転轍器

古き良き時代の鉄道情景

南延岡のD51 異国からの使者6人

 昭和47年10月は白新線羽越本線の電化開業で日本海縦貫線全線の電化が完成した。奥羽本線無煙化も相まって秋田機関区と横手機関区のD51が、需給関係がひっ迫する南延岡機関区にやって来ることとなった。この年の12月、これら「異国からの使者」を大分運転所扇形庫で目撃、まさか2つ目のD51日豊本線を走るとは夢にも思わなかった。

 D51456は昭和47年12月15日付で横手機関区から南延岡機関区へ転属している。奥羽本線時代は前照灯はシールドビーム副灯が付いた2灯、テンダはごつい重油タンクを載せていたと思われる。秋鉄管内のD51配置区は新庄・横手・秋田・東能代・大館・弘前と多数あり、昭和43年配置表ではD51456は大館に記載されていた。 日豊本線大分~高城 S49(1974)/3

 昭和47年暮れに大分運転所扇形庫で見て以来初めて本線走行の姿を捉えた。 D511122〔延〕 1593レ 大分 S48(1973)/8/22

 リンゲルマン濃度計も付き、キャブは「延」の砲金製区名札も貼られているように見える。 大分 S48(1973)/8/22

 趣味誌の車輛の動きによると、D511122の転属日付は昭和47年10月27日と記載されていた。大分運転所の扇形庫で見たのはその2カ月後で、本格稼働は年が明けてからと思われる。分厚い板のように見えるデフが付き、その内側の手摺も独特である。回転火の粉止も装備されていた。この時テンダは見ていないが重油タンクは撤去して来たのだろうか。 大分運転所 S47(1972)/12/30

 D51923の秋田から南延岡への転属日付は昭和47年9月7日であった。昭和47年10月14日は鉄道100年記念の日。記念行事に集められた機関車群に、奇しくも元奥羽本線の僚機、青森のC6124と秋田のD51923が顔を合せていた。 大分運転所 S47(1972)/10/8

 2カ月後にナンバープレートの付いた元気な姿と再開する。プレートの数字配置は51と923の間に間隔がなく、D間隔51923の並びで前掲の456や1122とは異なっている 南延岡機関区 S47(1972)/12/29

 D51505の横手から南延岡への転属日付は昭和47年12月16日であった。 大分運転所 S48(1973)/1/4

 鉄道100年記念行事、大分運転所汽車まつりに集められた機関車の中に、秋田から南延岡へ行くD511095の姿があった。既に回転火の粉止は外されている。厚い板のようなデフと片側だけに付けられた標識灯の反射板に目がいく。書類上の転属日付は昭和47年9月5日であった。 大分運転所 S47(1972)/10/14

 D51871の横手から南延岡への転属日付は昭和47年12月17日であった。秋鉄から来た機関車を見ると何れも副灯の辺りから煙室を伝って標識灯まで電線管が通っていた。D51871は煙室とデフの間に架線注意標識が両サイドに渡されていた。 大分運転所 S48(1973)/1/4

 D51871〔延〕の牽くコンテナ編成。逆光のシルエットは前照灯から副灯のシールドビームが離れて付けられているのがわかる。ドームはカマボコ形のようだ。 日豊本線大分~高城 S49(1974)/3

 奥羽本線日豊本線、何れもメインラインから派生したサブルート的な路線で距離も共に480Km前後は良く似ている。投入された動力車もDF50やD51で亜幹線で見られた旅客はC57、貨物はD51の構図も同じであった。日本海縦貫線の電化は秋田・横手のD51を南延岡へ送り出し、その前年の奥羽本線秋田~青森間電化では青森のC61が宮崎へ、さらにさかのぼると秋田のDF50が大分へ移動し、奥羽本線日豊本線は縁が深かったように思う。D51とDF50が矢立峠に挑む様は日豊本線立石峠や宗太郎峠と重ねてしまう。ジャンクションの秋田は大分と、D51擁する横手・東能代・大館・弘前は南延岡や柳ヶ浦とつい置換えて見てしまう。