転轍器

古き良き時代の鉄道情景

鹿児島発門操行貨物列車

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 どしゃ降りの雨の中、C57109〔宮〕牽引の鹿児島発門司(操)行貨物列車が中線に到着した。牽引機は宮崎からC61に交代し、南延岡から大分まではD51の担当となる。C57109はもと大分運転所所属機で、幸崎電化後も大分に残った7輛のうちの1輛である。昭和43年10月のED74配備で大分時代に終止符を打ち、C574・65・66・115とともに宮崎に転属している。 C57109〔宮〕 550レ 宮崎 S47(1972)/8/10

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 C57109〔宮〕が離れ550レの第2走者C6120〔宮〕が連結される。宮崎からの貨車増結で編成は到着時から少し変わっている。青森から来たC61は、前照灯1灯となってすっかり宮崎の顔になっていた。激しい雨は少し小降りになったようだ。 C6120〔宮〕 550レ 宮崎 S47(1972)8/10 

C612

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 昭和46年夏、趣味誌で報じられた「C61が日豊本線へ入線」に大きな驚きを覚える。奥羽本線秋田~青森間の電化完成で青森機関区のC61は昭和46年10月、宮崎機関区へ配置換えとなった。当初は宮崎~鹿児島間で運用と伝えられたものの、ストーカーの関係で南延岡~南宮崎間の平坦線に変更されたと聞いた。C61の入線を知って、それならなぜ鹿児島電化時のC61を温存しなかったのだろうかと思ったが、奥羽装備のハドソンを初めて見てその威容に圧倒され、そんな思いは吹き飛んでしまった。  出区準備のDF50+C612 宮崎機関区 S47(1972)/1/5 

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 西鹿児島発南延岡行542レは宮崎から終着南延岡までDF50+C612の重連で牽いて来た。DF50が先に開放されたのでC612〔宮〕の顔を撮ることができた。奥羽本線装備そのままのC612はまるでここは青森駅か、と錯覚するくらいの雰囲気を漂わせていた。C612は日豊本線になじむ暇もなく昭和47年3月には全検期限を迎え、動態保続機として梅小路へ送られている。まさにこの時がC612との千載一遇の対面であった。  542レ 南延岡 S47(1972)/1/5

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 昭和46年10月、奥羽本線電化で青森機関区のC61、6輛全機(2・18・19・20・24・28)が宮崎機関区へ転属してきた。これで宮崎機関区配置17輛のC57(4・36・49・65・66・109・112・115・116・117・176・178・191・192・196・199)は2輛転出(176→人吉・191→鹿児島)、1輛転入(174←早岐)、4輛廃車(4・36・116・178)で12輛となった。 C612〔宮〕 南延岡機関区 S47(1972)/1/5

若宮踏切にて

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 向之原駅東側、若宮踏切で下り貨物列車を待つ。鳥栖発大分行の691レを名乗る貨物列車は豊後森から列車番号は6691レと変わり、豊後森以東は物量が少なくなるのか不定期列車となっていた。豊後森を出ると豊後中村、野矢で長時間停車し、野矢では別府行“由布1号”に追い越され、のんびりと走って向之原へ着く。向之原では博多行“由布1号”と日田行普通気動車列車と2本の上り列車と交換して発車する。牽引機D6057〔大〕はいつもより長めの編成を力強く牽き出して来た。煙を入れたかった構図はなぜか手前の築堤が余分に写っている。 6691レ 久大本線向之原~賀来 S45(1970)/5

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 大分鉄道管理局管内線路縦断面図(昭和54年5月)久大本線から
 線路縦断面図は上の欄から、停車場施設、隧道・橋梁・踏切道の名称、停車場名、市町村区域、勾配数値等が詳細に記載されている。向之原駅の所を見ると最上段に「△ホ」の記号があり、保線区の検査班所在地ということらしい。上り場内信号機の辺りに若宮(R)があり、これが踏切名のようだ。勾配を見ると向之原から賀来にかけてはかなりの下りで、水分峠から下ってきた鉄路は大分平野へおりる最後の下り坂を示している。

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 若宮踏切の様子。警報機と簡単な片側の遮断機が付いていた。警報機のリレーボックスも写っている。バス窓のキハ20先頭の列車は大分発日田行で、日田で列車番号は変わり久留米まで行く運用である。 久大本線向之原~賀来 636D  S45(1970)/5

鶴崎駅・住友化学専用線・九州石油専用線の記憶

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 日豊本線高城から鶴崎にかけての海側埋立地は、昭和39年の新産業都市の指定により石油化学、石油精製、鉄鋼の工場が立地し、大分鶴崎臨海工業地帯が形成された。九州石油専用線はその時に、住友化学昭和14年の操業で住友化学専用線はその時代の敷設と思われる。鶴崎駅から分岐する専用線住友化学大分工場へ入る線と、九州石油大分製油所へ向かう線とが2本並んで敷設されていた。貨車が走る光景を見たのは九州石油専用線だけであったが、鶴崎を訪れた際に撮った写真から当時の記憶を呼び起こしてみたい。

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スーパーマップル8 九州道路地図 鶴崎坂ノ市昭文社/平成14年1月刊)から
 鶴崎駅東側から分岐した専用線はすぐに二手に分かれ、住友化学へ、九州石油へと向かっている。「専用線一覧表昭和42年版」(トワイライトゾーンMANUAL5/ネコ・パブリッシング/平成8年11月刊)によると、作業キロは住友化学1.1Km、九州石油3.5Kmと記載されている。

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 鶴崎は1面2線の上下本線と下り本線の外側に副本線があり、貨物列車退避中に上下列車の交換ができる配線である。南側に貨物上屋があって2本の貨物線、北側に国鉄線と専用線を中継する2本の留置線が設けられている。東側から出る専用線は引上線のような形で鶴崎架道橋を渡ると、2線に分かれる。

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 鶴崎駅を東側から見る。手前左は専用線に入るであろう貨車移動機はJNRのマークが付いている。 S47(1972)/6

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 下り貨物列車の牽引機D5112〔延〕が本線に出て入換を始める。 S47(1972)/6

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 右が本線、左の突放貨車が転がる線が専用線専用線鶴崎駅の引上線もかねているような配線で、機関車は専用線の奥深く進み、まるで工場に入って行くのかと錯覚する。 S47(1972)/6

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 D519〔延〕の牽く上り貨物列車が副本線で待機。上り急行列車の通過を待っている。 1596レ S47(1972)/10/28

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 鶴崎着のガソリンタンカーが下り列車の編成から切り離されて留置線へと押込まれる。 タキ19999 S56(1981)/3/15

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 南側の貨物ホームは有蓋車が入っていたのを見ている。日頃あまり見かけないワム80000のロングバージョン、ワキ5000がいたのでカメラを向けたものと思われる。 ワキ6287 H1(1989)/8

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 構内東寄りは狭い道路が線路の下を通り、本線と専用線それぞれに「鶴崎架道橋」の名の短い鉄橋が架けられている。 S56(1981)/3/15

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 西日でまぶしい構内を見る。583系12連の“にちりん24号”博多行が上り本線を通過中、下り本線はED76の牽く貨物列車が発車を待っている。貨物線は全ての線が貨車で埋まり、構内の躍動が伝わってくる。  S56(1981)/3/15

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 住友化学専用線の橋桁標記  S59(1984)/6/20

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 本線の橋桁標記  S59(1984)/6/20

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 鶴崎架道橋の先で本線と専用線は離れていく。本線は大野川の土手に向かって上り、専用線は道路の高さまで下がっていく。  S59(1984)/6/20

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 本線から離れた専用線は2線となって右が住友化学専用線、左が九州石油専用線となる。住友線は踏切を渡ると工場の中へ入り、門扉は閉じられて中の様子は全くわからない。  S59(1984)/6/20

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 九州石油専用線は製油所の手前に位置する発電所の中へと入り、立入りはできなくなる。製油所内のヤードは泊地を回り込んで対岸の釣り人の陣地から遠望できる。 S59(1984)/6/20

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 製油所のヤードに並ぶタンク車のロゴマークを目を細めて見る。円形2つのコウモリマークばかりの中で四角い図柄の車が1輛だけ見える。コウノトリマークの九州石油所有車ではないかと希望的観測を持つ。撮影時から35年、手前の小学生達は中年紳士になっていることだろう。 S59(1984)/6/20

 

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 臨海工業地帯を縦断する幹線道路の高架橋の下、泊地に沿った道路脇に専用線はひっそりと敷かれていた。 S60(1985)/4

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 幾度かこの場所を訪れたが、この時初めて製油所から出てきたタンク車編成に遭遇する。 S63(1988)/11

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 タンク車編成は運河沿いの工場群の中を自転車のような低速度で走る。機関車正面の四角い箱は水タンクらしく、おもしろい顔に見える。 S63(1988)/11

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 日本石油輸送のタキ35000が眼前を通過する。鶴崎発のタンク車はガソリン・灯油・軽油・A重油が積荷で、佐賀・熊本県の油槽所に送られたとのこと。着駅は長崎本線神崎と豊肥本線竜田口ではないかと推測する。 S63(1988)/11

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 機関車は日通ロゴを掲げ、運転室側面に「日本通運大分支店」と標記されている。その下に「協三工業」の銘板が付いていた。 S63(1988)/11

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 専用線鶴崎泊地の奥深く、化学工場の敷地を通り、これ以上は立入れない。 S63(1988)/11

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 製油所からの編成はタキ9900やタキ35000等6輛で、鶴崎駅手前の上り勾配を進んでいる。道路のガードレール後ろの線路脇に距離標が建っているのが見える。数字は「0」でこの位置が住友化学専用線九州石油専用線の分岐点のようだ。入換の電気機関車がこの辺りまで入って来るのだろうか、架線が張られている。 S63(1988)/11

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 鶴崎構内へ入ると機関車は機回ししてタンク車を北側のヤードへ押込む。 S63(1988)/11

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 鶴崎日豊本線沿いで見かけたタンク車はどれも「日本石油」でカルテックスロゴマークであった。九州石油所有車はコウノトリのマークであったが写真には残っていない。
  九州石油専用線は大分製油所が操業を開始した昭和39年に敷設されている。平成の時代に入ると、各地の専用線での鉄道輸送はトラック輸送に切替えられ、九州石油専用線もその例外とはならず、平成9年2月で廃止され、33年間の歴史に幕がおろされた。 コタキ45208 H1(1989)/3

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 DF50544〔大〕が牽く上り貨物列車の編成前部はタンク車が連なり、これは鶴崎から連結したものと思われる。南延岡から7時間の道のりで大分着、さらにこの後ED76にバトンを渡して門司操車場へ向かう。 1596レ 大分 S45(1970)/9

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 夕方の日豊本線下りにD51牽引ではない短い編成の貨物があるのを知り、本線をまだハチロクが走っていることに驚いた。これまで幸崎行のタンク車編成とばかり思っていたが、1輛目はガソリンタンカーのように見え、鶴崎で切り離されるのではなかろうか。 日豊本線大分~高城 S44(1969)/9

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 昭和40年代、ハチロクが頑張っていた幸崎までの小運転はDE10が取って代わり、連綿と続いていた。車掌車がヨ8000になっていることで時の経過を思い知らされる。化成品タンク車の列でひときわ車体の大きいタンク車はタキ14800で、積荷のカプロラクタムはナイロンの製造原料で住友化学が生産していた事から、もしかしたら住友化学専用線に入る車ではなかったのか?と今になって思っている。 大分 S60(1985)/11