数量は500番台で26輛、内訳は新製配置組16輛、米子・敦賀・秋田からの転入組10輛であった。

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 ブルートレインの編成運用表に牽引機関車の速度が載っているのをよく目にしてきた。“彗星”で見ると新大阪~下関間がEF65特ツD6、下関~門司間がEF30特ツG9、門司~大分間がED74特ツE8、大分~宮崎間がDF50特ツF6となっている。この数字の意味するところは10‰上り勾配の均衡速度のことで、アルファベットはAから順に100㌔90㌔と速度区分を表している。“彗星”牽引機にあてはめてみるとEF65が76㌔、EF30は49㌔、ED74は68㌔、DF50は56㌔ということになる。DF50にとってこの速度ではかなりきつい仕事ではなかっただろうか。 23レ“彗星” 日豊本線大分~高城 S44(1969)/8 

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 大分発南延岡行の先頭に立つDF50503〔大〕は津久見川の鉄橋を渡り小高い山を避けるようにR300の右曲線をエンジン音をうならせて進む。樹木の影に上りの中継信号機が見える。 1531レ 日豊本線津久見~日代 S44(1969)/8

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 一級河川大分川の標識と旧大分川橋梁 8レ“富士” 日豊本線大分~高城 S44(1969)/10/6

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 D51牽引の貨物列車のはずがこの日はDF50が牽いてやって来た。

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 DF50に牽かれて流れる貨車群を見送る。独特の書体の名鉄局略号「名」が標記されたワフ22000、幌のかけられたトラ30000、日本石油のロゴが入ったタキ3000等々…バラエティ豊かな編成は見ていて飽きない。 1596レ 大分 S44(1969)/10/6

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 入換中のDE101015〔大〕の横を本線上り長大貨物を牽くDF50551〔大〕が通る。新旧ディーゼル機関車の顔合せの光景。 大分 S45(1970)/6

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 鹿児島5:00発大分15:35着の540レはDF50重連で、客車4輛荷物車5輛の9輛編成で運用されていた。 日豊本線美々津 S45(1970)/6/3

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 “日南1号”は11輛編成の寝台列車で、大分で8号車から11号車までの後部4輛ーオロネ10+スハネ16+スハネ16+オハネフ12-を段落しする。本州から夜行列車の到着する朝の大分駅ホームは客車の段落し作業があって忙しい光景が繰り広げられていたであろう。 205レ 大分 S47(1972)/2/20

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 DF50523〔大〕牽引の宮崎発門司行“みやざき51号”は4月の春休みから5月の連休にかけて運転される季節列車でスハ43系の編成で組まれていた。停車駅が多く、浅海井、大神、今津停車は変則であった。 8518レ 日豊本線大分~高城 S47(1972)/5/5

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 “富士”のヘッドマークはお椀形と平形の2通りがあった。 S47(1972)/5/27

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 のどかな田園地帯をDF50554〔大〕の牽く下り貨物列車が行く。コキ、タキ、ワキのボギー車が前寄りに並んでいる。 日豊本線大分~高城  S47(1972)/5/31

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 宮崎行“日南2号”は大分でA寝台1、B寝台3の4輛を落として身軽な7輛編成で残りの行路を下る。宮崎編成にもA寝台が組み込まれて2輛めにオロネ10が見える。 1207レ 日豊本線大分~高城 S47(1972)/6/11

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 “彗星”の基本編成はパンタの無いカニ22を先頭に田植えの終わった水田にブルーの帯を映して南下する。 23レ 日豊本線大分~高城 S47(1972)/6/25

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 近代的なコンクリート橋になった小丸川橋梁をDF50の貨物列車が行く。 5569レ 日豊本線川南~高鍋 S47(1972)/8/10

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 DF50544〔大〕牽引1207レ“日南2号”とD5146〔延〕牽引1592レ上り貨物列車が高城で交換する。昭和47年秋、夜行日南は下り2号・上り3号が寝台列車、下り3号・上り1号が寝台座席編成で定期、下り1号・上り2号が季節列車で設定されていた。時刻表昭和47年8月号の編成表では大分以南はA寝台1輛となっているが、写真ではオロネ10が2輛連結されて何とも豪華な編成である。 日豊本線高城 S47(1972)/10/9

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 別府発南延岡行1521レ車内から上り列車を見る。大分行528レの牽引機DF50544〔大〕はエキゾーストを噴き上げて発車合図を待っている。 日豊本線重岡 S47(1972)/12/29

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 DF50542〔大〕の牽く8205レ“日南1号”は季節列車で、列車番号は大阪~南延岡間が7205レ、南延岡~宮崎間は8205レと変わる。季節列車と臨時列車のちがいで南延岡止りの場合もあるようだ。 南延岡 S47(1972)/12/29

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 DF50553〔大〕牽引の1207レ“日南2号”が到着する。南延岡は機関区を擁する要衝で列車の結節点でもある。本線上下線には給水塔が備えられ蒸機全盛時代の面影が漂う。上りホームは交換列車の交替する乗務員の姿も見える。 南延岡 S47(1972)/12/29

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 “日南2号”が待つ構内にDF50重連門司港行530レが勢いよく滑り込んできた。荷物車が停止する位置に鉄道荷札のついた小荷物が無造作に置かれていたのが印象的。端面を極端に絞ったオハフ33も懐かしい。 南延岡 S47(1972)/12/29

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 津久見第一トンネルを出るDF50544〔大〕牽引の大分発都城行543レ。有効長をめいっぱいとるためにトンネルを出てすぐに構内の分岐が始まっているのがわかる。 日豊本線津久見 S47(1972)/12/29

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 お椀形ヘッドマークを付けたDF50543〔大〕 S48(1973)/1/4

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 東小倉発宮崎行荷1043レ 日豊本線大分~高城 S49(1974)/1/1

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 DF50大分時代の最後の写真である。昭和49年4月24日幸崎~南宮崎間が電化開業、大分運転所配属のDF50-22輛全機は宮崎機関区へ転属となる。昭和34年から始まった大分での活躍は約15年で終止符が打たれる事となった。私と出会ったDF50で最後に見たのは秋田からやって来たDF50509〔大〕であった。 1525レ 日豊本線大分~高城 S49(1974)/1