転轍器

古き良き時代の鉄道情景

暁の宗太郎峠 571レ

 まだ夜が明けやらぬうちに通り過ぎて行った551レの数十分後、2本めの571レを待つ。朝日が昇ってやや明るくはなったが線路は依然として山影の中、山裾を這う煙を追いかけながら国道脇の足場から俯瞰し、列車の動きと風で流される煙のタイミングを見定めながらファインダーに集中する。

 風が強い。谷底を線路が通っているので風が舞い、煙とドレンが列車にまとわりついてシャッターのタイミングがあわない。

 眼下に迫った571レ。第一大原トンネル手前で機関車の咆哮がまわりの谷にこだまする。煙は上に流れてくれて続く貨車の列が姿を現した。

 朝露の降りた厳寒の峠道、凍てつくような静けさの中を遠くから迫ってくるドラフト音はボリュームのつまみを回すように次第に大きくなり、トンネルに入るやいなや音が消えてまたもとの静寂に戻る。ドラマは川原木信号場から重岡まで約7Kmの連続20‰上り勾配で繰りひろげられ、そのクライマックスが第一大原トンネル手前である。D51の奮闘を堪能した暁の宗太郎越えであった。 571レ 日豊本線川原木(信)~重岡 S47(1972)/12/29

暁の宗太郎峠 551レ

 日豊本線の難所、宗太郎峠をめざしたのはすでに電化のポールが建ってしまった昭和47年の暮れであった。501レ急行“みやざき”を佐伯で下車。宗太郎峠をめざす下り一番列車列車はD51牽引の客車2輛とその後に貨車を従えた、その名も混1553レを名乗る混合列車で、ほんとうにここは本線と呼ばれる幹線筋なのかと疑わざるをえなかった。それでも大分交通耶馬渓線以来数年ぶりに乗る混合列車にいたく感動した。日豊本線の旅客でD51牽引というのも初めてであったし、客車2輛だけの定期列車も初めての経験、しかもその後に貨車が続くという幻想の世界で汽車に乗るような思いであった。
 スチームで暖かな客車を重岡で下車。サミットの第一大原トンネルめざしてひたすら車の通らない国道10号線を歩く。たどり着いたトンネル入口の高台から迎え撃つは551レと571レの2本。寒さに震えながら遠くの暗闇から煙が上がり始めるのを待つ。

 辺りが白み始めた頃、川原木信号場方から白い煙が山裾を這い始めた。機関車の黄色い前燈が確認できるまでかなりの時間がかかった。

 姿を現すまでとても長く感じたが、機影が確認できるやいなや猛煙とドレンを巻き上げすごい勢いで迫って来た。臨場感を味わう余裕もなくファインダーにくらいつく。

 速い。とにかく速い。怒り狂ったように向かって来る。無我夢中でシャッターを押し、フィルム巻上げレバーを必死に操る。

 やっとの思いで第一大原トンネルの上にたどり着いた時は辺りはまだ暗く列車が写るか自信がなかった。俯瞰では露出が足りず、白み始めた空を入れなければ無理と思い道なき山の斜面を滑り下りてポジションを確保した。 551レはヘッドライトを皓皓と照らし道床を黄色くさせながら真っ白いドレンと共にトンネルに消え、まさに墨絵の世界に黄色と白の帯が流れる、そんな一瞬の出来事であった。  日豊本線川原木(信)~重岡 S47(1972)/12/29

 露出不足の551レの画像をブラウザで拡大してみた。機関車はドームの後ろに重油タンクが見えたので人吉から来たD511151〔延〕であったと思われる。宗太郎峠から南延岡機関区に立ち寄った際、石炭置場の横で憩うD511151〔延〕と会っていた。 南延岡機関区 S47(1972)/12/29

佐伯 午前3時

 午前3時ちょうど、夜行急行“みやざき”を佐伯で下車。DF50の牽く寝台車3輛を含む10輛編成は最後部はホームにかからなかったような気がする。長い編成が慌ただしく発車した後、絞りと露光時間などわからないまま暗い構内を撮影した。 日豊本線佐伯 S47(1972)/12/29

 本屋寄り、起点側ホーム欠き取りに2軸のタンク車が置かれていた。給水タンクの水を運ぶ水運車だったかもしれない。その位置から広い構内に目をやると、給炭台の向こうにDF50と佐伯上り始発の客車編成2本が滞泊していた。佐伯4:27発大分行1520レと5:46発大分行1522レの編成であった。 日豊本線佐伯 S47(1972)/12/29 

 しばらくして2番線にD51714〔延〕の牽く上り貨物列車が入って来た。当時創刊された「SLダイヤ情報(弘済出版社)」ではこのスジは南延岡から佐伯までは重連と記載されていたが、実際は単機牽引であった。 1592レ 日豊本線佐伯 S47(1972)/12/29

 佐伯に降り立ったのは宗太郎越えのD51貨物を撮るのに重岡に向かう列車に乗り継ぐためである。行程は501レ“みやざき”から長い待合せで南延岡行混1553レで重岡下車。追って下って来る貨551レ・571レを撮って再び重岡から1521レで南延岡へ向かうものである。
 佐伯ではしばらくホームで上り貨物列車を見ていたが寒さに耐えられなくなって暖房のきいた駅待合室に避難し乗り継ぎ列車の発車時刻まで記憶はとんでいる。その間ホームでは貨567レ4:04着。留置線からDF50の上り初発列車が引上げられてホームに入線、4:27発車。客車と貨車をつないだ混1553レが下り1番線に据え付けられる一連の流れがあったはずだ。また、下り時刻表からD51牽引の佐伯始発は2本あり、1本は567レ佐伯止りの継走として、もう1本は佐伯駐泊のD51が控えていたものと思われる。待合室でのうたた寝でこれらの流れが確認できなかったのは痛恨の極みであった。

 重岡で乗車した別府発南延岡行1521レの車内から上り列車を見る。宮崎発大分行528レの牽引機DF50544〔大〕はエキゾーストを噴き上げて発車合図を待っている。南延岡行8:36発、大分行8:48発。車内ではスチームのきいたモケットで眠りに落ちたのは言うまでもない。 日豊本線重岡 S47(1972)/12/29

南延岡のD51 前面3枚の架線注意標識を持つナンバー

 昭和44年3月現在、南延岡機関区のD51は次の14輛(9・12・79・93・341・485・880・949・1032・1035・1036・1081・1141・1142)が配置されていた。これらのナンバーは私が初めて接した南延岡のD51で、昭和45年に始まる他区からのメンバーチェンジ以前の、いわゆるオリジナルナンバーであった。これらの機関車は共通して前面に3枚の架線注意標識が取付けられていた。煙室扉、ナンバープレートの上とフロントデッキ上先台車担いバネカバーの両サイド、計3枚である。昭和45年以降に南延岡に転入して来た機関車とはちがう装備であった。

D519〔延〕 大分運転所 S44(1969)/10/4
 給炭槽の下で憩う南延岡唯一のひと桁ナンバー機。架線注意標識は前面3枚と蒸気ドームの両サイド、テンダ背面の昇降手摺の上にも付いていた。昭和44年3月時点の九州管内のD51は、門司20・直方10・鳥栖16・早岐5・熊本13・人吉8・南延岡14・出水17・吉松5の合計108輛が稼働していた。南延岡はオリジナルナンバーも昭和45年以降のメンバーチェンジ機も一部本州を除きほとんどが上記機関区からの転属車であった。

D5112〔延〕 大分運転所 S47(1972)/8
 担いバネカバーの上にコンクリートウエイトが載ったこの機関車は趣味誌上で度々採りあげられて有名になった。ナンバープレート上の架線注意標識は他機と違って前照灯の下に、またバネカバーは前寄りに付けられていた。前照灯から標識灯に煙室を伝う電線管が目立つ。

 右サイドも同様、バネカバー前寄りとドームに確認できる。 大分 S48(1973)/3/15

D5179〔延〕 大分運転所 S44(1969)/3
 D5112と同様、粘着力増強のためのコンクリートウエイトを積んでいる。架線注意標識はバネカバーではなくてその上のコンクリート両サイドに付けられていた。走行写真を見るとドームには付いていない。

D5193〔延〕 日豊本線徳浦(信)~津久見 S45(1970)/8
 本線上で一度だけ遭遇したナンバー。昭和45年12月に廃車となっている。

D51485〔延〕 大分 S47(1972)/5/3
 線路端では一番多く出会った罐だ。給水温め器と煙突に施された金帯の装飾と十字砲金製の煙室扉ハンドルが特ちょうで、電化まで稼働した南延岡機関区を代表する機関車であった。ドーム前寄りボイラ踏板に架線注意標識が付いている。

D51880〔延〕 大分電車区 S44(1969)/8/12
 下り貨物折返し間合いに単機で豊肥本線を走り下郡信号場へ足を延ばしたD51880と遭遇する。お盆の臨時急行編成の頭について大分までの回送を請け負っていた。この時一度だけの貴重な出会いであった。

D51949〔延〕 日豊本線高城~鶴崎 S46(1971)/9/19
 南延岡機関区唯一の門鉄デフ装備機。架線注意標識は前3箇所、右サイドはドーム前ボイラ踏板と発電機に確認できる。

D511032〔延〕 大分 S44(1969)/3/15
 変形ドームが特ちょうで、完全カマボコ形ではなく前端は丸みがかって遠目でもこの機関車というのが良くわかった。右サイドの架線注意標識は発電機の横に付けられていた。

 変形ドーム後方は角ばった形状をしている。左サイドの架線注意標識はボイラ踏板に確認できる。テンダは昇降手摺が定位置と思われる。 大分運転所 S46(1971)/8

D511035〔延〕 大分 S45(1970)/3
 カラーフィルムで撮った貴重なひとコマ。枕木で下回りが見えないのが残念。画面右に昭和44年にはなかった建物が建って転車台から放射状に広がる機留線は狭まっている。発電機に架線注意標識が取付けられているのがわかる。

D511036〔延〕 大分運転所 S44(1969)/12/31
 この機関車もドームの形状はD511032と似ていた。折返し下り運用まで時間のある罐は扇形庫横、転車台から延びる機留線に停まっていた。

D511081〔延〕 大分 S46(1971)/7/24
 給水温め器からの配管が飛び出しているように見える。担いバネカバーの奥まった位置に架線注意標識が付けられている。

D511141〔延〕 南延岡機関区 S47(1972)/1/5
 南延岡にD51が配置された昭和23年はD511141は大分に居て、その後南延岡に移り12・93・485・880・1081・1035・1036と共に初期ナンバーとして配置期間は長い。転車台から降りようとしているD511141のバネカバーの架線注意標識はD511081同様奥まった位置に付けられている。

D511142〔延〕 大分運転所 S45(1970)/5
 当初の8輛(12・93・485・880・1035・1036・1081・1141)に鳥栖から9、出水から79、新鶴見から341、柳ヶ浦から949、門司から1032、人吉から1142が加わって冒頭のオリジナルナンバー14輛が揃うことになる。

 南延岡機関区オリジナルナンバーと呼んだ昭和44年3月時点の14輛はD51341を除く13輛と会っていた。同じ昭和45年末までに廃車になった79・93・880とはかろうじて一度会うことができ幸運であった。撮影時は形態や装備の視点などはなく、後年の写真整理で少しばかり違いがわかるようになって、改めて南延岡機関区の流儀を思い知ることとなった。

D51567

 D51567〔延〕の特ちょうは何といってもひと回り大きめのナンバープレートであろう。プレートに合せて数字書体も大きく見える。数字配置はDと51の間に間隔があるが、形式51と機番567の間には無いのがおもしろい。見慣れたナンバープレートはDと51、51と機番〇〇〇の間に一定の間隔があるが、製造年代や機関車メーカー・鉄道省工場によってバラエティがあるようだ。 大分運転所 S47(1972)/6/11

 転車台で方向転換中のD51567〔延〕を電気機関車検修庫外階段の少し高い位置から撮った。煙室扉ハンドルは上の写真と比べると位置が異なっている。エンドビームは解放テコの留め具だけですっきりしている。 大分運転所 S47(1972)/2/20

 左サイドを見ると白線のランニングボードはコンプレッサーを避けて山形に角度が付いた位置で切れているように見える。よく見るとコンプレッサー上部分のランボードが削られて、その部分に白線が無いのでそのように見えるのだろう。上写真右サイドのランニングボードは給水ポンプの所が山形で白線は切れ目なくキャブまで続いている。3本の砂撒き管は、前寄りが第2動輪の前、真ん中は第3動輪の前、後ろ寄りが第3動輪の後へ導かれているらしい。 大分運転所 S47(1972)/2/20

 複線のように見える豊肥本線との単線並列区間をD51567〔延〕の牽く下り貨物が行く。長い編成を従えていたからか、かなり噴かして接近してきた。この先大分川の土手にかけて16‰の上り勾配となる。 1593レ 日豊本線大分~高城 S47(1972)/4/22