転轍器

古き良き時代の鉄道情景

69665

 私が知っている熊本機関区のキュウロクのうち、69665と79602の唯2輌が門デフ装備車で目立つ存在であった。69665〔熊〕とは対面の確立が高く一番多く出会った機関車で思いもひとしおである。

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 貨物列車と旅客列車の交換に偶然出くわす。通常ダイヤであれば熊本からの貨物が大分到着後にC58の牽く豊後竹田行が発車するが、この日は貨物が遅れたからかひと駅手前での交換となったようだ。キュウロクとC58の対面はこれが最初で最後、貴重な記録となった。願わくば下り出発信号機が腕木式であったならなどとつい思ってしまう。キュウロクのキャブ背面の窓板がクリーム色に塗られているのが印象的。 C58224〔大〕の牽く豊後竹田行746レと69665〔熊〕の牽く大分行795レ 豊肥本線滝尾 S45(1970)/9/12

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 ランボードの白ラインが目立つ69665〔熊〕が収穫の秋の築堤を行く。稲穂が実ってくると一定間隔で大きな音を出す「雀脅し」が聞こえるようになる。「ドドーン」という音も貨物列車通過時はドラフト音でかき消されてしまう。 795レ 豊肥本線滝尾~下郡(信) S46(1971)/9/18

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 キュウロクの貨物列車は有蓋車ばかりの編成が常で、時々トラやセラが入ると変化を楽しむことができた。木材積載のトラはどこで連結して来たのだろうか。 795レ 大分 S45(1970)/10

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 大分東部構内は日豊・豊肥・久大の3本線が並びそれぞれの渡り線がレイアウトされている。69665〔熊〕は豊肥本線を進行中、左から久大本線の渡り線が寄り沿っている。このまま直進し左分岐でホーム間の中線に進路をとる。 795レ 大分 S46(1971)/9

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 ピット上で整備を受ける69665〔熊〕。元空気溜がやけに大きく見える。キャブ後方の窓板が明るい色で塗られているのがわかる。 大分運転所 S45(1970)/10

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 巨大な給炭槽の下、煙室扉が夕日にぎらりと輝く。

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 大分運転所の給炭設備はガントリークレーンとダブルの炭槽の組合せで迫力があった。 S45(1970)/10 

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 上路式転車台に載る69665〔熊〕を見上げる。昭和45年に見た時は架線注意標識は左サイド片側だけであったが、昭和46年以降の写真を見ると両サイドに取り付けられていた。後方のD51482〔熊〕はこの時ボイラー代用でこの後南延岡に転属し再会することになるとは夢にも思わなかった。 熊本機関区 S47(1972)/3/29

幸崎小運転で使われた機関車

 昭和44年当時、日豊本線大分~幸崎間に夕方1往復の貨物列車が設定されていた。「小運転」という用語は当時の趣味誌に国鉄マンが執筆した機関車の現況を伝える記事で目にし、短区間の運用は自然とそのように呼ぶようになった。国鉄に「小運転」の定義があったかどうかは知らないが、蒸気機関車の配置や運用の記事には、小運転の他に入換(重入換もあった)、本務機、予備機、補機等の用語が使われてとても興味深く読んでいた。

■8620の頃

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 幸崎行小運転は架線下をハチロクが頑張る。夕方の日豊本線下りにD51牽引ではない短い編成の貨物があるのを知り本線をまだハチロクが走行していることに驚いた。昭和44年時点で大分運転所の8620は58652・58689・78684の3輌配置で本線走行が可能なのは58689〔大〕だけで大分入換、下郡回送と幸崎小運転に大忙しであった。 1591レ 日豊本線大分~高城 S44(1969)/9

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 貨物出発線で発車待ちのワフ1輌だけの幸崎行を見る。大分始発の日豊本線下り、豊肥・久大本線上りの貨物列車は北側貨物ヤードの出発線から出ていた。貨物群線は貨車で埋まり活況を呈していた。 1591レ 大分 S44(1969)/10/6

■9600の頃

 豊肥本線熊本~大分間通しの貨物列車が1往復設定され、熊本機関区の9600がその任に当たっていた。下り大分到着後は旅客列車で豊後竹田を往復し翌日熊本に帰る運用が昭和44年10月改正まで行われていた。以後、豊後竹田往復はC58へ変更となり、大分到着後の9600は幸崎往復の小運転に就くように改められた。

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 複線のように見える日豊本線豊肥本線の単線並列区間を行く69699〔熊〕の牽く幸崎行1591レ。つい先ほど手前の豊肥本線を貨物を牽いて大分に到着したばかり。すぐさま給水、給炭、転向の後、今度はとなりの線を通って幸崎へ向かう。熊本機関区の9600が日豊本線を走るのは貴重な記録である。  日豊本線大分~高城 S46(1971)/7/24

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 翌日も同じ列車を撮っている。69680〔熊〕がヨ+客車2輌を牽いて現れた。69699〔熊〕は土曜日、69680〔熊〕は日曜日の撮影であったことから客車2輌は、平日に幸崎で行われる朝の通勤列車の増結用と思われる。豊肥本線9600の貨物列車は昭和47年3月の改正で廃止となっているので、その時まで幸崎往復は続いていたのかもしれない。 1591レ 日豊本線大分~高城 S46(1971)/7/25

■そしてDE10の時代へ
 大分運転所のC58と8620は昭和47年6月の運用離脱で最後の時を迎えていた。はるばる熊本から来ていた9600はこの年の春、外輪山を越える貨物列車自体が廃止され大分側に来ることはなくなってしまった。久大本線無煙化で投入されたDE10はその後も増備が続き豊肥本線(貨物)、日豊本線(旅客)の無煙化が完了した。

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 翌年も見た幸崎小運転列車は機関車はDE10に替わっていた。この時は豊肥本線貨物(豊後竹田~大分)と日豊本線旅客(大分~佐伯)の無煙化直前でC58、8620と交替するDE10が出揃った時期であった。 581レ  日豊本線大分~高城 S47(1972)/5/25

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 時代は経過するも再び見た幸崎小運転。58689〔大〕+ワフを見た16年後、タイプはちがうがワフは同じ、機関車はDE101023〔大〕であった。このナンバーは昭和45年5月落成の新製車で久大本線DL化の時に投入された罐である。貨物群線に貨車が埋まっている光景は以前と同じように映るが、時は昭和59年2月のヤード系輸送から直行輸送への大変革の後で車扱いも直行の時代へと移っていた。幸崎小運転はその後も何度か見かけ、はたしていつまで続いていたのだろうか。 大分 S60(1985)/3

79653

 豊肥本線の9600はねぐらを宮地機関から熊本機関区に移して同ナンバーが継続して使われていた。79653は当初のメンバーではなく廃車補充として昭和44年4月に香椎から転属して来た機関車であった。約4年間豊肥本線で働いた後、昭和48年の無煙化の際遠く北海道へ旅立って行った。

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 79653〔熊〕は短い化粧煙突が特ちょうで遠目からも判別は容易であった。決まり事のように架線注意標識は2箇所に付けられている。デフに直接付いた手摺りは他機では例がなく門鉄時代の仕様であろうか。 熊本機関区 S47(1972)/3/29

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 この角度から見る右サイドはとても格好良く見える。動輪のバランスウエイトは極端に浮き出ているように見えてまるで模型機関車のように映る。デフに付いた手摺りが良くわかる。 熊本機関区 S47(1972)/3/29

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 熊本機関区の9600は昭和44年時点で9輌(39688・59653・59670・69616・69634・69665・69699・79602・79608)が配置されていた。46年時点では39688・59653・69634の3輌が廃車になって替りに39680(香椎から)・69680(高崎一から)・79653(香椎から)が加わって9輌体制は変わっていない。新しいメンバーとなった79653〔熊〕が収穫の秋を迎える平野を行く。 794レ 豊肥本線滝尾~下郡(信) S44(1969)/10/6

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 黄金色に輝く稲穂の向こうを熊本からの貨物列車が下って行った。来年のこの収穫の時期も9600の牽く貨物列車は健在だろうかと疑念を抱きつつシャッターを押す。 795レ 豊肥本線滝尾~下郡(信) S44(1969)/10/12

79608

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 小鳥のさえずるのどかな日、一面れんげ畑の向こうからお目当ての貨物列車はやって来た。石炭車とバラスト散布のホッパ車が編成にアクセントを添えてちょうどよい長さである。79608〔熊〕はコンプレッサーの排気音をリズミカルに鳴らして通り過ぎて行った。 795レ 豊肥本線中判田~滝尾 S45(1970)/4

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 滝尾を出て米良川にかかる16.7‰の上り勾配を静々と登る79608〔熊〕の牽く795レ。土手に向けてかなり高い築堤が築かれているのがわかる。 豊肥本線滝尾~下郡(信) S45(1970)/5

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 機体を震わせて高速で駆け抜ける機関車は大形のナンバープレートから79608〔熊〕とわかる。側道に停まるダイハツベルリーナは当時の憧れの的であった。 794レ 豊肥本線滝尾~下郡(信) S44(1969)/8

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 79608〔熊〕の特ちょうは継足しが少々長めの化粧煙突とフロントのナンバープレートが形式入を思わせるような大形サイズのプレートである。書体はフロントがゴシック体でキャブのプレートは丸味のあるローマン書体が付いたいたのが変則であった。煙室のハンドレールはきれいな弧を描き、架線注意標識は熊本区仕様で2箇所に取り付けられている。コンプレッサー排気管の規則正しい息づかいが聞こえてきそうである。 大分運転所 S44(1969)/12/31

 

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 79608〔熊〕とはたびたび会っている。この時は架線注意標識が3枚になっていた。大分運転所の転車台は下路式でガーダーに並ぶリベットの列が壮観に見える。前輪前、レール両脇のストッパーが停止した際の鎖錠装置と思われる。支柱の看板は「黒煙防止」、「連絡確認」、「転車台通行禁止」と標記されている。 大分運転所 S45(1970)/9

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 左サイドは継足しの化粧煙突と前寄りに付いた空気圧縮機まわりのにぎやかな配管が独特の風格と貫禄を示している。キャブのプレートはローマン書体であるのがわかる。架線注意標識は蒸気ドームにも付けられている。 大分運転所 S45(1970)/9

79602

 79602は「蒸気機関車No.55(昭和53年5月号)」の9600番号順配置表によると、昭和8年鳥栖ー昭和22年佐賀ー昭和36年宮地と記載され、一貫して九州内を回っていたようだ。宮地機関区は昭和39年の豊肥本線DC化の際に熊本機関区に統合され、79602は昭和48年の無煙化まで熊本機関区で活躍した。さらに遠く北海道は倶知安、追分機関区と渡り、国鉄蒸気機関車終焉を迎えるまで残留した中の1輌となった。

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 豊肥本線144.5㌔ポストを79602〔熊〕の牽く上り貨物列車が行く。熊本~大分往復の貨物はタンク車をよく見かけたので当時は竜田口と鶴崎の間を行き来していたものと思っていた。後年、中判田に出光興産の専用線があったことを知り、LPガスのタンク車は中判田までの運用であったものと推測する。 794レ 豊肥本線滝尾~下郡(信) S44(1969)/8/13

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 よく見かけたタンク車は灰色のアポロマークを掲げた異様に長いこの車輌。豊肥本線では黒い2軸貨車の中でとても目立つ存在であった。 タサ5722 形式タサ5700 豊肥本線滝尾 S45(1970)/5

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 豊肥本線熊本口のダイヤを見ると竜田口発着の貨物列車が2往復設定されていた。大規模な貨物基地があるのではないかと途中下車してみると、何とそこは貨物側線1本の平凡な駅で期待はずれであった。逆向きの79602〔熊〕が5輌のガソリンタンカーを牽き出す。 1796レ 豊肥本線竜田口 S47(1972)/3/29

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 竜田口を出ると第2白川橋梁にかけて15‰の上り勾配を進む。 1796レ 豊肥本線水前寺~竜田口 S47(1972)/3/29

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 竜田口を出たタンカー編成は水前寺で交換と追越しのため退避線でしばらく休む。竜田口に対して水前寺と南熊本は広範な貨物設備があり水前寺と南熊本で入換を行う区間貨物も設定されていたようだ。追分機関区で国鉄蒸気機関車最終メンバーの1輛となった79602と大分、熊本で会うことができたのはとても幸運であった。 1796レ 豊肥本線水前寺 S47(1972)/3/29