転轍器

古き良き時代の鉄道情景

幸崎小運転で使われた機関車

 昭和44年当時、日豊本線大分~幸崎間に夕方1往復の貨物列車が設定されていた。「小運転」という用語は当時の趣味誌に国鉄マンが執筆した機関車の現況を伝える記事で目にし、短区間の運用は自然とそのように呼ぶようになった。国鉄に「小運転」の定義があったかどうかは知らないが、蒸気機関車の配置や運用の記事には、小運転の他に入換(重入換もあった)、本務機、予備機、補機等の用語が使われてとても興味深く読んでいた。

■8620の頃

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 幸崎行小運転は架線下をハチロクが頑張る。夕方の日豊本線下りにD51牽引ではない短い編成の貨物があるのを知り本線をまだハチロクが走行していることに驚いた。昭和44年時点で大分運転所の8620は58652・58689・78684の3輌配置で本線走行が可能なのは58689〔大〕だけで大分入換、下郡回送と幸崎小運転に大忙しであった。 1591レ 日豊本線大分~高城 S44(1969)/9

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 貨物出発線で発車待ちのワフ1輌だけの幸崎行を見る。大分始発の日豊本線下り、豊肥・久大本線上りの貨物列車は北側貨物ヤードの出発線から出ていた。貨物群線は貨車で埋まり活況を呈していた。 1591レ 大分 S44(1969)/10/6

■9600の頃

 豊肥本線熊本~大分間通しの貨物列車が1往復設定され、熊本機関区の9600がその任に当たっていた。下り大分到着後は旅客列車で豊後竹田を往復し翌日熊本に帰る運用が昭和44年10月改正まで行われていた。以後、豊後竹田往復はC58へ変更となり、大分到着後の9600は幸崎往復の小運転に就くように改められた。

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 複線のように見える日豊本線豊肥本線の単線並列区間を行く69699〔熊〕の牽く幸崎行1591レ。つい先ほど手前の豊肥本線を貨物を牽いて大分に到着したばかり。すぐさま給水、給炭、転向の後、今度はとなりの線を通って幸崎へ向かう。熊本機関区の9600が日豊本線を走るのは貴重な記録である。  日豊本線大分~高城 S46(1971)/7/24

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 翌日も同じ列車を撮っている。69680〔熊〕がヨ+客車2輌を牽いて現れた。69699〔熊〕は土曜日、69680〔熊〕は日曜日の撮影であったことから客車2輌は、平日に幸崎で行われる朝の通勤列車の増結用と思われる。豊肥本線9600の貨物列車は昭和47年3月の改正で廃止となっているので、その時まで幸崎往復は続いていたのかもしれない。 1591レ 日豊本線大分~高城 S46(1971)/7/25

■そしてDE10の時代へ
 大分運転所のC58と8620は昭和47年6月の運用離脱で最後の時を迎えていた。はるばる熊本から来ていた9600はこの年の春、外輪山を越える貨物列車自体が廃止され大分側に来ることはなくなってしまった。久大本線無煙化で投入されたDE10はその後も増備が続き豊肥本線(貨物)、日豊本線(旅客)の無煙化が完了した。

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 翌年も見た幸崎小運転列車は機関車はDE10に替わっていた。この時は豊肥本線貨物(豊後竹田~大分)と日豊本線旅客(大分~佐伯)の無煙化直前でC58、8620と交替するDE10が出揃った時期であった。 581レ  日豊本線大分~高城 S47(1972)/5/25

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 時代は経過するも再び見た幸崎小運転。58689〔大〕+ワフを見た16年後、タイプはちがうがワフは同じ、機関車はDE101023〔大〕であった。このナンバーは昭和45年5月落成の新製車で久大本線DL化の時に投入された罐である。貨物群線に貨車が埋まっている光景は以前と同じように映るが、時は昭和59年2月のヤード系輸送から直行輸送への大変革の後で車扱いも直行の時代へと移っていた。幸崎小運転はその後も何度か見かけ、はたしていつまで続いていたのだろうか。 大分 S60(1985)/3