転轍器

古き良き時代の鉄道情景

田川線油須原辺り

 行橋から今川に沿って上流に向かう田川線は油須原から渓流とは反対側の北寄りに進路をとる。豊津からのゆるやかな勾配は崎山から急な上り坂となり、油須原を過ぎた先が最高地点となってそこから直方平野の南の端、伊田へと下って行く。赤村の油須原駅は旺盛な石炭輸送を支える長大な有効長の3線が敷設されていた。昭和46年春は旅客はC11、石炭・石灰石専用貨物列車は9600が担当していた。気動車列車はまだごくわずかな時であった。

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 下り列車は油須原を出て少し走ったところで上りから下り勾配に変わる。小鳥のさえずりが聞こえてきそうな牧歌的な高原風景の中を逆向C11がオハ35やオハフ61の4輌編成を牽いてころがって来た。 行橋発添田行429レ 田川線油須原~内田(信)S46(1971)/4/3

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 79668〔行〕がセラだけの編成を牽いてゆっくりと近づいて来る。この辺りが田川線の最高地点と思われる。 後藤寺発苅田港行462レ 田川線油須原~内田(信)S46(1971)/4/3

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 油須原駅手前の深い掘割を行く29611〔後〕+19688〔後〕重連苅田港行石炭列車。 464レ 田川線油須原~内田(信)S46(1971)/4/3 

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 油須原下り場内信号機は本線と副本線用と2基建っている。本線は従属の通過信号機も備えられて、田川線は急行列車は走っていないので通過する返空列車があると思われる。 434レ 田川線油須原 S46(1971)/4/3 

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 今川の深い谷を見ながら積車の石炭列車は崎山に向かって下って行く。最後尾セフの端面は黄帯と後部標識灯の赤色円板できりりと締まり、飛び出したブレーキ覆いがユーモラスに見える。 田川線崎山~油須原 S46(1971)/4/3

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 油須原構内は崎山方からゆるやかな曲線を回り込んで有効長の長い3線が敷かれていた。内田寄りの貨物側線から下り貨物を見る。69642〔行〕のデフは門デフでありながら面積の広い独特の形をしている。 469 レ田川線油須原 S46(1971)/4/3

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 内田寄り構内は一直線に見える。2基の出発信号機は外側本線の腕木が下がってセフ2輌だけの469レが発車する。 田川線油須原 S46(1971)/4/3

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 C11162〔行〕の牽く添田発行橋行客車列車は陽が傾きかけた油須原17時58分発。コンプレッサー排気管からの息遣いが夕陽に映える。 438レ 田川線油須原 S46(1971)/4/3

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 小高い丘から「青春の門」で「異様な山」と表現された香春岳が望める。左は筑豊炭を苅田港へ輸送する最短ルートの油須原線の路盤が見えている。撮影時は何も知らなかった。列車は9600重連のホキ・セキ・セラの返空編成。 田川線油須原~内田(信)S46(1971)/4/3

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 先の小高い丘から撮れば画面に重連プラス後部補機の編成が納まったであろうが当時はそのような感性は持ち合わせていなかった。乾いたドラフト音で喘ぎながら近づいて来る9600重連は天気が良いからか煙が出ていない。長い編成前寄りは高さ不揃いのホキとセキが乱雑に組み合わされていた。 6492レ 田川線油須原~内田(信) S46(1971)/4/3

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 後部補機が見えた。かなり奮闘している。煙も吐いている。田川線石灰石列車はセキ6000とホキ4200、それにセラ1とホラ1、最後部はセフ1というのが定形で、高さの揃わない編成、法則があって無さそうな車種の順列など、模型的で楽しさを覚える。 6492レ 田川線油須原~内田(信) S46(1971)/4/3

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 長い車列が目の前を通り過ぎるのにかなり時間を要したような気がする。補機の焚口から一瞬赤い炎が見えた。頂上まであとわずかだ。 6492レ 田川線油須原~内田(信) S46(1971)/4/3

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 補機は油須原到着と同時に開放され、間髪を入れずに今来た道を余裕で戻る。勾金から後続列車の頭に付くか、それとも単機のまま伊田もしくは後藤寺まで戻るのかもしれない。 田川線油須原~内田(信) S46(1971)/4/3 

行橋駅貨物取扱設備

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 行橋は2面のホームに3線の日豊本線田川線のホームと貨物列車退避の副本線2線がレイアウトされていた。中線に向い合せのセフ2輌だけの田川線下り貨物が入って来た。行橋で見る貨物列車は田川線苅田港を行き来する石炭専用貨か石灰石専用貨の長編成重量列車ばかりの印象があった。かつて撮ったスナップから構内本屋側の小波瀬寄りに一般貨物の積卸設備が写っているのに気づいた。貨物ホーム上屋と貨物置場にオレンジ色でお馴染みの日通のトラックが数台停まっているのが見える。側線につながれた背の低い有蓋車はワ12000かもしれない。どこの駅にもあった貨物取扱設備であるが、当時はそれにレンズを向ける余裕はなかった。 行橋 S48(1973)/3/29

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 行橋で見た貨物列車はセラ・セム・セキ・ホキばかりで組まれた編成がほとんどだったのでこのような一般貨物は珍しくカメラを向けたのかもしれない。手前木製あおり戸の無蓋車とプレスのトラは石炭が積まれている。後方の建物は信号扱い所だろうか。 行橋 S48(1973)/3/29

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 苅田港からの石炭車返空編成が行橋中線で待機する。機関車は後藤寺機関区の29608。セム6990+セラ5414+セラ1487+…と続く石炭車編成を眺める。何気ないスナップだが、15㌧積のセム6000と17㌧積のセラ1は高さが違うのを改めて知らされる。 行橋 S46(1971)/8/10

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 小波瀬寄りの貨物側線で入換風景に出会う。後方は日豊本線3線を跨ぐ味のある木製の跨線橋が写っている。 行橋 S49(1974)/5/2

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 機関車だけに目が行っているので貨物設備全体の風景がわからないのは残念である。79605〔行〕のテンダ背面はいく筋ものリベットが並んでいる。 行橋 S49(1974)/5/2

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 79605〔行〕は西唐津機関区配置で唐津線や佐賀線で活躍していた。昭和48年以降に行橋機関区へ来たものと思われる。撮影時は気づかなかったがデフに大きなつばめマークが描かれていた。 行橋 S49(1974)/5/2

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 ワムを押し込んで引上げた時に79605〔行〕の顔が見えた。デフのつばめマークは
公式側だけに描かれているようだ。 行橋 S49(1974)/5/2

田原坂

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 「雨は降る降る、人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂♪」のメロディが浮かぶ田原坂西南戦争の激戦地としてその名前はよく知られている。その歴史よりも鉄道名所「田原坂」に憧れて訪れてみた。峠越え難所のイメージを抱いていたが複線の近代的な路盤はなだらかな坂のように見えた。

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 博多発熊本行“有明5号”7輌編成が疾走する。485系は特急増発による短編成化で中間車から先頭車に改造された新たな形式が登場していた。熊本寄り1号車はサロ481からの改造クロ480、博多寄り7号車はモハ485から改造されたクモハ485と思われる。 1005M 鹿児島本線木葉田原坂 S61(1986)/1/18

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 熊本・長崎行“みずほ”は14系15形14輌編成で東京を発ち、鳥栖で長崎編成を分け、田原坂は8輌編成で登って来た。A寝台と食堂車は熊本編成に付き2号車はオロネ14、屋根の色が違う6号車がオシ14のようだ。 5レ 鹿児島本線木葉田原坂 S61(1986)/1/18

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 古戦場を行くフレートライナー。九州西側の縦貫線はコキフを両端に構えた重量編成が闊歩していた。この区間北陸本線から九州入りしたEF70がブルートレインやフレートライナーを牽引していたが、撮影時はすでに姿を消していた。ED72・73の時代、EF70の時代それぞれに行きたいという思いはあっただけに残念でならない。 鹿児島本線木葉田原坂 S61(1986)/1/18

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 カーブの先から堂々15輌編成の西鹿児島行“はやぶさ”が姿を現した。

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 ED76屋上の碍子の色が緑色に見える。カニ24の次は個室寝台のオロネ25のようだ。

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 木葉からの上り勾配は田原坂を過ぎると熊本平野に向かって下りになる。西鹿児島行“はやぶさ”は6号車までで、食堂車とロビーカーを含む7号車から14号車までは熊本落しとなる。“はやぶさ”熊本着は10時50分。 3レ 鹿児島本線木葉田原坂 S61(1986)/1/18

泉都別府の玄関口 別府駅

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 別府駅日豊本線ではあるが、豊肥本線久大本線の急行や普通の始発終着駅でもあって列車密度は高く、次から次へと特急・急行・普通の電車や気動車が入っては出て行く、忙しくそして賑やかな駅である。中線2線は熊クマと分オイの12系6連2編成が置かれ、高架6線が列車で埋まる光景は壮観であった。 日豊本線別府 S54(1979)/1/24

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 上りホーム4番線は大分発小倉行3514M“ゆのか4号”が到着。この編成はクモハ+モハ+クハの3連3ユニットのモノクラス9輌編成であった。3番線は三角発別府終着の703D“火の山5号”7輌編成が入線中。“ゆのか14号”発車の後、“火の山”編成は亀川始発の豊後竹田普通列車となるため亀川へ回送される。 日豊本線別府 S54(1979)/1/24

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 “火の山5号”編成は普通列車へ変身、愛称サボは裏返しに、行先は「亀川→豊後竹田→大分」に差し替えられていた。キハ65の折り戸片側の窓が塞がれているのに気づく。 日豊本線別府 S54(1979)/1/24

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 下りホーム2番線は別府発西鹿児島行505D“日南5号”のアイドル音が響いていた。長駆西鹿児島から504D“日南4号”で北上してきた編成は2時間後に再び来た道を南下する。 キハ5855〔分オイ〕 日豊本線別府 S54(1979)/1/24

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 “日南5号”2号車はキハ6513〔分オイ〕。車体はユニットサッシと2枚戸の出入口、上回りはユニットクーラー、下回りはよくわからないが空気ばねの台車、エンジンや冷房用電源装置らしき床下器具がとても格好良く見える。 日豊本線別府 S54(1979)/1/24

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 下り方の配線を見る。別府から大分寄りは日豊・豊肥・久大各方面の折返しが多数あるため、下り出発信号機は3基設置されている。上り線からの折返しは5番線(3番ホーム)で行う配線に設計されている。中線2線は5番線から下り線への渡り線から分岐しているのがわかり、留置線からの列車引上げは本線を塞いでしまう配線となっている。後年、列車本数が増え、本線を塞ぐ留置仕業は不可能となり別府発着の留置は亀川へ変更となった。 日豊本線別府 S54(1979)/1/24

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 2編成の12系客車が中線に留置されている。下りホームの駅名標と海ぞいに建つ泉都別府の象徴、別府タワーが見える。 日豊本線別府 S54(1979)/1/24

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 別府市街の高架線から海側は別府湾と高崎山が、山側は鶴見岳と温泉街の湯煙、別府大仏が望めた。12系は手前が熊クマ車、奥が分オイ車の各6輌編成。

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 別府駅の高架化は日豊本線複線化工事と併せて昭和41年9月に完成している。当時としては画期的な構想の民間商業施設を併設した「民衆駅」として誕生した。九州では門司・西鹿児島・八幡・小倉・博多・戸畑に次いで7番目の民衆駅となった。国鉄の旅客収入番付(昭和42年データ)は、(1)博多(2)熊本(3)小倉(4)西鹿児島(5)長崎(6)大分(7)宮崎(8)別府(9)佐世保(10)久留米と並び泉都別府は観光地の面目を保っているように見える。当時「ハネムーンは九州へ」の流れで急行“ことぶき”を始めとしてオールA寝台車、グリーン車の専用列車が数多く九州入りしていたようだ。別府の留置線はそれらの団体専用列車用として設けられたものと思われる。 日豊本線別府 S54(1979)/1/24

 別府の交通を振り返ると、豊州鉄道が南下をめざすも国有化され別府に鉄道が到達したのは明治44(1911)年7月で、別府港開港から40年後、豊州電気鉄道の別府~大分間軌道線が開通してから11年後のことであった。瀬戸内航路で栄えた別府は鉄道の開通により新たな湯治客・観光客が格段に増加し、北九州からは炭鉱王も訪れるようになったと聞く。

別府湾の風景 昭和50年代の別府~大分間

 “彗星5号”と貨物列車の交換

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 田ノ浦の波打ち際が見える岬で下り“彗星5号”とホキ800を連ねた上り貨物列車が行き交う。 
 “彗星”は昭和43年10月、新大阪~宮崎間に20系でデビュー、“富士”に続いて日豊本線2本めのブルートレインが誕生した。その後着々と増発が行われ、47年3月は20系の大分“彗星”、48年10月は14系で2本(内1本は“あかつき”と併結)、49年4月は24系25形が登場し計5往復までに発展していた。5往復体制は新幹線博多開業の50年3月までで、この改正によって3往復に整理され、2往復は583系電車に変更となりブルートレイン“彗星”は24系25形1往復となる。 3005レ 日豊本線東別府~西大分 S55(1980)/9/21

 ED7618〔大〕牽引の24系25形3005レ“彗星5号”大分行

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 旧仏崎信号場の跡を11輌編成の24系25形“彗星5号”大分行が青い海を見ながら快走する。カニ24の帯だけ白くオハネフ25とオハネ25の列はシルバーの帯が光る。
 昭和53年10月改正以降の“彗星”は宮崎編成(1・6号)が583系12連、都城編成(3・4号)
が24系25形12連(付属6連大分落し)、大分編成(5・2号)が24系25形10連の布陣であった。
 3005レ 日豊本線東別府~西大分 S55(1980)/9/21

 ED7679〔大〕

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 別府湾からの朝日を浴びるED7679〔大〕は、南宮崎電化開業用として昭和49年5月大分運転所に新製配置された。54年10月現在ED76は門司機関区に13輌、大分運転所に43輌、鹿児島機関区に61輌が配備され、計117輌が活躍していた。54年10月は日豊本線全線電化が完成し、鹿児島機関区のED76 1000番台も日豊本線北部に姿を見せるようになった。 日豊本線西大分 S55(1980)/9/21

 博多発大分行5509M“ゆのか9号”

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 南福岡電車区の457・475系が大分電車区に移動したのは昭和48年10月改正で、基本編成鹿児島、付属編成大分の受持ちで東海道・山陽・九州線の急行運用が行われていた。その後50年3月改正で457・475系は全車大分配置となり、特急運用は南福岡・鹿児島、急行運用は大分と区分けされる。54年12月現在、大分電車区の457・475系電車は136輌が配置され、“かいもん”・“ぎんなん”・“ゆのか”・“日南”・“錦江”に運用されている。基本編成はサハシ455が抜かれて下り向←クハ455+モハ474+クモハ475+サロ455+モハ474+クモハ475の6連に短縮されていた。 5509M 日豊本線東別府~西大分 S55(1980)/9/15

 大分発小倉行3514M“ゆのか4号”

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 朝2本めの“ゆのか”が北上する。後方、扇山を背景に湯煙たなびく別府の街並みが広がっている。 日豊本線東別府~西大分 S56(1981)/12/6

 大分発門司港行524レ

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 昭和54年4月、大分運転所に50系客車が新製配置され、豊肥本線豊後竹田運用に投入された。日豊本線門司港運転区の受持ちで門司港~柳ヶ浦・大分・佐伯間で運用が開始された。門モコ車はひと足早く筑豊本線上山田線へ入り、行橋で分割する田川線運用にも加わって50系客車の勢力は拡大していた。大分発門司港行524レはぴかぴかの新車50系8連でED7665〔大〕が牽いて来た。 日豊本線東別府~西大分 S55(1980)/9/28

 懐かしい緩急車

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 ED7669〔大〕が下り貨物列車を牽いて眼前を通過した。上り線は複線化時代にできた白木トンネルの出口が見え、下り線は海岸線を回る従来線でこの区間は上下線が並んでは離れる線増の過程を見ることができる。程よい長さの編成の最後尾は通風器が3つ並んだ貨物室側が外を向きワフ35000かワフ29500だろうか。ワフの尾灯も昔は大形の円形赤色標識が付いていた。 日豊本線東別府~西大分 S56(1981)/3/8

 三角発別府行703D“火の山3号”

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 キハ5882〔分オイ〕先頭の“火の山3号”は白木トンネルを飛び出して高速で右曲線を進む。編成はキハ58とキロ28だけでキハ65は入っていない。 日豊本線東別府~西大分 S56(1981)/3/8