転轍器

古き良き時代の鉄道情景

C57115とC5739について

 大分運転所のC57はヨンサントオ以降17と53の2輌配置となって全盛期から見れば1割の数へと減じてしまった。53は昭和46年3月に若松へ、17は同年10月宮崎へ転じ、大分運転所C57終焉かと思われたが入れ替りに元大分に籍を置いたC57115が再び戻って来た。DF50の故障もしくは検査予備機として昭和48年1月まで大分運転所に在籍した。

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 昭和42年の大分電化後、大分運転所のC57は4・17・53・65・66・109・115の7輌が残っていた。翌年のヨンサントオでED74-6輌全機が敦賀第二から転入、そのあおりでC57は5輌が宮崎へ行き、115はここで一旦大分から離れる。3年ぶりに大分へ帰ってきた時は他の罐は火が落ちて孤塁を守る存在となった。 大分発佐伯行1523レ 日豊本線高城~鶴崎 S47(1972)/3

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 C57115は昭和14年三菱で生まれ、糸崎・鳥栖・鹿児島と渡り歩き昭和39年に大分入りしている。ちょうど日豊本線のパシフィックが大分C57、宮崎C55で固まった頃である。大分のC57はDF50と共に門司港~宮崎間で運用され、その後の列車増発に伴って増備が続き最大21輌の配置となっていた。

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 昭和46年の大みそか、朝日を浴びるC57115の今後の更なる活躍を願って佐伯運用を見送る。 1523レ 大分 S46(1971)/12/31

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 昭和47年春は佐伯運用も風前と灯となってきた。 1523レ 日豊本線大分~高城 S47(1972)/4/16

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 昭和47年6月以降は大分運転所のC58と8620は働き場所を失い扇形庫で冷たくなっていた。しかしC57115〔大〕は火が入ったままでいつでもスタンバイできる状態であったのは目にしていた。配置表は大分運転所C57-1輌の数字は消えていない。DF50の故障もしくは検査予備機として昭和48年1月まで大分に残るとは想像だにしなかった。 C57115〔大〕 大分運転所 S47(1972)/6/11

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 C57115〔大〕が元気に動き回るのを見たのは昭和47年年末のことであった。全盛期を彷彿とさせる大分~宮崎間通しのロングラン運用で、“日南51号”と“高千穂51号”の臨時列車ではあるが栄えある急行列車牽引の仕業に就いていた。この急行列車運用を花道にC57115は昭和48年1月宮崎へ転属し、大分運転所C57の終焉とともに大分運転所蒸気機関車の歴史に幕を閉じることになった。 区名札「大」の文字が輝くC57115〔大〕 大分運転所 S47(1972)/12/30

 

 日豊本線蒸機牽引の旅客列車は昭和47年春から年末までの間は見る機会がなかった。というよりDF50の不具合でC57115がいつ走るかは知る由もなくこの半年間の動きは全く謎であった。ところが最近になって昭和47年夏期のC57115の運用を大分市の渡邊孝司さんが克明に記録されていて、往路、大分14:30発荷1043レ宮崎21:46着。復路、宮崎5:27発528レ大分12:06着が判明した。写真と情報を提供していただいた渡邊孝司さんに感謝申し上げ、私は48年ぶりの真実に酔いしれている。

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 C57115〔大〕の牽く荷1043レ。幸崎14:56発。佐志生の山越えにかかる。 日豊本線幸崎~佐志生 S47(1972)/8/8 撮影:大分市渡邊孝司さん

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 幸崎に停車する荷物列車。行灯式の駅名標が付いた電柱の横に立つ駅長の姿が印象的。 荷1043レ 日豊本線幸崎 S47(1972)/8 撮影:大分市渡邊孝司さん

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 夏の季節列車、臨時列車の運転される時期はDF50の絶対数が逼迫し、そのサポートは大分運転所のC57115はもちろんであるが南延岡機関区のD51も駆り出されていた。 528レ 日豊本線幸崎 S47(1972)/8/3 撮影:大分市渡邊孝司さん

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 強烈な日差しの中、C57115〔大〕の牽く宮崎発大分行528レは平坦な道を行く。この先大野川の堤防にかかる15.2‰の上りがある。 日豊本線鶴崎~大在 S47(1972)/7/18 撮影:大分市渡邊孝司さん

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 年は開けて昭和48年、C57115は宮崎へ再び転属となり大分運転所は蒸機配置終了、北上してくる機関車の折返し基地と化していた。この年の夏、荷1043レを牽く鹿児島機関区のC5739と遭遇する。幸運な出会いと長年思っていたが、実はこの年もC57による528レ宮崎→大分、荷1043レ大分→宮崎の運用が継続されていた。C5739は梅小路から鹿児島へ転属した機関車でナンバープレートの文字が大きいのが特ちょうであった。 荷1043レ 大分 S48(1973)/8/22

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 昭和47年は大分のC57115が使われたので下り荷1043レ→上り528レが運用の流れであったが、48年は基地が宮崎に変わったので運用順は前年と逆の528レ→荷1043レとなり、大分での折返し間合いは約2時間半であった。C5739は本来鹿児島機関区の所属で、この運用のために宮崎機関区へ貸し出されていたようである。C5739のバイパス弁点検窓は扉が付けられている。デフ回りとランボードの白線が目を引く。 528レ 日豊本線幸崎 S48(1973) 撮影:大分市渡邊孝司さん

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 上り528レを牽いて北上して来たC5739は大分運転所で給水・給炭・転向の後、わずかな間合いで下り荷1043レの先頭に付いて南下する。 日豊本線幸崎 S48(1973)/8 撮影:大分市渡邊孝司さん

 

 南宮崎電化の2年前、大分のパシフィックは終焉と思われた矢先にC57115とC5739がDF50の救援に使われたことが判明したのは歴史の発掘といっても過言ではない。機関車は上記以外のナンバーが運用に入った場合もあるかもしれないし、また牽引区間も大分~宮崎間もしくは大分~南延岡間があったのかもしれない。私にとってC57115とC5739の軌跡はとても感慨深いものがある。