転轍器

古き良き時代の鉄道情景

東別府界隈

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 別府市街の高架線を特急“にちりん”が行く。別府駅は昭和41年9月に高架化され、前後の線形は高架に合わせて15‰の勾配がついている。上り列車は東別府を通過すると朝見川の手前で大きく右に曲がる。 日豊本線別府~東別府 S61(1986)/6

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 東別府界隈を後方の山裾から俯瞰する。日豊本線が大分まで達したのは明治44年。この時に浜脇駅、今の東別府駅が開業している。近くの浜脇温泉は多くの温泉客で賑わっていたという。昭和9年、浜脇は東別府に改称される。 日豊本線別府~東別府 S61(1986)/6

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 上り貨物列車が高崎山トンネルから顔を出す。日豊本線電化・複線化の際、海沿いを走る既存線が下り線となり、増設の上り線は横付けではなく離れた位置に建設された。 日豊本線東別府~西大分 S61(1986)/6 

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 鶴見岳からのなだらかな山裾は湯煙たなびく温泉街が雄大な景色となって広がっている。別府市街を駆けてきた475系急行は東別府から海風を受けながら海岸線を走る。 日豊本線東別府~西大分 S55(1980)/9/14

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 門司港発宮崎行503M“日南3号”が海岸線を行く。この時代“日南”は電車・気動車・客車仕立ての3系統で運用されるめずらしい存在であった。5往復のスジを下りで見ると、電車は1号501M別府発宮崎行、3号503M門司港発宮崎行、7号507M小倉発宮崎行、気動車は5号505D別府発西鹿児島行、そして客車は9号511レ門司港西鹿児島行であった。愛称の統一と、電化区間が宮崎までという理由から生まれた事態である。 日豊本線東別府~西大分 S55(1980)/9/14

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 小倉発大分行539M。この当時小倉~大分間、普通電車で約3時間を要していた。長距離鈍行の客車列車も健在であった。海岸線はテトラポットが並べられて1年前とは様子が変わっている。 日豊本線東別府~西大分 S56(1981)/12/6

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 湯の街「別府」を背景に長崎発大分行2304D“いなさ4号”が快走する。大分交通別大線が健在のこの時、国鉄線と別大電車の併走を期待するもそれははかない夢と終わった。 日豊本線東別府~西大分 S47(1972)/4/4

スロ62

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 10系寝台車やスハ43系座席車で組まれた急行編成に、ひときわ屋根の低い一番最初に目が向く、私の好きなクルマがスロ62である。銀色の低屋根に載った形の良いAU13ユニットクーラー、ウインドシル下淡緑色の帯、下回りで目を引く冷房電源のディーゼル発電機とTR50系台車等が魅力のディテールであった。また貫通扉のベージュ色は青色車体に映える格好のアクセントとなっている。 スロ622024〔名ナコ〕 日豊本線高城 S55(1980)/7

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 「国鉄客車・貨車ガイドブック」(誠文堂新光社/昭和49年刊)からスロ62の解説は以下の通り。「スロ62形式車は、鋼体化のオハ61形式車を昭和34~37年に改造してオロ61形式とし、さらに42年に冷房装置をつけて現形式とした」。高城に留置された2輛のスロ62は名古屋から大分へ転属したものの、その用途は不明である。 スロ622025〔名ナコ〕 日豊本線高城 S55(1980)/7

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 スロ62のデッキ側妻面を見る。車体標記のレタリングが施され、配電盤カバーのでっぱりが見える。屋根上につながるステップがあり架線注意標識も付けられている。16番モデル、谷川製作所のスロ62を見るようである。

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 偶然、門トスのお座敷編成と出会う。1号車「桜島」はスロフ812105〔門トス〕、2号車「高千穂」はスロ812109〔門トス〕でいずれも昭和47年9月、鳥栖配置のスロ62から改造されたものであった。このお座敷編成は12系800番台の山編成、海編成が登場するまで稼働したものと思われる。 久大本線天ヶ瀬 S51(1976)/9/20 

熊本電鉄

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 熊本電鉄菊池線は熊本市街の上熊本から阿蘇外輪山の麓、菊池渓谷で有名な菊池までの路線であった。中学生時代、社会科の地図帳を見ると宮原線肥後小国と熊本電鉄菊池の間に点線が引かれ、他にも高森と日ノ影との間にもあって、それは当時の鉄道建設予定線であった。今で言う鉄道未成線で、肥後小国~菊池間は小国線と呼ばれていた。中学生の私は将来はそのような鉄道地図になるのかと夢を抱いていたが、宮原線は昭和59年11月に廃止、熊本電鉄菊池線も昭和61年2月に御代志~菊池間が廃止されて路線縮小となり、小国線はすでに「はかない夢」と消え去っていた。今改めて、もし建設されていたらどうであったろうかと考えるも、他の未成線ー高千穂線・油須原線・呼子線ーと同じ運命を辿っていたであろう。

 

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 「菊池温泉行電車のりば」の看板が掲げられた建物は藤崎宮前駅で正面に遠慮がちな駅名板が小さく見える。藤崎宮前駅は菊池線北熊本から分岐した藤崎線の駅で、温泉地へ向かうターミナルといった印象を受ける。駅名板の「驛」の字が旧字体で味があり、始発駅の雰囲気が漂う。 熊本電鉄藤崎宮前 S55(1980)/8/17

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 藤崎宮前の狭い構内は留置車輛を効率よく置ける配線になっていた。到着のモハ103がホームを離れる。

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 発着線2線と留置線2線の行止り駅はローカル私鉄風模型レイアウトのプロトタイプには格好の配線ではなかろうか。

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 手前の線から右の線に転線して後退する電車は元静岡鉄道の500系である。モハ103は留置線におさまり、パンタを降ろしてしまった。コンパクトな構内に2基の腕木式信号機がアクセントとなっている。

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 何気なく撮った駅頭風景。ホーム屋根の柱から広がる方杖、パイプ状の改札口、その壁に掛けられた切符用パンチ、駅名標、木製の窓、ベンチと灰皿、電照広告看板等、どれも古き良き時代の懐かしい景色といえる。

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 菊池線上熊本駅鹿児島本線上熊本駅の北側にひっそりと設けられていた。リベットが並ぶ味わい深いモハ121は上熊本北熊本のた短区間を往復する。貨物輸送があった頃は国鉄線との中継がここで行われていたのであろう。 熊本電鉄上熊本 S55(1980)/8/17

名古屋

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 新ニイ標記のキハ58、発車間際の喧噪が飛び込んできた。名古屋と新潟を結ぶ気動車10輛編成の急行“赤倉”は、463㎞を8時間26分かけて走破する昼行の長距離列車で、その経路は名古屋ー中央西線塩尻篠ノ井線篠ノ井信越本線ー新潟と壮大な道のりであった。 2801D“赤倉”

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 1D“くろしお5号”は名古屋9:50発天王寺18:13着の紀伊半島を約8時間かけて一周する気動車特急である。希少価値のついたキハ81は名古屋駅10番線で給水と点検を行っていた。“くろしお”のルートは関西本線紀勢本線阪和線と思っていたが、時刻表を見ると関西本線紀勢本線の分岐点、亀山を経由しないショートカットの伊勢線を通過していたことに驚いた。キハ815は和歌山機関区の所属で6輛が配置されていた。 1D“くろしお5号”

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 中央本線名古屋口のローカルは神嶺電車区の73系が使われ10輛編成も走っていた。通勤時間帯を過ぎた名古屋発高蔵寺行635Mは5輛編成で待機していた。 クハ79335〔名シン〕

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 「振子電車」という言葉は昭和48年7月の中央西線電化時に登場した381系電車で初めて耳にした、と記憶している。屋根上は何もないのっぺらな車といった印象を抱いている。長野行“しなの4号”は名古屋を出ると、多治見・中津川・木曽福島塩尻・松本に停車する。名古屋10:00発、長野13:20着。 1007M“しなの4号”  名古屋 S50(1975)/3/4

C6119

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 C61はD51のボイラにC574次形の足まわりを組み合わせ、従輪を2軸とした軸配置2C2のハドソンである。D51は見慣れているものの、下回りが高いからかボイラがやけに太く感じられる。C6119〔宮〕は青森時代の副灯の後が残り、フロントデッキの穴はスノープラウ装着のためのものであろうか。C61の日豊本線での稼働は2年に満たない短い期間であった。 C6119〔宮〕 551レ 南延岡 S47(1972)/12/29