転轍器

古き良き時代の鉄道情景

南延岡機関区D51形式配置状況の変遷

 九州東側、日豊本線D51が入って来たのは西側に遅れること12年後であった。昭和23年6月、九州管内各基地の運用合理化で捻出された6輛が日豊本線用に振り向けられ、大分に6、南延岡に4輛が配備され、ここに日豊本線ミカド機の歴史が始まった。南延岡機関区のD51について手持ちの趣味誌や配置表を元に配置状況の変遷を辿ってみたい。

 D51配備の関連で9600の勢力はどうであったか、昭和22年のデータを見ると九州東側では柳ヶ浦・大分・南延岡に各7輛ずつ配置されていた。これら本線筋の9600を置換えるべく大分と南延岡に東九州初のD51が姿を見せることとなった。大分と南延岡に分散された最初の10輛の内、899と1042以外はその後の南延岡のレギュラーナンバーとなる。

 1042が転出して9輛となる。国鉄誕生の昭和25年8月は九州4管理局が設立され、運用合理化と形式統一が図られ、大分のD51は南延岡に集約される。

 門司・鳥栖・人吉・新鶴見から5輛の転入で総数13輛になっていた。スーパーなめくじと言われたドームが運転席前まで伸びたD5123は、南延岡へ来た時はボイラ上の覆いは改装された後であったと思われる。

 昭和32年から変化なし。南延岡のD51は柳ヶ浦~宮崎間で、日豊本線北部は柳ヶ浦のD50が門司(操)~大分間で運用されていた。柳ヶ浦も南延岡同様、九州西側のD51投入で捻出されたD50が少しずつ数を増やしていた。

 79は昭和36年4月以降に出水から来ている。出水はD50・D60が足跡を残し、最終的にD51に統一されている。この時点で949は柳ヶ浦に記載され、「ボイラ不良により新製品と取替え」の但書きが添えられていた。分鉄局ではこの時期一時的に、臨時列車対応のため柳ヶ浦にD51ー3、南延岡にD50-1を配置していた。

 一時的な措置は解除され949は南延岡のナンバーとなった。昭和41年11月、一関から344が加わり、42年2月に23が廃車されている。一関のD51の中で344だけ重油併燃装置を装備していなかったので九州へ出されたのかもしれない。

 昭和43年12月、344は門司へ転じ、日田彦山線石灰石・セメント輸送に活躍した。日豊本線では会うことはなかったが日田彦山線で遭遇したのは幸運であった。

 昭和45年は3月に79が熊本へ転出、12月には93・341・880の廃車期限を迎え、安泰だったナンバーもいよいよメンバーチェンジが始まった。10月は鹿児島電化で余剰車となった176が熊本から、541が出水から新しい仲間として加わる。

 昭和46年は5月に222が熊本から、9月に46が早岐から、10月に361が鳥栖から、567が門司から転入した。12月に1081・1142が廃車となって総数14(12+4-2)輛となる。

 昭和47年は4月に吉松から714、人吉から1151が、5月に熊本から482が入る。9月から12月にかけては羽越・奥羽本線関連で秋田から923・1095・1122が、横手から456・505・871が加わって異彩を放つ。廃車は222・949・1035が5月に、1141が8月に迎え、総数19(14+9-4)輛となる。

 早岐からの46、門司からの567が4月に火を落して17輛。この時点で昭和20年代からのナンバーは9・12・485・1032・1036の5輛だけとなっていた。

 南延岡に20年以上君臨した9・12・1036がついに墜ち、714も廃車期限を迎える。電化までの期限を残して投入されたナンバーは若松からの42、門司からの45・250であった。

 電化開業時点で期限を残していたのは門鉄から緊急派遣の3輛を含む10輛で、この内日豊本線D51スタート時からの485が生き残っていた。遠く岩見沢へ転出した361以外は全機6月までに廃車となっている。門司からの382は僅か3カ月の稼働であった。D51485は在籍26年、南延岡機関区の伝統を守りぬき、それを締めくくるようにお別れ列車の先頭に立って最後を飾った。栄光の花道であった。

 線路端でたびたび現れてくれたD51485、数々の名場面をありがとう。 日豊本線大分~高城 S47(1972)/10