転轍器

古き良き時代の鉄道情景

D6071 旅立ちの日

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 いつものように大分運転所に行くと、日頃まず入ることのない電留線にD60がいるのに驚いた。近づいてみるとキャブの札差しに機関車の転属を告げる票が差し込まれていて、D60減少の現実に愕然とする。今夜半の貨物列車で北上するとのこと。「D6071よ、大分での活躍ありがとう。直方でも頑張れよ」と声をかけ別れを惜しんだ。 大分運転所 S44(1969)/10/4

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 D6071が大分へ来たのは昭和43年9月で、D602・D603の廃車補充としてD6058とともに郡山機関区から転属してきたものである。昭和44年10月で直方へ行くことになり、大分運転所での在籍期間はわずか1年1ヶ月であった。 大分運転所 S44(1969)/10/4

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 区名札が入る票差に入れられた転属標記。車両番号:D6071/行先:直方機関区/換算両数:9.5/発送場所:大分運転所/発送年月日:S44.10.5/護送員・無。 大分運転所 S44(1969)/10/4

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 転車台奥の放射状機留線で出区待ちのD6071〔大〕。この日は最終の由布院行648レの牽引機でこの時間はまだ給炭線には入らすここで待機する。転車台の向こうは佐伯から帰区したC57が控え、給炭線は出区機の煙でかすんでいる。 大分運転所 S44(1969)/5

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 D6071〔大〕の短い大分時代は本線上で見ることはできなかったが、大分運転所で駐機する姿を捉えることができたのは幸いであった。庫の中で一度、出区待ちで二度会っている。転属の日に見送ることができたのは更なる幸運といえる。別れの日は給炭槽の下で撮った9月30日から5日後のことであった。 大分運転所 S44(1969)/9/30

夕暮れの水前寺

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 九州には「寺」のつく駅が6つある。日豊本線豊前善光寺久大本線善導寺日田彦山線後藤寺、筑肥線周船寺宮原線宝泉寺、そして豊肥本線水前寺。ここ水前寺を訪れたのは9600重連の宮地行を撮るためである。水前寺の構内はとても広く隣りの南熊本とともにとても丙線の豊肥本線の駅風景とは思えない幹線風の構えに驚いた。夕暮れ時の構内を遠望すると下り本線宮地行の9600重連が二条の煙を上げて発車待ち。隣りの副本線は竜田口からのタンカー編成の緩急車が見える。ヤードは貨車移動機と貨車群、新鋭12系客車も留置され活気溢れる鉄道風景が展開していた。熊本近郊の上熊本南熊本、水前寺、竜田口は9600の小運転列車が設定されていたようだ。 豊肥本線水前寺 S47(1972)/3/29

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 汽笛二声の後二条の煙は濃くなりドレンをきって8輌編成は動き始める。緊張のひと時、機関車の動きを固唾を呑んで見守る。  1727レ 豊肥本線水前寺 S47(1972)/3/29

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 前補機69616〔熊〕と本務機69699〔熊〕、この2機はとても良く似ている。両機ともパイプ煙突で大きな特ちょうは無いものの、異なる箇所はデフの点検窓の有無、元空気溜上のランボードの高さ、テンダのリベットラインくらいであろうか。補機69616〔熊〕は立野までの運用で立野からは単機で熊本に戻って来る。

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 水前寺終点方で機関車2輌と客車8輌の宮地・高森行列車を見送る。迫力ある発車シーンをファインダーで追いかけたその瞬間、69616〔熊〕キャブの焚口から火床の真っ赤な光りが飛び込んできて機関車の躍動を実感、その光景は今でも脳裏に焼きついている。偶然写った後方の鉄道通信線電柱は横桟が6段あり、同じ豊肥本線沿線でさまざまなタイプがあるようだ。

39680

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 39680〔熊〕が家畜車や無蓋車、石炭車の入った12輌の貨車を従えて米良川の土手に向かう上り勾配をゆっくりと進む。黒色の編成の中で石炭車の黄帯がひときわ引き立ち、上り場内と遠くに見える出発信号機の赤色もよくわかる。後方右手に農業倉庫が見える。 795レ 豊肥本線滝尾~下郡(信) S45(1970)/9

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 大分始発の貨物列車は構内北側の貨物ヤードで組成され、貨物線から直接出発する。日豊本線下り宮崎行“日南1号”の通過を待って貨物線出発信号機が進行を現示。39680〔熊〕は汽笛一声794レをゆっくりと牽き出して本線へ出る。 大分 S47(1972)/2/20

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 入換中のED76が見守る横を車列を曲げて渡り線を通り、いざ行かん。

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 39680〔熊〕の牽く長い貨物列車が下郡信号場を通過して大分川橋梁にさしかかる。大分川は日豊本線豊肥本線の単線並列で2本の鉄橋が架かっている。 795レ 豊肥本線下郡(信)~大分 S47(1972)/2/11

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 立野の3段式スイッチバックを行く。 1795レ 豊肥本線立野~赤水 S47(1972)/3/29

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 39680の動向を手持ちの趣味誌で追ってみた。昭和8年3月津和野、昭和32年11月宮地、昭和36年4月宮地、昭和43年3月香椎、昭和44年3月香椎、昭和44年4月熊本と移動している。宮地機関区統合以降一時門鉄へ移るも、再び豊肥本線の罐として熊本へ転属、昭和47年11月に廃車となっている。熊本機関区所属の機関車は「架線注意」標識を複数装備していて、39680もフロントに3枚付いていた。 39680〔熊〕 大分運転所 S47(1972)/2/20

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 連綿と続いていた豊肥本線熊本~大分間通しの貨物列車は、新幹線岡山開業時の昭和47年3月改正で廃止され、宮地~豊後竹田間の貨物輸送は終了し、同じくこの区間の蒸機列車に終止符が打たれた。毎日大分に顔を見せていた熊本機関区のキュウロクはいよいよ見納めとなった。 39680〔熊〕 大分運転所 S47(1972)/2/20

タキ1900

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 津久見のヤードに小野田セメント所有の私有貨車が止まっていた。以前国鉄機関士の方から「海崎と津久見からつなぐセメントの貨車はとても重たかった。またチップを積んだ貨車をつないだ日に雨が降るとそのチップが何倍もの重さになってこれもつらかった」といった話を聞いて印象に残っていた。あの話の重たい貨車はタキ1900とホキ7500のことと思われる。 

 コタキ112168 形式タキ1900 小野田セメント セメント専用 津久見駅常備 日豊本線津久見 S56(1981)/2

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 同じタキ1900でも形態の種類はたくさんあるようだ。91949はタンク体に巻かれた補強のような帯材はなく梯子の形状も異なる。ごつい印象とは対照的なおとなしいディテールに見える。前述の機関士さんは「小野田セメントの貨車は本務機が直接専用線に入って取りに行っていた」と話され、貴重な証言を得たような感覚を覚える。

 コタキ91949 形式タキ1900 小野田セメント セメント専用 津久見駅常備 日豊本線津久見 S56(1981)/2

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 話に出た重たい貨車はホキ7500も同様であろう。プロフェッサー吉岡の私有貨車図鑑によるとホキ7500は昭和42~43年にかけて22輌が製作され、うち20輌は小野田セメントの所有車であった。複雑で独特な車体は模型のバラキットも見かけたが組み立てはとても難しそうであった。  

 ホキ7502 形式ホキ7500 小野田セメント セメント専用 津久見駅常備 日豊本線津久見 S56(1981)/2 

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 蒸機時代に会ったタキ1900は上回りに隣車へ渡るためのランボードが付いていた。形式標記で小さなカタカナの特殊標記符号は規定前で記されていない。  

 タキ111982 形式タキ1900 日本セメント株式会社 セメント専用 香春駅常備 日田彦山線香春 S48(1973)/3/30

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 蒸機時代から12年後の香春駅。機関車はDD51になって依然として香春工場専用線からタキ1900の列が送り出されていた。駅名標を見ると隣駅の伊田はこの時頭に田川が付けられていた。また廃線となった添田線の次駅上伊田はテープで消され、新旧の事柄が混在していた。  

 コタキ112529 形式タキ1900 日本セメント株式会社 セメント専用 香春駅常備 日田彦山線香春 S60(1985)/8/17

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 日本セメント香春工場からのセメント列車は撮影時、日田彦山線経由外浜行のルートと田川線夏吉、勾金経由苅田港行のルートがあったようだ。   

 コタキ112526 形式タキ1900 日本セメント株式会社 セメント専用 香春駅常備 苅田港線苅田港 S60(1985)/8/17

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 タキ1900のナンバリングは1999を越えると11900番台、21900番台と付番されるようである。冒頭のタキ112168はその法則には乗らず不思議なナンバーと思える。レイルマガジンNo.339プロフェッサー吉岡の貨車研究室によると111900番台の途中から112000番台に飛んでいるようだ。ちなみに61986は昭和45年、91949は昭和46年、112168は昭和48年の落成車で所有者も写真に写った社名板の通りであった。   

 コタキ61986 形式タキ1900 明星セメント株式会社 セメント専用 糸魚川駅常備 北陸本線小杉 S51(1976)/9/17

碇山のふもと 滝尾周辺

 豊肥本線滝尾は大分平野に広がる田園地帯の中、標高の低い碇山のふもとにある大分からひとつめの小さな駅であった。のどかな田舎の景色に朝夕はC58の牽く通勤通学列車が、日中はC58と9600が牽く貨物列車が のんびりと走っていた。

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 碇山午前7時09分の構図。海に浮かぶ碇島であったその昔、神武天皇が東征の折、碇を降ろして立寄ったと伝えられる碇山のふもとに滝尾駅はある。下り朝一番を牽くC58112〔大〕は米良川の土手にかかる17.7‰上り勾配に猛然と突き進む。 721レ 豊肥本線滝尾~下郡(信) S44(1969)/10/12

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 碇山踏切から夕刻の滝尾駅交換風景を見る。C58115〔大〕はヘッドライトを光らせて迫って来る。磨き出しの手摺りは大分国体お召し機のなごりであろうか。上り豊後竹田行748レは17:58発。テールライトの光る下りの豊後竹田発大分行745Dは17:59発。 豊肥本線中判田~滝尾 S44(1969)/10/5

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 熊本起点142.5㌔ポストを69699〔熊〕の牽く上り貨物列車が行く。 794レ 豊肥本線中判田~滝尾 S46(1971)/3 

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 稲株が残る稲刈り後の田んぼが続く傍らを長い貨物列車が煙を残して小さくなっていく。忘れかけたのどかな田舎風景が思い出される。

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 通信線電柱「はえたたき」と藁小積みが展開するのどかな田園風景を行く貨物列車はやはり黒い編成が似あう。有がい車ばかり11輌の編成で1輌だけとび色のワム80000が入っている。列車後方に4燈の遠方信号機が見える。 794レ 豊肥本線中判田~滝尾 S46(1971)/3

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 機関車は遠目で見ていつもの罐とちがうのではないかと思っていた。後でわかったことは短い煙突と点検窓が開けられていないデフを持つ機関車は関東は高崎第一から来た69680〔熊〕であった。 794レ 豊肥本線中判田~滝尾 S46(1971)/3

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 C58224〔大〕の牽く下り貨物列車が滝尾を発車する。 793レ 豊肥本線滝尾 S44(1969)/8

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 C58の貨物運用は豊後竹田と三重町の2往復が設定されていた。豊後竹田往復は早朝大分を出て豊後竹田わずか1時間半の間合いで折り返し滝尾へは14時頃に姿を見せていた。貨物側線脇に保線機械が置かれている。 793レ 豊肥本線滝尾 S45(1970)/5

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 上り豊後竹田行を森の外れで待つ。期待通りC58は煙を噴きあげ勾配に沿って6輌の客車を上下させながら小高い丘を登って来た。当時はえたたきと藁小積みは当り前の風景であった。 746レ 豊肥本線中判田~滝尾 S45(1970)/3

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 C58224〔大〕が滝尾起点方の分岐器を踏みしめて行く。線路際に建つ青・白・橙色の組合せが印象的な転轍器標識が懐かしい。 746レ 豊肥本線滝尾 S45(1970)/9

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 朝つゆの光る滝尾駅周辺、下り一番は朝もやでかすむ霊山をバックにC58124〔大〕が6輌の客車を従えて姿を現した。豊肥下り一番は豊後竹田5:30発、中判田6:56発、滝尾7:09発、大分7:18着のダイヤであった。中判田~滝尾間は駅間距離6.6㎞、高江辺りに短い23‰の坂越えがある。滝尾駅手前は16.7‰の下りからレベルに変わる位置に勾配標が建っている。 721レ 豊肥本中判田~線滝尾 S45(1970)/9/12

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 シールドビームと「ダンボの耳」と呼ばれた大形変形デフ装備の異端車であったC58124〔大〕は昭和42年10月高松機関区からの転属機である。 721レ 豊肥本線滝尾 S45(1970)/9/12

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 豊肥本線気動車編成は2台エンジン車で組まれることが多く、この豊後竹田行738Dもキハ55+キハ53+キハ55+キハ52の強力編成であった。 豊肥本線滝尾~下郡(信) S45(1970)/9