転轍器

古き良き時代の鉄道情景

第2転車台


 かつての鉄道事情を知っている方から「大分に転車台がふたつあったのを知っていましたか?」と聞き、愕然とする。私の認識は扇形庫は2、転車台は1と思い込んでいたからである。写真は扇形庫の転車台で、後方は電気機関車検修庫が建っている。撮影時(昭和44年)の2年前に日豊本線は幸崎までの電化が完成し、その際に大正元年に建てられた扇形庫を解体してEL庫が建設された経緯がある。ELの庫は動力近代化以前には必要のなかった施設といえる。そのように考えると、DF50が配備された昭和34年以前は当然ながら動力車は蒸気機関車だけということになる。ならばディーゼル機関車の庫は無かった訳で蒸機全盛のその時代は第2転車台が存在してもおかしくないといえる。昭和32年の九州内の配置数は多い順に、直方61、門司60、鳥栖59、大分51、若松34、熊本34、鹿児島31と続き、九州東側の要衝大分の規模はかなりのものであった。その方から見せられた昭和33年8月12日付の大分合同新聞には次のように書かれていた。「ー来春から日豊線で機関車5両を配置ー来年4月から分鉄局に煤煙のないディーゼル機関車が登場する。これにともなって機関車車庫の新設などの準備も同局で進められている。(中略)特にトンネルの多い日豊線では快適な旅ができるようになると期待されている。機関車の基地は大分機関区になるが、このため分鉄局では現在同機関区にある第二転車台を取りこわし、そのあとに約230坪の検修車庫、30㎥入りの地下油槽給油施設など総工事費約2,500万円の工事計画をたてている」。記載の5輛のDF50は昭和34年4月新製配置の530・531・532・533・534で、昭和49年4月の宮崎電化まで大分に在籍した罐である。 大分運転所 S44(1969)/9 

 第2転車台の存在を知り、どの辺りか見当がつくような写真がないかネガフォルダを探してみた。ディーゼル庫が写っているのは唯一この写真で、庫の建っている辺りか、DF50が並ぶ給油線の辺りではないだろうか、と想像をふくらませる。DF50配置以前はこのエリアも蒸気機関車で埋っていたのであろう。日豊、豊肥、久大の一大ジャンクションは門司、柳ヶ浦、南延岡、宮崎、豊後森、宮地の罐が一堂に会していた、と思うと胸躍る。 大分運転所 S45(1970)/9

 新聞記事からすると、第2転車台の跡地に検修車庫と給油施設の建設とあり、まさにこの位置に転車台があったものと思われる。写真はDL検修庫の近景。DF50とDE10は手前の扇形庫の転車台へ続く線と庫へ入る2線の計3線を使っていた。DL庫の背面は扇形庫と背中合せ、右横は仕業詰所とDL・DC職場、その奥がDC仕業線とDC車庫とレイアウトされていた。 S48(1973)/1

 給炭線側からDL検修庫を見る。庫内はクレーンの設備があるからか、高さが異様に高い。久大本線DL化の際に教習用として高松運転所から借入車のDE10105がDF50と手をつないでいる。 S45(1970)/5

 駅ホームから見た運転所の夜景。駅構内の群線が収束する曲線と並行して運転所通路線があり、左からDL、DC、PC、FCの各ヤードが広がっている。架線のない蒸機時代、この位置からは扇形庫の転車台は見えなくとも、手前の第2転車台に載る罐の姿は間近に見えたにちがいない。過ぎ去りし良き時代に思いを馳せ、ノスタルジーに浸る。 S59(1984)/1