転轍器

古き良き時代の鉄道情景

別府湾の風景 昭和50年代の別府~大分間

 別府発博多行604D“由布4号”

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 波穏やかな別府湾を見渡せる岸壁から遠望すると、6連のキハ58系編成がゆっくりと山がせり出す海岸線をなぞって進んで来るのが見える。それは別府発博多行“由布4号”で、先頭からキハ58603〔分オイ〕+キハ65+キハ28+キハ58+キロ282203〔分オイ〕+キハ58の編成であった。別府湾の「ぎらぎら」が反射するSカーブを紫煙をたなびかせながら進んで行った。 604D 日豊本線東別府~西大分 S55(1980)/8/3

 宮崎発小倉行506M“日南6号”

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 高崎山が別府湾にせり出したこの区間は国道と下り線が寄り沿って海岸線のラインに従って進む。電化時の複線化で増設された上り線は山の斜面の高い位置に敷設された。交直流急行色のあずき色とクリームの475系“日南”は先頭からクモハ475+モハ474+サロ455+クモハ475+モハ474+クハ455の6連で小倉~宮崎間と別府~宮崎間に3往復設定されていた。 506M 日豊本線東別府~西大分 S55(1980)/8/3

 亀川発豊後竹田行2746D

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 豊肥本線大分~豊後竹田間は朝夕2往復の客車列車が伝統的に運行されていた。昭和47年3月のDL化の際に1往復は気動車に置換えられ、編成は客車6輌から7輌に、運転区間は大分~別府間が延長された。その後亀川まで延長され、撮影時は亀川始発豊後竹田行の列車となっていた。最後尾はキハ55178〔分オイ〕が務める。 2746D 日豊本線東別府~西大分 S55(1980)/2

 白木海岸を行く気動車7輌編成の豊後竹田

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 亀川始発の豊肥本線上り豊後竹田行は、日豊本線は大分まで下りではあるが列車番号は偶数のままである。豊後竹田行2746Dは三角折返し“火の山”4連にキハ55組込みの3連を加えた7連で、豊後竹田到着後直ちに大分へ戻り車庫入りとなる運用であった。 2746D 日豊本線東別府~西大分 S55(1980)/2

 ED7669〔大〕牽引の8レ“富士”

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 ブルートレインヘッドマークが廃止されたのは新幹線博多開業の昭和50年3月改正からで、理由は確か合理化によるものと記憶している。ヘッドマーク無しは残念ではあるものの14輌の青い寝台車群はやはり魅力的であった。“富士”は20系から24系に置換わる際に15輌から14輌編成となり撮影時は24系25形にグレードアップしていた。ED7669〔大〕は昭和49年4月の南宮崎電化時に増備された55~80番のグループである。 8レ 日豊本線東別府~西大分 S55(1980)/2

 博多発宮崎行5031M“にちりん11号”

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 “にちりん11号”は赤スカートクリーム帯のクハ481とサロ481・サシ481組込みの10輌編成であった。昭和55年10月改正でサシ481が外されるので10連最後のショットかもしれない。イラストマークではないオリジナルの愛称板はJNRの風格を感じる。別府~大分間はカーブの連続で特急とはいえ気動車・電車急行と同じ13分を要していた。海岸線から市街地へと入るこの位置は西大分駅手前の丘陵地を登った狭い坂道の途中から見た海の見える景色である。 5031M 日豊本線東別府~西大分 S55(1980)/8/3

 宮崎発博多行5032M“にちりん12号”

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 “にちりん12号”は貫通形クハ481 200番台とサロ481 2輌組込みの11輌編成であった。手前から4輌めは屋上にきのこ形クーラーが見えるのでサシ481かなと思ったが、サロ481はきのこ形とAU13と呼ばれる角形のクーラーが載った2タイプがあるようだ。鉄道と道路3段構造の海岸線の先に遠く別府の街並みが霞む。 5032M 日豊本線東別府~西大分 S55(1980)/8/3

 別府発博多行604D“由布4号”

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 日没前、夕日で赤く染まる別府湾の岬をキハ58系6輌編成が回り込む。カーブを曲がる際に発する独特な車輪のきしむ音が手前の崖に反射する。別府から久大本線に入る急行列車は博多行“由布”が2本と長崎・佐世保行急行“西九州”が設定されていた。 604D 日豊本線東別府~西大分 S55(1980)/9

回送3重連

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 午前8時台の大分駅東部貨物ヤードではD51日豊本線下りと9600の豊肥本線上り貨物列車がたて続けに発車する。南延岡行は8:45発、熊本行は9:04発で撮影の効率はとても良かった。その貨物列車の発車を撮るつもりで構内の隅に立っていたら思わぬ電気機関車の3重連と遭遇し、そちらがメインタイトルとなった。 6593レ 大分 S47(1972)/2/20

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 D51176〔延〕は昭和45年10月の鹿児島本線全線電化で熊本機関区から南延岡機関区へ転属してきた。ナンバープレートは熊本時代はキャブからはみ出して付けられていたが南延岡に来て側窓の下へ戻されたと思われる。リンゲルマン濃度計が誇らしく立っている。 大分 S47(1972)/2/20

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 強風に煙が煽られ、後追いを撮ろうと振り返ると何と、豊肥本線上に電機の3重連が迫って来ている。D51を撮ろうと構えたところにファインダーに電機が飛び込んできた一瞬のすれ違いであった。ED746〔大〕+ED7614〔大〕+ED7624〔大〕は下郡(信)からの回送3重連であった。 大分 S47(1972)/2/20

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 2輌のED76は①新大阪発大分行“べっぷ3号”、②中津発佐伯行1523レの牽引機で、①は大分終着の寝台車編成をそのまま大分電車区へ回送、②はDF50が牽いて来た佐伯発大分行1526レの編成を大分電車区へ回送したその戻りである(佐伯行は大分から牽引機はC57もしくはC58と交替する)。ED74はDE10が牽いて来た豊後森発大分行623レの編成を大分電車区へ回送した戻りで、各車大分電車区で機回しの後、下郡(信)から手をつないで大分に戻って来たものと思われる。大分電車区の電留線は客車列車の昼間疎開先に利用されていた。 ED746〔大〕+ED7614〔大〕+ED7624〔大〕 大分 S47(1972)/2/20

中津発佐伯行1523レの機関車交替と佐伯発大分行1526レの回送の模様はこちらを参照

べっぷ3号の回送の模様はこちらを参照

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 回送3重連が通り過ぎた後も下り貨物列車の長い列は続いていた。煙は相変わらず前方にたなびいている。6593レは鶴崎臼杵津久見・佐伯で貨物扱いを行い南延岡には16:44に到着する。 大分 S47(1972)/2/20

佐志生越え

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 日豊本線は小倉から九州東海岸を鹿児島まで縦断する。大分県内の線形は周防灘にせり出した国東半島と、別府湾から豊後水道につき出た佐賀関半島を横切るように描かれている。宇佐から杵築にかけて国東半島のつけ根を越えるのが立石峠、大分平野を直進し幸崎の手前で右に曲がり佐賀関半島を横断するのが佐志生越えで、いずれもサミットは立石トンネル、佐志生トンネルであった。蒸機時代、立石峠は柳ヶ浦機関区の補機で難所を越えていた。
 平成時代、幸崎駅近くに居住していたという同年代の人と仕事上で知り合い、その人は鉄道好きでもない普通の人であったが、私が汽車好きということで、「幸崎を出た蒸気機関車の牽く貨物列車は苦しそうに走っていた。時々その貨物列車の後ろでもう1台の蒸気機関車が押しているのを見たことがある」と話してくれた。佐志生越えで後部補機は聞いたことがないが、話は昭和30年代、南延岡機関区のD51が牽く貨物列車に大分折返しの柳ヶ浦機関区のD50が間合いで助っ人に入っていたのかも、いや幸崎折返しの旅客列車に大分運転所のD60か8620が回送で付いて来てひと駅間だけ後押しをしたのでは、などと勝手な想像で楽しむ。
 佐志生越えはDF50の牽く列車で体験したことがある。その話がきっかけで佐志生トンネル付近まで足を延ばしてみた。幸崎~佐志生間7.2㎞は15.2‰の勾配に佐志生トンネル1423m、第1目明トンネル113m、第2目明トンネル68mが立ちはだかっていた。
 佐志生トンネルを出るED7643の牽く上り貨物列車 日豊本線幸崎~佐志生 H9(1997)/4/16

14系“くにさき”とキハ80系“にちりん”の終焉 昭和55年10月ダイヤ改正

 昭和55年10月ダイヤ改正は概ね特急の増発と急行の削減に終始した内容であった。特急“富士”が宮崎~西鹿児島間が廃止されたのを始めとして、関西対九州夜行急行は全廃された。九州関連は次の通りとなった。
 廃止 おおよど 阿蘇・くにさき 雲仙・西海 ぎんなん ちくご 西九州
 急行快速化 日田 あきよし あさぎり はんだ 佐多 錦江 大隅 
 減便 彗星 かいもん 出島・弓張 日南 ゆのか 火の山 えびの 
 増発 有明 かもめ・みどり にちりん

 日豊本線関連は14系客車使用の“くにさき”と19年間続いたキハ80系気動車特急の最後を飾る“にちりん”廃止の便りを聞き、記録するのは今しかないと慌てて重い腰をあげた。

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 新幹線博多開業前の対九州夜行急行の全盛時代には、雲仙・西海・天草・阿蘇・日南・桜島・高千穂と錚々たる名前が輝いていた。新幹線時代を迎えると夜行急行は14系にグレードアップし、長崎雲仙+佐世保西海、熊本阿蘇、大分くにさきの3往復がかすかにその孤塁を守っていた。“くにさき”は11輌編成でスタートしたが昭和53年10月に“阿蘇”と併結となり、大分行はさびしいかな5輌編成となった。“阿蘇・くにさき”の編成はマニ37〔大ミハ〕+熊本編成6輌〔熊クマ〕+大分編成5輌〔門ハイ〕の12輌で、東海道山陽筋では夜行急行の面目をかろうじて保っていた。夜行急行全廃の55年10月改正を翌日に控え、最後の“くにさき”を下り大分場内入口で見とどけた。 4201レ 日豊本線西大分~大分 S55(1980)/9/30

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 急行“くにさき”の歴史を振り返ると、昭和34年京都~熊本間“天草”に大分編成が併結されたのが始まりで、その後都城に延長され列車名は“日向”と改称され“くにさき”の名前は一旦消える。昭和42年10月改正で東京~長崎・大分間の九州観光号が“五島”・“くにさき”と改められ、再び名前が登場する。しかし1年後、寝台急行“べっぷ”に改称され2度目の消滅となる。日豊本線夜行急行は宮崎県ゆかりの高千穂・日向・日南が伝統的に続き、大分県ゆかりのくにさき・ぶんご・べっぷは単発であった。“くにさき”3度目の復活は昭和50年3月から5年半と最も長く、六郷満山と呼ばれる神仏の里、国東半島の名前を広めてくれた。
 方向幕は「大阪」を出す上り4202レ“くにさき” 下りは新大阪発上りは大阪行であった。 大分 S55(1980)/9/15

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 博多10:39発西鹿児島19:50着5025D“にちりん5号”が軽快なエンジン音をあげて別府湾沿いを行く。昭和43年から12年間続いた気動車“にちりん”の編成は、食堂車キシ80の廃止以外登場時と変わっていない。下り西鹿児島寄りから①キハ82②キロ80③キハ80④キハ80⑤キハ80⑥キハ80⑦キハ82の7輌編成であった。 日豊本線東別府~西大分 S55(1980)/9/14 

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 日豊本線キハ80系の歴史は昭和36年10月の白紙大改正から始まる。宮崎“かもめ”で日豊特急時代の到来を告げ、新幹線開業の39年大分“みどり”、40年堂々13輌編成の宮崎“いそかぜ”(かもめ→いそかぜ/付属6輌大分落し)、そして43年博多~西鹿児島間“にちりん”の誕生である。同時に“いそかぜ”が“日向”に改められて2本の80系特急が49年の南宮崎電化まで続く。“にちりん”は7輌編成であったが、45年季節によって2輌増結されるようになりキハ82の前にキハ82+キハ80が付く9連が見られるようになった。“日向”も48年、7+3の編成となり大分運転所で付属3輌が待機している姿を見ることがあった。日豊電化の南進に伴い“にちりん”は漸次発展をとげ、鹿児島電化の54年には8往復に成長していた。“にちりん5ー16号”は485系の中で孤塁を守る80系気動車であったが、55年10月そのバトンを電車485系に渡し姿を消した。それは19年間続いた日豊本線気動車特急時代の幕切れであった。
 休日の午後、別大海岸の渋滞を横目に南下する80系“にちりん5号” 日豊本線東別府~西大分 S55(1980)/9/14

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 乙津川橋梁は蒸機時代の面影を残す趣きのある鉄橋である。煉瓦のピーアとプレートガーダーの味のある構図はやはり気動車“にちりん”がよく似合う。 5025D“にちりん5号” 日豊本線高城~鶴崎 S55(1980)/9/15

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 “にちりん1号”はキハ82を中間にはさむ9輌編成で博多~西鹿児島間を約8時間40分、表定速度64㎞/hで走破していた。停車駅は黒崎・小倉・中津・別府・大分・臼杵・佐伯・延岡・日向市・宮崎・都城霧島神宮・隼人・鹿児島であった。 4012D 日豊本線高城~鶴崎 S48(1973)/8 

丸ノ内線四ツ谷

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 国電乗換えのため下車した四ツ谷は視界が開けた地上駅であった。電車が通り過ぎて目に映った光景は、異様に広く感じる線路の幅、電車線なのに架線が無い、第3軌条が路盤を這う、ジェットコースターのような急勾配で地下から地上に駆け上がりまた地下に潜るさまは、何か日本とは思えない外国の鉄道シーンのように思えた。先頭車輌から降車し、前方に人がいなかったのでカメラを取り出してスナップしたように記憶している。丸ノ内線の電車はシンプルなデザインの赤い車体に波模様が連続する白い帯が巻かれていた印象がある。
 当時の交通公社の時刻表は巻末の赤いページ(国鉄の営業案内)の次に黄色のページがあり、それは「国鉄バス・会社線」の案内で全国の鉄道からバス、船舶、航空まで“のりもの”の全てが網羅されていた。関東地方のページを開くと東京近郊私鉄各線に丸ノ内線は掲載されていた。
 丸ノ内線は池袋~荻窪営業キロ24.2Km運賃200円、中野坂上方南町間同3.2Km100円。四ツ谷駅を見ると初電荻窪行5:28池袋行5:22、終電荻窪行0:07池袋行23:55、この間2~4分毎と記載されている。
 遠いあの時代を懐かしむ。 帝都高速度交通営団丸ノ内線四ツ谷 S55(1980)/3