転轍器

古き良き時代の鉄道情景

大分運転所 昭和47年2月20日

f:id:c57115:20210602152456j:plain

 無煙化計画が進捗する昭和47年3月ダイヤ改正前は幾度か大分運転所を訪れている。いつも蒸気機関車で埋まっていた給炭線はこの日の朝はDE101015〔大〕とC58105〔大〕、D51567〔延〕の3輌が手をつないで佇んでいた。

f:id:c57115:20210602152624j:plain

 新鋭DE10が出揃うなか、日豊・豊肥・久大の各本線で軌跡を残した58689〔大〕は未だ大分構内の入換に励んでいた。この後に訪れた際は「特休車」の札が付けられて扇形庫で眠っていたので、この時が稼働の姿を捉えた最後のカットとなった。 大分運転所 S47(1972)/2/20

f:id:c57115:20210602152719j:plain

 南延岡のD51は昭和46年頃からメンバーチェンジが始まり、新しいナンバーが加わってきた。46年5月に熊本から222、9月に早岐から46、10月に鳥栖から361、門司から567が転属している。D51567〔延〕は門司の特ちょうであるキャブのナンバープレートのはみ出しもなく砲金製「延」の区名札が取り付けられていた。ナンバープレートは4枚全て大きいサイズで数字書体も大きく見える。 大分運転所 S47(1972)/2/20

f:id:c57115:20210602152806j:plain

 キハ581017〔分オイ〕が転車台で回っている。煤けた後位側のディテールは配電盤カバーや銘板、連結ホース等とても賑やかに映る。パノラミックウインドウのキハ581000番台は1017・1018・1141の3輌が在籍していた。 大分運転所 S47(1972)/2/20

f:id:c57115:20210602152851j:plain

 DE101015〔大〕は大分運転所DE101000番台のトップナンバーである。昭和45年5月日車製。手前の転車台につながる線路番号は「24」で、後方扇形庫の24番に対応している。 大分運転所 S47(1972)/2/20

f:id:c57115:20210602152937j:plain

 DF50503〔大〕は奥羽・羽越本線で働いた秋田機関区の所属であった。昭和41年8月、日豊本線立石峠の無煙化補機として大分に転属して以来、大分に踏みとどまって日豊本線のナンバーとなっていった。 大分運転所 S47(1972)/2/20

f:id:c57115:20210602153017j:plain

 久大本線の郵便荷物輸送を担うキユニ162〔分オイ〕が検修庫に入っていた。電気式気動車キハ44100から改造された複雑な経歴を持つ奇異な車輌であった。 大分運転所 S47(1972)/2/20

f:id:c57115:20210602153055j:plain

 豊肥本線熊本~大分を結ぶ貨物列車はあとわずかで廃止される。外輪山を越えて東九州に姿を見せる熊本のキュウロクはもう見られなくなる。39680〔熊〕は大分で見た最後のキュウロクとなった。 大分運転所 S47(1972)/2/20

f:id:c57115:20210602153129j:plain

 豊後竹田駐泊の仕業を終えて運転所へ帰ってきたC58105〔大〕。給炭線で石炭を満載した後、方向転換して次の貨物仕業に備える。給炭槽を下から見上げると巨大な給炭設備の構造に威圧される。 大分運転所 S47(1972)/2/20

f:id:c57115:20210602153159j:plain

 昭和47年3月15日ダイヤ改正豊肥本線大分~豊後竹田間と日豊本線大分~佐伯間旅客列車の無煙化が達成される。新製DE10の進出でC58はいよいよ風前と灯となってきた。この日、C58115〔大〕は「特休車」の札がかけられて冷たくなっていた。C58124〔大〕はまだ火が入ってぬくもりが感じられた。DE10が出揃うまではまだまだ貨物列車で頑張ってほしい。 大分運転所 S47(1972)/2/20

大和八木

 奈良での用事を済ませて大阪環状線鶴橋に戻るには大和西大寺から近鉄奈良線が通常のコースである。奈良線は乗車経験があったので、まだ知らない大阪線に乗ろうと大和西大寺から近鉄橿原線で大和八木へ向かった。大阪線のホームは2階にあり、階段を上ってホームへ出ると陽は傾いて長くなった影が電車に差しかけていた。 近畿日本鉄道大和八木 撮影は全て H20(2008)/2/1

f:id:c57115:20210529181405j:plain

 大阪線のホームに出るとちょうど6輌編成の“急行宇治山田行”が動き出したところであった。方向幕に掲げられた「宇治山田」の駅名は旅情が漂いこのまま三重県に行きたくなる衝動に駆られる。後年、“線路端のブログ”で宇治山田の駅舎を知り「威風堂々」の表現がぴったりの建物であった。

f:id:c57115:20210529181453j:plain

 大阪方面4号線ホームは“準急上本町行”が入線、乗換え客で賑わい、こちらは日常のラッシュアワーの様子である。関西ではホーム番号の呼称は〇番線ではなくて〇号線と呼んでいたのが印象的であった。

f:id:c57115:20210529181540j:plain

 大阪線ホームの駅名と乗換えの案内表示。階段を降りて北行は天理・大和西大寺・奈良・京都方面、南行橿原神宮前・飛鳥・吉野・御所方面でまだ行ったことのない土地へ近鉄優等列車で訪れてみたいとこの時誓ったがまだ実現はしていない。

f:id:c57115:20210529181628j:plain

 大和西大寺から乗車した橿原線の急行電車の方向幕。初めて知る地名、初めて触れる難しい漢字であった。

f:id:c57115:20210529181658j:plain

 大和八木は橿原線大阪線が垂直交差している。橿原神宮前行は6号線に着き、上階の大阪線鶴橋方面3・4号線へは階段を上がる。大阪平野奈良盆地生駒山地で遮られ、奈良線大阪線とも生駒山地を急勾配で越える。奈良線での山越えを体験したので今度は大阪線の山越えはどうなのか興味もあって、遠回りを承知で大和八木へやって来た。

f:id:c57115:20210529181748j:plain

 大阪方3号線の出発信号機。主信号は大阪方出発、副信号は京都方出発の標記が付いている。大和八木から見て大阪方は西向き、京都方は北向きとなる。東西方向の大阪線と南北方向の橿原線が十字で交差しているのに、大阪と京都がまるで同方向であるようなこの進路の案内は何であろうか。それはこの先に橿原線大阪線の短絡線があり、京都と鳥羽・賢島を結ぶ特急や団体貸切列車等が通るということを知る。

坊ちゃん列車

 伊予鉄道明治21年、四国初の鉄道として城下町松山と三津浜港の間を開業させている。昭和2年国鉄線が松山に辿り着く39年も前のことだった。クラウス製の機関車がマッチ箱のような客車を牽く姿を夏目漱石の小説『坊ちゃん』で「マッチ箱のような汽車」と表現している。地元では「マッチ箱」と呼ばれ、「坊ちゃん列車」の名前が定着したのは随分後のことのようだ。近代的装備で復活した「坊ちゃん列車」は松山観光の新たなシンボルとなっていた。

f:id:c57115:20210526142846j:plain

 機関車1は蒸気機関車のスタイルをしたディーゼル機関車で現代にマッチした運行形態が工夫されている。伊予鉄道開業当初のクラウス甲1形1号機関車をモチーフに製作された。となりの2000形2006は元京都市電2000形で、昭和52年に伊予鉄道へ移籍している。 松山市駅前 H26(2014)/10/8

f:id:c57115:20210526142940j:plain

 機関車1+客車ハ1+ハ2が路面電車の間をぬって走る。坊ちゃん列車のかわいいドラフト音、蒸気音、汽笛も煙も本当の蒸気機関車のようだ。 城南線松山市駅前~南堀端 H26(2014)/10/8

f:id:c57115:20210526143022j:plain

 まるでミニチュアの世界、メルヘンの国に誘いこまれたような…。

f:id:c57115:20210526143115j:plain

 機関車14+客車ハ31の編成。14のモチーフとなったクラウス甲5形14号は昭和31年に廃車されている。客車ハ31は明治44年製で坊ちゃん列車時代の生き残りがモデルとなっている。 松山市駅前 H27(2015)/2/15

f:id:c57115:20210526143201j:plain

 軌道線松山市駅前を出る坊ちゃん列車。後方は鉄道線松山市駅のターミナルビルがそびえる。伊予鉄道松山市駅昭和2年鉄道省松山駅ができるまでは「松山」を名乗っていた。先に開業した伊予鉄道の松山は駅名を鉄道省に譲り松山市駅となった経緯がある。 松山市駅前 H26(2014)/10/8

田川線今川橋梁

 何度か繰り返した筑豊汽車見物で、筑豊への入口は折尾・原田・城野と行橋であった。どこも胸のときめく筑豊へのプロローグであったが、行橋はことさら思いのつのる憧れの地への入口であった。日豊本線門司港行夜行が新田原を過ぎてしばらくすると、進行左側から田川線が弧を描いたようなカーブで寄り添ってきて日豊本線といっしょに今川を渡り行橋構内へと入る。あのきれいなカーブの先に憧れの地が開けているという思いは幾度通っても変わらない。昭和48年春は行橋下車の後今川橋梁まで歩き、田川線の分岐点“憧れの地の入口”に立った。いつもと変わらずキュウロクが黄帯を巻いたホキ・セキ・セラの先頭で頑張っていた。

f:id:c57115:20210523163559j:plain

 39638〔行〕が苅田港からの返空編成を牽いて今川橋梁を渡る。田川線では車体が黄土色に汚れたセキ6000やホキ4200をよく見かけた。船尾からの石灰石輸送であるが、同じセメント原料の粘土も運んでいたのかもしれない。 田川線行橋~豊津 S48(1973)/3/29

f:id:c57115:20210523163702j:plain

 カーブの先から苅田港へ向かう積車編成が現れた。継足しの長い化粧煙突の39639〔行〕はデフの前方支柱が折れ曲がった独特の形をしている。編成はセフの次にセキ6000が続き高さが揃っていた。苅田港は若松・戸畑・門司に続いて第4の石炭積出港として整備され、田川線日豊本線経由で石炭輸送が行われた。そのため日豊本線小波瀬~行橋間はいち早く昭和31年に複線化されている。  田川線行橋~豊津 S48(1973)/3/29

f:id:c57115:20210523163807j:plain

 行橋発後藤寺行キハ45+キハ10+キハ45の3輌編成が行く。田川線の旅客列車は昭和46年に訪れた時は行橋~添田間でかなりの客車列車が健在であったが2年後は1往復を残して気動車化されていた。今川左岸は行橋構内の入口で、日豊本線田川線の上り場内信号機が林立する躍動の鉄道情景が展開していた。 429D  田川線行橋~豊津 S48(1973)/3/29

船尾発苅田港行7494レ

f:id:c57115:20210521171216j:plain

 石灰石専用列車の先頭で奮闘するキュウロクはともに化粧煙突の、ランボード一直線の59647〔行〕と2段ランボードの59684〔行〕で、いずれも行橋機関区の罐であった。続くホキ4200は積荷の汚れで黄帯やレタリングは霞んでいるが車体のリブと輪郭は鮮明に見えてとても印象的。 7494レ 田川線油須原~内田(信) S48(1973)/3/30

f:id:c57115:20210521171529j:plain

 大築堤のカーブの向こうから3条の煙が回り込んで来た。前2輌、後部補機の息の合ったドラフト音が辺りに響く。 7494レ 田川線油須原~内田(信) S48(1973)/3/30

f:id:c57115:20210521171612j:plain

 3台の機関車はゆっくりと歩を進める。直線に入って編成の全容が見える。この日は背の高いセキ6000が中間に1輌見えるだけできれいに揃ったホキ4200とホラ1の並びが見事だ。 7494レ 田川線油須原~内田(信) S48(1973)/3/30

f:id:c57115:20210521171700j:plain

 編成後半は麻生セメントの私有貨車ホラ1群が続く。ホラ1は18輌の在籍でこの編成に全数が投入されているようだ。「ASO PORTLAND CEMENT」の円形ロゴがシャープに映る。補機は懸命に重量列車を押し上げる。 7494レ 田川線油須原~内田(信) S48(1973)/3/30

f:id:c57115:20210521171811j:plain

 補機はデフ無しパイプ煙突の29611〔後〕で、主連棒とモーションプレートの規則正しい動きは力強い後押しを彷彿させる。セフのナンバーはロセフ248と読める。 7494レ 田川線油須原~内田(信) S48(1973)/3/30

f:id:c57115:20210521171922j:plain

 ロセフ248は今しがた船尾で会っていた。苅田港行7494列車を仕立てる最中で、ホラ1で組まれた編成の先頭に付いていた。編成は後藤寺でスイッチバックするので、船尾で先頭のロセフ248は田川線へ入った時は最後尾となる。 後藤寺線船尾 S48(1973)/3/30

f:id:c57115:20210521172036j:plain

 翌日、再び同じ列車の見物に訪れる。補機はデフ無し化粧煙突の49675〔後〕が、締めくくりの緩急車はロセフ145が努めていた。 7494レ 田川線油須原~内田(信) S48(1973)/3/31

f:id:c57115:20210521172205j:plain

 後藤寺から後押しを務めた49675〔後〕は上り勾配を征服して油須原で任務終了。セフから離れて一息ついた後、今来た道を単機で戻る。 7494レ 田川線油須原 S48(1973)/3/31

f:id:c57115:20210521172259j:plain

 49675〔後〕のボイラ回りは一直線の罐掴み棒と放熱管が目立つくらいでパイピングはすっきりしている。デフの無いフロントデッキも開放テコとブレーキホースだけでこれもシンプル。筑豊のキュウロクの特ちょうであるキャブ裾の点検窓は開けられていない。 田川線油須原  S48(1973)/3/31