転轍器

古き良き時代の鉄道情景

名残りの583系“彗星”

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 日豊本線幸崎電化の昭和42年10月に特急“みどり”として華々しくデビューした581系は、その後50Hz・60Hz共用の583系となり全国各地で活躍するようになる。日豊本線を走ったのは1年だけであったが、新幹線博多開業の50年3月、今度は本領発揮の寝台特急としてカムバックした。59年2月改正は夜行列車の不振から鹿児島“なは”、日豊“彗星”の583系は客車に統一されるのに伴い寝台特急運用から降りることとなった。同時に一体運用の“有明”・“にちりん”も485系に置換わり、一時代を築いた583系は終焉の時を迎えていた。 3002M“彗星4号” 大分  S59(1984)/1/28

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 絞りと露光のアンマッチで列車名がわからないのでトレインマークの窓を覆い焼きしてみた。斜体文字の彗星と星から流れる3本の光がかろうじてわかる。イラスト入トレインマークは昭和53年10月改正から登場した。

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  昭和50年3月改正で5往復あった“彗星”は24系25形(新大阪~都城)1往復、583系(新大阪~大分・宮崎)2往復に整理された。この時は12輌編成で昼間は大分電車区で停泊していた。 S52(1977)/8

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 583系の電動車はパンタ付きのモハネ582とパンタ無しのモハネ583がユニットで12連は3ユニット組込みの6M6Tとなる。モハネ582は重厚な深い屋根がパンタ部分は低屋根にカットされて屋上機器が賑やかに配置され、編成の中でアクセントとなっている。 モハネ582-55〔大ムコ〕 大分電車区 S52(1977)/8

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 D51牽引の期間限定、年末年始の臨時列車“高千穂51号”を撮りに行った時、見慣れない色の編成が入区しているのに気づき近寄ってみた。列車名は不明で臨時列車と思わる。 大分電車区 S49(1974)/1

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 特急“彗星”の登場から発展、衰退までの足跡を客車・電車含めて簡単に振り返ってみたい。
昭和43年10月 日豊本線に新たなブルートレイン20系“彗星”登場 新大阪~宮崎
昭和45年10月 運転区間宮崎から都城まで延長
昭和47年3月   1往復増発 新大阪~大分 20系
昭和48年10月 24系登場 彗星4往復に増発
         新大阪~都城 20系15連(付属編成大分回転)
         新大阪~大分 14系14連(佐世保あかつきと併結)
         新大阪~大分 14系11連
         新大阪~大分 24系14連(付属編成下関回転)
昭和49年4月  南宮崎電化 24系25形2段寝台登場 
         彗星1往復増発で5往復体制に 
          新大阪~宮崎 24系11連(付属編成大分回転)
          新大阪~都城 20系→24系
          新大阪~大分 24系→24系25形
昭和50年3月  彗星3往復体制に整理 583系登場
          新大阪~都城 24系25形
          新大阪~大分 583系
          新大阪~宮崎 583系
昭和53年10月 愛称表示イラストマークに
        彗星3往復体制 24系25形2 583系1
          新大阪~大分 583系→24系25形置換え
昭和55年10月 彗星2往復体制 24系25形1 583系1
          新大阪~大分 24系25形廃止 
昭和57年11月 583系12連→10連 サハネ2減車 6M6T→6M4T
昭和59年2月   彗星1往復 新大阪~都城 24系25形
          新大阪~宮崎 583系廃止

津久見湾を望む

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 日豊本線を走る583系は昭和43年10月までの特急“みどり”(この時は581系)以来で、寝台特急“彗星”は50年3月、昼行特急“にちりん”は55年10月に復活した。485系中心の“にちりん”の中で2往復の583系は異彩を放っていたが、昭和59年2月改正は鹿児島・日豊特急が485系7連に統一される関係から583系は引退の憂き目を見ることになった。寒波襲来のこの日、津久見湾リアス式海岸の岬から波打ち際の見える海岸線を行く、見納めになるであろう583系“にちりん”の長い編成を見に焼きつけた。 5034M“にちりん24号” 日豊本線日代 S59(1984)/1/28

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 日代駅は津久見湾につき出た半島に挟まれた狭隘な入江に位置し、上下線は構内のトンネルをはさむ形の珍しい配線である。岬から見るとひなびた漁村の情緒が味わえる。突如下り線に現れた列車は東小倉発宮崎行荷物列車で、機関車次位に何故かオハフ50が連結されていた。並びはオハフ50以下マニ44・マニ50・ワキ8000・オユ14の寂しい5輌編成であった。牽引機ED76は上り勾配の先にある津井トンネルをめざす。 荷1033レ 日豊本線日代 S59(1984)/1/28

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 津久見で上り583系“にちりん24号”と交換した小倉発西鹿児島行“にちりん17号”がやって来た。夕日が西に傾く頃、美しい豊後水道を車窓に映しながらリアス式海岸を進む。行路は長く宮崎19:08、都城20:05、西鹿児島21:27着であった。 3027M 日豊本線津久見~日代  S59(1984)/1/28

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 日代で退避していた上り貨物列車は3027M“にちりん17号”の通過を待って発車する。ワム80000ばかりが連なり最後尾はヨ6000が締めていた。ED76は冷たい海風を受けて日見トンネルをめざす。 日豊本線津久見~日代  S59(1984)/1/28

D60の残留について

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 昭和45年10月ダイヤ改正久大本線DL化達成で大分運転所のD60は新製DE101000番台車に置き換わる日であった。9月はD60の最後を記録しようと足しげく通うもののDE10が先頭でD60の顔は運転所に行かないと撮れなかった。D6065〔大〕は機関車線突端の停止位置から駅構内の接続線へ進んでいる。複雑な転線で久大本線ホームに据えられている客車の先頭に付く。 大分運転所 S45(1970)/9
 後方の客車は「大分鉄道管理局教習車」の標記の入った電気機関車用の教習車で、昭和45年5月小倉工場でスハニ351から改造されてオヤ3352〔分オイ〕となり大分運転所へ配属されている。

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 D6061は昭和29年11月汽車会社製D50282からの改造機で、サンドボックスは汽車会社製の角ばった形状がよくわかり、テンダは均整のとれた12-17形が付いている。ターンテーブルから放射状に広がる線路群はとても美しく見える。 大分運転所 S45(1970)/9

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 新製DE101000番台車が続々到着する。本線走行までの間はD60のねぐらを間借りしている。久大本線のDL化は以前からわかっていたが9月初旬の新聞で「なごりおしや汽車ポッポー久大線も今月限り」の見出しが踊っていた。 大分運転所 S45(1970)/9

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 扇形庫に並ぶ各本線の雄。左から久大本線D6062〔大〕、日豊本線C5717〔大〕、豊肥本線C58105〔大〕。 大分運転所 S45(1970)/9

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 9月末、いよいよD60最後の時がやってきた。D60牽引は上りが9月29日、下りが9月30日をもって終了となった。扇形庫は手前からD6065〔大〕、D6063〔大〕、C5753〔大〕が並んでいる。D6063〔大〕はこの日豊後森でお別れ式、大分到着時にさようなら蒸気機関車のセレモニーが行われ蒸機最後の牽引機を務めた。 大分運転所 S45(1970)/9/30
 中学生だった私はこの日がD60の最後と思い暗くなるまでD60の前で別れを惜しんだ。久大本線からD60が居なくなるのは残念の極みであった。新聞報道はこれが事実であると完全に信じ込んでいた。当り前であるが…。

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 開けて10月、8輌のD60(57・58・61・62・63・64・65・67)は姿を消しているか気になって扇形庫を見に来た。10月4日D6061、5日D6063、6日D6067、7日D6058、8日D6057が既に直方へ旅立っていた。が、まだ居る。19番線C58105のとなり、18番線D6065、17番線D6062が見える。 大分運転所 S45(1970)/10

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 22番線にD6064も居る。直方へはいつ頃行くのだろうか。 大分運転所 S45(1970)/10

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 D6062は臨検の札が立ち蒸気を上げている。撮影時は9月30日限りでD60は終わりと思い込んでいたので整備中の姿も不思議に思わず、以後扇形庫へ立ち寄ることも少なくなった。D60残留のことは機関車番の人に聞いたか、状況から察知したのか定かではないが、実はD60全てを置き換えるだけのDE10は揃わず、D6062・D6064・D6065の3輌は大分へ踏みとどまるとのことであった。あの新聞報道は何だったのだろうか。自分なりに久大本線昭和45年10月改正は暫定的DL化と呼ぶことにした。この写真の撮影日は5輌のD60が全て直方へ行った後だったので10月8日以降と思われる。 大分運転所 S45(1970)/10

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 後になってD60の運用が明らかになった。大分側は早朝深夜の時間帯で撮影はできなかった。残留3輌のうちD6062は昭和46年3月に、D6064・D6065は11月に直方へ転属となり大分運転所D60はこの時点で終焉となる。DE101031~1033の3輌が10月に落成したのでそれに呼応したものと思われる。

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 昭和45年10月以降久大本線からD60は退いたものと思いこんでいた。早朝5時過ぎに聞こえる豊後竹田行貨物列車のC58のドラフト音はいつものことであったが、時々そのドラフト音が間隔をあけて二度聞こえることがあった。C58とは別の響きでそのうちD60はまだ走っているのではないかと思うようになってきた。ーD60は時々走っているーの確信は深まってくるものの早朝深夜の時間帯で写真を撮りに出かけることはなかった。そんな思いを抱いていた夏休みの早朝、明るくなる時刻にD60期待で線路脇に立つ。濃い朝霧の中、白い前照灯とオレンジの表示灯を輝かせたDE10の機影が突如視界に現れた。願いかなわずD60は来てくれなかった。 DE101023〔大〕 694レ 久大本線天神山~小野屋 S46(1971)/8/13

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 D60が来るとわかっていた訳ではなく偶然にD60を見かける。前出のダイヤではなく豊後森発大分行1635レのDE101018〔大〕の次位に回送のD6065〔大〕が付いていた。南大分構内は交換設備も貨物側線も撤去され、D60の牽く列車同士が交換していた時代が嘘のような寂しい光景に変わり果てていた。 久大本線南大分 S46(1971)/8
 この年の秋、D6064・D6065の残留2輌は直方へ行き配置表から大分配置のD60は姿を消す。久大本線の完全無煙化は1年遅れで達成された。

スユ16

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 何気なく撮ったピカピカの郵便車のことを調べてみた。後位側妻面の標記で形式はスユ16とわかる。「荷物車・郵便車の世界ー昭和50年代のマニ・オユの記録ー」(クリエイティブモア刊)によると、スユ16は2000番台と2200番台がありスユ162201~2204の4輌は昭和51年製で門司配置車であった。門モシの標記からこの4輌のいずれかと思われる。「郵政省」の銘板が印象的。 門司 S52(1977)/8/8

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 スユ162200番台は第2種車の記載があり、第1種車は一般用、第2種車は「東門線」と呼ばれた大幹線の東京~門司間特例輸送車ということであった。鉄道と郵便の関係についてはさらに興味の湧くところである。スユ16の貫通扉は前位側は窓がなく後位側だけ窓が付いていた。また郵政省の銘板の位置も前位と後位では尾灯の上下で異なっているのもわかる。 門司 S52(1977)/8/8

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 門司駅4番ホームに汐留発東小倉行荷37レが長い編成を横たえていた。いつの間に入換が行われたのかわからなかったが郵便車が1輌欠き取りホームに押し込まれていた。門司駅各ホームの下り寄りは郵便荷物積み降ろし用に欠き取りホームが設けられていた。先端の欠き取りホームに入った真新しいスユ16から郵袋が降ろされ「郵政省」のロゴの入った台車に山積みされていた。光沢のある車体に郵便のレタリングと門郵の白いサボが心地よいコントラストをなしている。 スユ16 門司 S52(1977)/8/8

トラ90000

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 貨物列車でよく見かけたチップ積の無がい車。でも意外と写真は撮っていない。唯一のこのカットは残念ながら下回りが写っていない。偶然見かけたライトグリーンのケージにチップを満載したトラに思わずカメラを向けたものと思われる。チップは紙の原料となり、常備駅の市田天竜川の上流、豊橋から約140Km奥に入った所で、行先は東海道本線富士辺りの製紙工場であろうか。 コトラ91985 形式トラ90000 静 市田駅常備 飯田線小坂井 S51(1976)/3/26

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 「札」や「釧」の局名標記の入ったチップ積トラ90000が編成に組み込まれた宗谷本線の貨物列車。 天塩中川 S49(1974)/9/14