転轍器

古き良き時代の鉄道情景

南熊本

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 所用で熊本に立ち寄った際、目的地の熊本南地区へ向かう途中に南熊本の駅舎が目に入り、同行者の了承を得て急いでスナップしたのがこの1枚。蒸機時代に通った水前寺・南熊本の駅は貨物側線の多い大きな駅の印象が残っている。本屋入口にりっぱな銅板で駅の説明が掲げられていた。北の上熊本駅と同様威厳のある駅舎は市電と熊延鉄道が乗り入れる交通の要衝であったことを物語っているようだ。 豊肥本線南熊本H6(1994)/10

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 熊本市南部の玄関口である南熊本駅は、大正3(1914)年6月に豊肥線(熊本ー大津)の開通により開設された。当時はその地名をとって春竹駅と呼ばれていたが、昭和15(1940)年に南熊本と改称された。
 大正4(1940)年、春竹駅(南熊本駅)を起点として御船鉄道が開通、その後昭和2(1927)年に御船鉄道は熊本・延岡(宮崎県)間の全線開通を目標として熊延鉄道と改称した。同4年には市電の南熊本線が辛島町から春竹駅前(南熊本駅前)まで開通した。しかし、同39年に熊延鉄道が、同45年に市電の南熊本線が廃止になった。
 駅周辺には、木材や植木などの業者が多く、駅南側の田迎地区は、戦前から花きの産地として知られ、今も1年を通してバラやカーネーションなど絶えることがない。駅西側を通っている旧日向街道は、国道445号線浜線バイパスが開通するまでは熊本ー御船ー矢部を結ぶための重要なルートであった。 (南熊本駅説明板から)

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 時は昭和30年代、熊本付近の鉄道・軌道線の概略図を描いてみた。市街地に張りめぐらされた市電は鹿児島本線上熊本・熊本・川尻で、豊肥本線南熊本・水前寺で、熊本電鉄上熊本藤崎宮前でそれぞれ接続していた。熊本電鉄は当時の車庫は旧線の室園にあり、黒髪町の手前で引込線が分岐していた。また上熊本からは市電の1435㎜軌道に一部1067㎜軌間の3線軌条があって熊本倉庫線に国鉄の貨車が出入りしていた事を「熊本市電が走る街 今昔」(中村弘之著/JTBパブリッシング/平成17年6月刊)で知る。熊延鉄道は昭和30年代の時刻表を見ると南熊本~砥用間28.6㎞の路線で、朝夕は豊肥本線水前寺まで乗入れる列車が設定され、島原鉄道や南薩鉄道と同様国鉄線上を社線気動車が走っていた。鹿児島本線はC57・C59・C60・C61・D51が走り、豊肥本線はC58・9600が走っていたであろう。あの時代の鉄道情景に思いを馳せる。

修学旅行臨時列車の車窓から -思い出の鉄道風景ー

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 昭和45年6月、複数の中学校で割当てられた修学旅行団を乗せる修学旅行臨時列車がキハ58系6連で仕立てられた。日本交通公社の号車札が側窓に貼られたキハ58265〔分オイ〕の窓側に陣取って、仲間たちとの会話やゲームもそこそこに車窓風景や対向列車に目を奪われることとなった。九州半周の未知の行路は新鮮な鉄道風景の連続で胸躍り、窓際から離れることはできなかった。 日豊本線宗太郎~市棚 S45(1970)/6/3 

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 中学校の修学旅行は3泊4日の鹿児島・島原・長崎を巡る九州半周の旅程であった。豊肥本線沿線に点在する3校の中学校で修学旅行団が組まれ、大分鉄道管理局が仕立てたキハ58系6連の特別列車が移動の主役となった。汽車の写真を撮りはじめていた私は初めて県外の鉄道模様に触れる機会を得て小躍りして喜んだのは言うまでもない。

 九州半周の日程は表の通りで、1日めは豊肥本線滝尾出発(列車は中判田発)、大分で進行方向が変わり日豊本線をひたすら南下し国分で下車する。この日の私の計画は南延岡・宮崎・都城の動力車基地を確認すること、日向路でのC57の牽く貨物列車を撮ることであった。日豊本線の貨物列車はD51が主で旅客機の貨物はとても魅力であった。

 2日めは西鹿児島乗車、宇土下車の鹿児島本線を北上する行路で、電化で消えるハドソンC60・C61を捉えることが一番の願望である。出水機関区のD51、C61と宮之城線に入るC56との重連も見てみたい。

 3日めは長崎観光で鉄道移動はなく、最終日4日めは長崎で乗車し長崎本線全線走破、鳥栖スイッチバックし今度は久大本線全線走破で大分着、再びスイッチバック豊肥本線滝尾下車で旅の終わりとなる。希望は“とびうお”の冷蔵編成を見ること、大村線佐世保線唐津線分岐の様子、佐賀・鳥栖豊後森の動力車基地を確認することであった。

 地図にキハ58 6連の乗車位置を示している。豊肥本線で先頭に乗車するも線路配線の関係から日豊・鹿児島・長崎の各本線は最後尾、久大本線は先頭、豊肥本線下車時は最後尾であった。編成は国分~西鹿児島宇土~長崎間は回送されている。当時鹿児島本線瀬高と長崎本線佐賀を結ぶ佐賀線が健在で、熊本と長崎を結ぶ急行“ちくご”が走っていたことから宇土から長崎までの回送は佐賀線経由ではないかと想像した。しかしそうであるなら私の乗車位置は先頭になることから、回送経路は宇土から鳥栖に出て長崎ということになる。

 また地図には分岐する枝線を記している。順路から日豊本線は日ノ影線・細島線・妻線・日南線吉都線志布志線、鹿児島本線指宿枕崎線鹿児島交通・宮之城線・山野線・肥薩線三角線長崎本線島原鉄道大村線佐世保線唐津線・佐賀線、久大本線日田彦山線宮原線がそれぞれ分岐していた。各駅や沿線で分岐の様子を確認するのも楽しみのひとつであった。

 級友と車内に収まるやいなや楽しい旅は始まり、非日常の空間はゲームや会話の花が咲く。またとない未知の汽車との遭遇を期待する私は級友たちとの語らいもそこそこに対向列車を撮るために列車の進行方向右側の席を確保する。親から借りたオリンパストリップというシャッターを押せば撮れるコンパクトカメラは低速のシャッタースピード固定のため高速で動く列車には不向きであった。恥ずかしい写真ばかりではあるが、写り込んだあの時代の鉄道風景は貴重な記録となった。また車窓に展開する鉄道模様はその後の見聞の獲得に寄与したと思っている。

 ■6月3日 滝尾ー大分ー延岡ー宮崎ー都城ー国分 

 豊肥本線滝尾駅で3校の生徒が揃い修学旅団結団の宣言で旅は始まった。

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 キハ58系6連仕立ての修学旅行臨時列車は軽快に日豊本線を下って行く。車窓を流れる未知の行路の眺めは新鮮で感激の風景として記憶に残っている。山の斜面のみかん畑と海岸沿いの瓦屋根の家並を見ながら列車は日代を通過。 日豊本線日代 S45(1970)/6/3 

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 豊後と日向の国境、宗太郎峠にかかる直川で上り列車交換のためしばらく停車する。姿を現したDF50はトンネルを出てきたからかヘッドライトを点灯させていた。 日豊本線直川 S45(1970)/6/3 

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 初めて見る景色に興奮しながら宗太郎峠を越えて宮崎県に入る。工業都市延岡に到着。南延岡機関区の48693〔延〕が出張して入換を行っていた。 日豊本線延岡 S45(1970)/6/3 

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 次の南延岡は機関区があり、その位置は列車の進行方向右か左かで車内を移動しなければならない。列車が減速をしたその一瞬、車窓左に憧れの南延岡機関区を確認し、無我夢中でシャッターを押す。扇形庫には日ノ影線用のキハ10・キハ20とC12、本線のD51がずらりと並びとても圧巻であった。 南延岡機関区 S45(1970)/6/3

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 車窓左側は広いヤードが展開し、48692〔延〕が長い編成を牽き出していた。南延岡機関区のハチロクを通りすがりに2輌を撮影できたのは幸運であった。南延岡は機関区と客貨の中継基地で日豊本線南部の要衝である。 日豊本線南延岡 S45(1970)/6/3

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 細島線が分岐する日向市に停車。日向市は2面3線のホーム配置で後方に貨物ヤードが見えることから3番線停車の進行左側の車窓である。延岡と南延岡で会ったハチロクが港のある細島まで運用されていた。延岡の旭化成の工場が燃料に石炭を使っていた時代はその輸送で細島線は大忙しだったと聞いた。 日豊本線日向市 S45(1970)/6/3

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 次の南日向で交換待ち。方向幕に「臨時」と出した列車が通過して行った。線路脇の通信線電柱、「左よし右よし指差呼唱、運転事故防止」の標語、荷物を載せてホーム間を行き来するリヤカーは良き時代の光景として映る。 日豊本線南日向 S45(1970)/6/3

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 次の美々津では鹿児島発大分行DF50重連の540列車と出会う。旅客車4輌、荷物車5輌の9輌編成であった。DF50重連の長大列車はとても格好良く見える。 540レ 日豊本線美々津 S45(1970)/6/3

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 高鍋でDF50556〔大〕の牽く貨物列車を追い抜く。列車はこの先、一ツ瀬川を渡ると大分鉄道管理局から鹿児島鉄道管理局に入る。 日豊本線高鍋 S45(1970)/6/3

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 宮崎を発車する進行左側車窓は宮崎機関区が手にとるように見えた。勾配を登る給炭線が何とも古典的で印象に残っている。機関区の脇を通るとたくさんのパシフィックC57が集結していた。 宮崎機関区 S45(1970)/6/3

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 次の南宮崎も大きな駅であった。中線に留置されたピカピカの12系客車を見ながら通過する。趣味誌で“新形客車12系”が紹介されていたので知ってはいたが、まさか九州でこんなに早く実車を見ることができるとは思ってもいなかった。記事は『万国博輸送用としてこれまでの客車の常識を打ち破るユニット窓や出入口の折戸自動ドア、電源装置を備えたユニット編成化などを盛り込んでの登場』とあり新たな時代の客車に胸を膨らませていた。 日豊本線南宮崎 S45(1970)/6/3

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 宮崎以南での期待は対向列車にC57の牽く貨物列車を撮ることであった。列車は山深い信号場に停車、カーブの先からC57貨物が現れるのを願い、級友との会話も上の空で車窓に集中する。来た、お目当ての列車と無我夢中でファインダーに収める。帰って現像してみると驚くことにC57ではなくC55の貨物であった。この時吉松のC55は宮崎まで足を延ばしていたことを知る。 日豊本線門石(信) S45(1970)/6/3

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 後追いの構図でこの場所が門石信号場とわかる。清武を過ぎると急に山深くなり、本線とはいえローカル色豊かになってくる。長い駅間距離に信号場が多く置かれ、北から田野~青井岳間に門石(信)、青井岳~山之口間に楠ケ丘(信)、霧島神宮~国分間に南霧島(信)が設けられていた。 日豊本線門石(信) S45(1970)/6/3

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 長い交換待ちはもう1本の列車を期待する。エンジン音が近くなり西鹿児島発博多行キハ80系“にちりん”が通過して行った。ヨンサントオで登場した日豊特急は鹿児島運転所のキハ80系7連で鹿児島本線有明”と共通運用されていた。 2012D 日豊本線門石(信) S45(1970)/6/3

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 山之口は島式ホーム先端に信号てこ扱い所があり、「指差呼唱の実行」の標識が建てられていた。駅長が通過列車を見送っている。通過する交換列車は宮崎行“えびの2号”と“からくに”の併結列車であった。この列車の経路は複雑で“えびの2号”は博多発肥薩・吉都線経由宮崎・西鹿児島行、“からくに”は出水発山野線・吉都線経由宮崎行で、分割と併合を繰り返しながら宮崎をめざす。 1113D 日豊本線山之口 S45(1970)/6/3

 初日の走行距離は滝尾~大分間5.1㎞、大分~国分間299.2㎞で計304.3㎞であった。「花は霧島、煙草は国分」と歌われた下車駅国分は葉たばこの産地と教えられた。キハ58 6連から中学校3校分約480名の生徒が駅前に集結し貸切バスに乗換える光景はどんなであっただろうか。バスはまだ大隅線開通前の錦江湾沿いを走り桜島をめざす。

■6月4日 西鹿児島ー川内ー出水ー水俣ー八代ー宇土

 2日めの朝、前夜の“まくら投げ”の余韻を味わいながら西鹿児島駅から昨日国分で降りた編成に乗車する。

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 C12208〔鹿〕が荷物車の入換を行っていた。ホーム上の網のかかった台車とそれを牽引するターレットは大きな駅で見かける光景であった。 鹿児島本線西鹿児島 S45(1970)/6/4

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 DF50560〔大〕+C5749〔宮〕の重連回送がホームをかすめる。  鹿児島本線西鹿児島 S45(1970)/6/4 

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 DD5151〔鳥〕牽引の特急“あかつき1号”が通過する。 21レ 鹿児島本線湯之元 S45(1970)/6/4

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 鹿児島本線北上中のお目当ては電化前、最後の活躍をするハドソンC60とC61との出会いであった。待望のハドソンはこの一瞬が最初で最後、貴重な邂逅であった。C6016〔鹿〕は前照灯副灯と煙突両サイドのデフレクタは東北装備のままであった。 荷43レ 鹿児島本線木場茶屋串木野 S45(1970)/6/4

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 西方は上下本線と中線の3線構造で、D51235〔出〕牽引の下り貨物列車が退避、上り線は我が分鉄仕立ての修学旅行臨が入線し、下り線は熊本発西鹿児島行“そてつ1号”が通過するところである。 3585レ 鹿児島本線西方 S45(1970)/6/4 

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 東京を前日の11:10に出た急行“霧島”は山陽本線で夜を明かして早朝門司に着く。さらに南下を続け阿久根10:57着で東京からはまる一日の道のりである。阿久根はいわしで有名と車内で習い、以後いわしの丸干しは阿久根産と意識するようになる。 DD51572〔鳥〕 31レ 鹿児島本線阿久根 S45(1970)/6/4

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 阿久根を出ると赤瀬川(信)を経て次の折口ではD511026〔熊〕牽引の下り貨物が退避していた。熊本機関区のD51は13輌が荒尾~鹿児島間で運用されていた。 961レ 鹿児島本線折口 S45(1970)/6/4

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 出水機関区に憩うD51達が目に飛び込んで、慌ててカメラを構えるも我が修学旅行臨は容赦なく出水1番線に入線していた。3番線は門司港西鹿児島行“有明”がすべり込んで来た。 11D 鹿児島本線出水 S45(1970)/6/4

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 11時26分、我が修学旅行臨はあわただしく発車。出水機関区所属D51536〔出〕の貨物列車を追い越す。3番線は特急“有明”が動き出していた。 5062レ 鹿児島本線出水 S45(1970)/6/4

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 出発前に下調べしておいた津奈木太郎峠・佐敷太郎峠・赤松太郎峠のいわゆる三太郎越えはよくわからないまま列車は肥後二見まで達していた。鹿児島本線は大動脈だけあって次から次へとD51牽引の貨物列車と行き会う。 D51592〔出〕 6371レ 鹿児島本線肥後二見 S45(1970)/6/4

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 出水を出て水俣の手前、米ノ津と袋の間に薩摩と肥後の国境と鉄道管理局の局界が引かれ、我が修学旅行臨は肥後の国、熊鉄管内に入る。たぶん進行左側車窓はきれいな海岸線が望まれるのであろうが、私は進行右側の席で対向列車の待ち受けに必死で風光明媚な構図は全く印象に残っていない。肥後高田を過ぎると進行方向右手から一条の線路が近づいて来てそれを乗り越してしまった。肥薩線は進行右から合流するものと思っていたが、鹿児島本線の下を潜って進行左から回り込んで合流しているのは意外であった。工場の煙突が見える八代構内に入ると人吉から顔を見せるC57169〔人〕と並走して歓喜する。 八代客貨車区 S45(1970)/6/4

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 広大な八代平野に位置する千丁で“はやぶさ”を迎える。ここで会ったDD51は旋回窓が付いて鳥栖の機関車であろうか。 鹿児島本線千丁 S45(1970)/6/4 

 2日めの列車走行距離は西鹿児島宇土間187.8㎞であった。一行は貸切バスに乗換えて一路天草五橋をめざす。

 ■6月6日 長崎ー諫早肥前山口ー佐賀ー鳥栖ー久留米ー日田ー豊後森ー大分ー滝尾

 最終日は帰路につく。長崎駅は高架デッキ式の駅前広場があってとても都会的に感じたものだ。駅は地図で見るかぎり行き止まりの頭端式と思っていたが、ホームに出る時レールは先まで延びていて、後になって長崎港駅があることを知る。

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 我が修学旅行臨は長崎本線をひた走る。大村湾に沿った線路は諫早を過ぎると有明海側へと出る。佐賀県に入って最初の駅がここ肥前大浦である。D511082〔鳥〕が牽く貨物列車は長崎本線らしい冷蔵車を組み込んだ長い編成であった。ホームの木製の電柱と電灯、筆字体の琺瑯看板が思い出の鉄道風景として残る。 長崎本線肥前大浦 S45(1970)/6/6

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 肥前山口佐世保編成を分けたばかりの1列車“さくら”がDD51574〔鳥〕に牽かれて肥前白石を通過する。筑紫平野の白石町はたまねぎの産地で側線のワムで出荷されるのではないだろうか。長崎本線肥前が冠につく駅が多く、肥前山口から連続して肥前白石・肥前竜王肥前鹿島・肥前浜・肥前七浦・肥前飯田と7つ続く。 長崎本線肥前白石 S45(1970)/6/6

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 佐賀は進行左側の構内に転車台や「佐賀機関区」と看板の付いた気動車の庫があった。進行右側の風景は中線に下り貨物列車が停車し、D51が入換をしている。貨物上屋の向こうに扉を開けたワムが見える。 長崎本線佐賀 S45(1970)/6/6

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 長崎本線を走破した列車は鹿児島本線と合流して、とてつもなく広大なヤードの一角に入っているのに気づく。大きな扇形庫が2棟並んで鎮座しているのにはさすがに驚いた。見とれているうちに列車は進み、このワンショットだけが鳥栖の記憶の手がかりとなってしまった。 鳥栖客貨車区 S45(1970)/6/6

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 鳥栖スイッチバックした列車は久留米から久大本線へ歩を進める。筑紫平野東端の筑後草野で対向列車を待つ。前方の場内腕木式信号機は2本の矢が下がり通過の合図が出ているので急行列車が来ると思っていたら、豊後森機関区の68623〔森〕が貨物列車を牽いて意気揚々と通り過ぎて行った。駅長の挨拶が印象に残る。 692レ 久大本線筑後草野  S45(1970)/6/6

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 筑後草野から2つめの筑後吉井ではドームが日差しに反射する58625〔森〕の貨物列車が退避し、下り本線を我が修学旅行臨が急行の如く通過で追い越して行く。後方に要塞のような工場の建物が見える。 693レ 久大本線筑後吉井 S45(1970)/6/6

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 福岡県境の駅、筑後大石でまたもやハチロクの貨物列車と交換する。豊後森機関区は5輌のハチロクが配置され、この日3輌と対面できたのは幸運であった。694レは大分発鳥栖行で牽引機は豊後森D60から8620に交代するのであろう。 78627〔森〕 久大本線筑後大石 S45(1970)6/6

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 無煙化まであと4ヶ月に迫った豊後森機関区の白い扇形庫脇を通る。庫には2輌のD60と機械式気動車キハ07が収まっていた。 豊後森機関区 S45(1970)/6/6 

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 豊後中村では化粧煙突の美しいD6057〔大〕が待っていた。大分を出て5時間近くを要しているので各駅で入換と退避を繰り返しながらのんびりと進んで来たのであろう。 6696レ 久大本線豊後中村

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 水分峠を越えたD6061〔大〕が安堵の表情で野矢へ滑り込んで来る。我が修学旅行臨は水分峠越えに挑む。4つの水分トンネルのひとつめがサミットでキハ58は連続下り勾配を一気に駆けおりる勢いであったが、トンネル内にはまだ先ほどのD60の煙が残って上り列車の奮闘の後が実感できた。分水嶺を越えると後は終着目指して下るだけで、楽しかった修学旅行は幕が降ろされようとしている。 638レ 久大本線野矢S45(1970)/6/6 

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 九州半周でお世話になったキハ58265〔分オイ〕の車内。級友を押しのけながら、協力してもらいながら席を左右に移動し車窓に展開する鉄道風景をフィルムに刻む。私にとってはあの時代の鉄道模様に触れることができた貴重な旅であった。

 最終日の走行距離は長崎~鳥栖間132.1㎞、鳥栖~大分間148.6㎞、大分~滝尾間5.1㎞の計285.8㎞であった。修学旅行団解団の宣言で旅の幕は降ろされた。

筑豊電気鉄道

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 春爛漫の4月初旬、所用で直方平野を通る国道200号線を通っていた。道中、黄色い光景に目が止まり、あまりにも美しい菜の花に誘われて遠賀川の河川敷に降りてみた。菜の花畑の向こうにかすかに遠賀川橋梁が見える。そこに鉄橋を渡る軽快なジョイント音が響き始め、大きな川なので鉄橋を渡る音は長く続いた。菜の花の向こうを行く連接車は西鉄北九州線乗入れの1000形と思われる。当時鮮烈な黄色の印象であったがネガカラーの退色のスピードは速く、ネガスキャンした時はあの黄色は過去の色と化していた。筑豊電鉄西鉄北九州線熊西から分岐して筑豊直方を結ぶ全線複線専用軌道の鉄道線である。 筑豊電気鉄道感田~筑豊直方 S60(1985)/4/10

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 菜の花に誘われて降りた河原で2車体連接車と3車体連接車の両方を見ることができた。3連接車は西鉄福岡市内線北九州市内線から改造された筑豊電鉄自社所有の2000形のようだ。 筑豊電気鉄道感田~筑豊直方 S60(1985)/4/10

34年後の中判田

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 中判田行キハ125の運転室脇から前面展望を楽しんでいる。3線の鉄橋が架かる大分川を渡る。左から日豊本線、大分車両センター小運転線、豊肥本線が並ぶ。小運転線は日豊本線旧大分川橋梁の跡地に架橋されたもので、移設後しばらく煉瓦のピーアが残っていた。 R1(2019)/10/6

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 下郡信号場を通過。大分車両センターへの通路は小運転線と豊肥本線どちらからも出入りできる配線になっている。かつての下郡信号場は大分電車区の入出区線を分岐していた。 R1(2019)/10/6

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 滝尾駅進入。国鉄時代は島式ホームから1線撤去され、民営化後は再び交換可能な相対式に改められた。脳裏をよぎる光景は安全側線の辺りに農業倉庫が、5階建てアパートの付近に貨物施設と小さな駅本屋があった時代である。 R1(2019)/10/6 

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 キハ125は下り勾配を軽快に進む。中判田駅の遠方信号機が進行のサインを出している。滝尾~中判田間駅間距離6.6㎞の間に昭和62年2月に敷戸駅、平成14年3月に大分大学前駅が設置され、都会的な都市近郊路線の様相に変わっていた。 R1(2019)/10/6

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 終着中判田駅で下車。カーブしたホームは監視カメラ以外は昭和60年の時と変わっていない。下り線横の植込みも同じように見える。 R1(2019)/10/6

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 跨線橋から俯瞰するとカーブした構内がよくわかる。中継信号機は上り向けに2基、下り向けに1基建っているのが見える。側線はそのまま残され保線用に使われているようだ。貨物施設跡地は駐車場になっている。 R1(2019)/10/6

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 昭和60年の時は駅舎は撮っていないのでどう変わったかはわからない。きれいに整備、管理され、ホーム側は季節の美しい花で飾られていた。大正3(1914)年4月開業の中判田駅は平成26(2014)年4月に開業100周年を迎えている。 中判田 R1(2019)/10/6 

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 構内南側の貨物施設跡地。一部は駐車場に利用され、広大な敷地が続いていたことがわかる。坑木が積まれていたであろう往時の光景を想像する。  中判田 R1(2019)/10/6

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 LPガス貯蔵施設も事業者は変わっていたが健在であった。9600やC58に牽かれていた灰色のタサ5700はいつ頃まで運用されたのであろうか。「専用線一覧表」に掲載された所轄駅中判田は専用者:出光興産(株)、作業方法:手押し、作業キロ:0.1とある。100mの専用線は貨物側線の途中から分岐したのであろう。  中判田 R1(2019)/10/6

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 DE10の牽く50系客車を見送った昭和60年3月から34年の歳月が流れていた。有効長の長い上下線の分岐地点もあの頃と同じと思われる。 中判田 R1(2019)/10/6

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 竹中方を見る。場内信号機、勾配標もあの時と変わっていない。 中判田 R1(2019)/10/6

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 熊本起点136キロの距離標。時刻表のキロ程は中判田136.3と記載されている。駅中心はこの位置から300mということになる。 中判田 R1(2019)/10/6

LPガス専用タンク車

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 豊肥本線を行く9600やC58の牽く貨物列車は灰色の長いタンク車がよく連結されていたのを見ていた。タンク車と言えば油が積まれているものと思い込み、鶴崎の石油精製基地から熊本近郊の竜田口の油槽所に向かうものとばかり思っていた。しかし外輪山を越える貨物列車にタンク車がつながれている写真は見たことがなく不思議に思っていたが、まさか撮影場所の隣りの中判田までとわかったのは随分後のことであった。灰色のタンク車はLPガス専用ということも最近になって理解したことだ。 豊肥本線滝尾~下郡(信) S44(1969)/8/13

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 ワムやワラばかりの黒い貨物列車の中で灰色のとても長いタンク車は異様に映ったものだ。出光興産のマークがひときわ眩しいタンク車はインパクトがあった。車票を見れば運用区間は一目瞭然であったであろうが当時はそのような感覚はなかった。 タサ5722 形式タサ5700 出光興産株式会社  豊肥本線滝尾 S45(1970)/5

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 タサ5700はLPガス専用の20トン積タンク車で車長は17.8mもある。塗色は灰色1号が指定されている。きりの良いナンバーはタサ5700の30000番台ということであろうか。 オタサ35700 形式タサ5700 熊本石油株式会社 LPガス専用 燃G23 宇土駅常備 日豊本線鶴崎 S56(1981)/3

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 タキ25000はタサ5700の発展形で25トン積となった。タンク体はタサ5700のようなキセと呼ばれる遮熱板が付いていない丸味のある外観である。鹿児島本線宇土・有佐・八代は化学工業が立地している。 オタキ25310 形式タキ25000 三角石油瓦斯株式会社 LPガス専用 燃G23 有佐駅常備 日豊本線鶴崎 S56(1981)/3