転轍器

古き良き時代の鉄道情景

行橋のC50

 行橋のC50を知ったのは鉄道ジャーナル23(昭和44年7月)号に掲載された『蒸気機関車1969年日本縦断リレー・ルポルタージュ7北九州』の記事で、日豊本線苅田港線の小波瀬~苅田港間にC50と9600が運用されている、という内容で苅田港線を行くC50+9600重連の貨物列車の写真が脳裏に焼きついている。そして25(昭和44年8月)号は九州地区の配置表が載り、行橋のC50は46・58・118・144の4輛がいることを知る。
 初めて訪れた行橋機関区は廃車にはなっていたがC50と会うことができた。行橋客貨車区の側線に置かれたC50118〔行〕の前照灯の位置に旗を取付けられるような扇に広がる2本の棒が見える。 行橋客貨車区 S45(1970)/8/3

 日豊本線幸崎電化前、行橋のC50は門司港~柳ヶ浦(下り旅客、上り貨物)、行橋~苅田港と行橋・苅田港入換に使われていたようだ。最後まで残った4輛は昭和44年10月まで稼働したと聞く。

 行橋機関区構内の立入りは年少者の事故防止から助役付き添いでの撮影となり、構内を思うまま動き回れないままお礼と共に区を後にした。駅への帰り道、古枕木柵の向こうに廃車となった2輛のC50を発見する。柵の外側から恨めしい思いで初対面のC50にカメラを向ける。 C50144〔行〕 行橋機関区 S45(1970)/8/3

 となりはデフに錆が目立つC5046〔行〕。デフステイの取付けはC50144とは異なっていた。この日遭遇したC50は46・118・144でC5058以外と会うことができた。C5058は門デフに施された波と千鳥の装飾が有名な機関車だった。

 反対側から。煙突先端の広がりが同じパイプ煙突でも少しふくらんでいるように見える。 C5046〔行〕 行橋機関区 S45(1970)/8/3

 行橋機関区訪問から2ヶ月後、機関区裏手にC5046の姿は無くC50144はまだ健在であった。エアータンクを避けた段差のあるランボードが特異に映る。前照灯は厚みが薄いのでLP42であろうか。 C50144〔行〕 行橋機関区 S45(1970)/10/10 写真所蔵:転轍手

下郡 基地の風景

 日豊本線豊肥本線が離れる場所に造成された車輛基地は大分電車区で、昭和42年7月に発足している。豊肥本線上に設けられた下郡信号場から分岐しヤードが広がる。地元の人は「下郡の電車基地」と呼び、地域の場所説明の際は「でんしゃきち」の左右、東西と目印となる施設として親しまれてきた。鉄道少年の私は「電車区」という名称の割りにヤードに滞留するのはぶどう色の客車ばかりでいささか不満ではあったが、その客車の送り迎えはC58が担っていたので、まあ良しとしていた。
 留置線に並ぶスハフ42とオハフ33の2本の編成は急行列車のようで臨時“べっぷ51号”かもしれない。 大分電車区 S47(1972)/6

 開設時は仕業線2、客留線6、洗浄線1のコンパクトな配線で、模型レイアウトには恰好の題材ではないかと思う。配置は421・423系だけで後に南福岡から457・475系が来て少し賑やかになる。留置線と洗浄線はその後拡張されていった。

 跨線橋から留置線方を俯瞰する。折しも回送客車を連れてきたC58277〔大〕が単機で戻るため機回しを行っているところ。のどかな田園風景の中に突如として車輛基地ができたことがうかがえる景色だ。 大分電車区 S47(1972)/9/15

 回送列車のダイヤなど知る由もないので日々聞こえてくる蒸機の汽笛から自分なりの大方の時刻表を作っていた。単機でやって来たC58124〔大〕が回送客車に連結され発車を待っている。この景色だけ撮って満足し、この場を立ち去っている。 大分電車区 S44(1969)/4

 賑やかな留置線風景。C58124〔大〕は配給車代用貨車と回送客車を従えて待機している。回りは電車急行“ゆのか”、急行“日南”増結用の寝台車、423系の顔も見えて活気を感じる基地風景を捉えていた。 大分電車区 S47(1972)/5

 当時は時計を持っている訳もなく、日豊・豊肥本線が別れる下郡信号場近くまで自転車を走らせて何か列車が来れば、信号場に列車が居れば撮る、といった撮影スタイルであった。ネガに刻まれた車輛は常に偶然の出会いからであった。421系とED76が並んでいた。 大分電車区 S44(1969)/6

 ヘッドマークが取付けられていないクハ481の編成はたぶん“みどり”と思われる。分岐器ナンバーが標記された入換信号機が写っている。「接触注意」標識も見えてこの位置は留置線の始まりということがわかる。 大分電車区 S44(1969)/8

 ED7627〔大〕が寝台急行“べっぷ3号”を牽いて客留線に据え付ける。 大分電車区 S45(1970)/3

 “べっぷ3号の”寝台車群が車列をくねらせて大分電車区客留線に入って来る。門司からの牽引機はED7618〔大〕であった。 回6217レ 大分電車区 S44(1969)/4

 仕業線で待機する421系の方向幕は蛍光灯の光りでよく判読できないが、幸崎を出しているように見える。仕業台の上はパンタグラフ点検のためか「切」、「入」の表示ランプが点灯していたのを思い出す。 大分電車区 S45(1970)/3

 新大阪行“べっぷ1号”は475系付属3連だけの編成であった。小倉で博多からの基本7連“つくし1号”と併結して10連で山陽路を走る。一度だけこの列車に乗車したことがあるが、3連だけなので超満員だったのを覚えている。 回8204M 大分電車区 S45(1970)/8

 日没前、大分発博多行“ゆのか4号”の回送がテールランプを灯して出区する。 回1506M 大分電車区 S45(1970)/8

 回送客車が全て出て行った後は475系、421系各1編成が佇む。 大分電車区 S45(1970)/9

 画面右側、客留線6番から11番線は客車編成で埋まり、申し訳なさそうに間に挟まったクハ421の顔が見える。迎えに来たED76は機回しを終え前パンで出発を待っている。 大分電車区 S48(1973)/4/8

 下郡信号場入出区線の両渡り線付近から左曲線で編成を傾けるD51485〔延〕の牽く貨物列車を見送る。日豊本線豊肥本線から分岐した下郡信号場の線群は完全に独立しているのが良くわかる。 591レ 日豊本線大分~高城 S48(1973)/4/8

 日豊本線を行くD51456〔延〕の貨物列車。後方に大分電車区の留置線、信号てこ扱い所の建物が見える。 日豊本線大分~高城 S49(1974)/3

下郡回送列車

 DF50牽引の長駆宮崎からの編成は大分到着後すぐさま後部にC58277〔大〕が連結されて今来た道のとなりの豊肥本線に入って下郡信号場へ向かう。日豊・豊肥・久大の各本線で運用される客車列車は、大分運転所では収容しきれず大分電車区の留置線で昼間留置が行われていた。 回536レ 下郡(信) S46(1971)/9/15

 大分川の土手から下郡信号場を発車する回送列車を撮る。ゆっくりと豊肥本線へと歩を進める。 回547レ 下郡(信) S46(1971)/9/19

 C58277〔大〕は逆向きでゆっくりと大分川橋梁を渡る。この4輛編成は大分到着の後DF50が付いて大分発都城行547レとなる。この時大分川には日豊本線大分川橋梁の架け替えで新旧3列のピーアが並んでいた。 豊肥本線下郡(信)~大分 S46(1971)/9/19

 夕刻はハチロクも加勢にやって来る。58689〔大〕は片道たった5分の道のりではあるが往年の本線仕業を思わせる迫力あるシーンを見せてくれた。 回748レ 下郡(信) S46(1971)/9/29

 この列車は大分発豊後竹田行748レとなる。58689〔大〕はドラフト高々に6輛の客車を牽き出す。後年わかったことであるが、昭和30年代の豊肥本線は大分と豊後森の8620が豊後竹田と豊後荻までの運用を受持っていたことを知る。 下郡(信) S46(1971)/9/29

 豊肥本線ひと区間、下郡(信)~大分間は電化区間で、大分電車区へ入出区する回送電車や昼間留置の客車列車の回送が数多く設定されて列車密度の高い区間でもあった。客車編成の牽引機は電機・ディーゼル・蒸機と多彩であった。ED7619〔大〕が6輛編成を従えて3列の橋脚が並ぶ大分川を渡る。 豊肥本線下郡(信)~大分 S46(1971)/9/15

 日豊本線貨物仕業の間合いに南延岡のD51も下郡回送運用の助っ人に来ていた。お盆の対関西臨時列車が設定されている時でC58と8620では手が足りなくなったものと思われる。 下郡(信) S44(1969)/8/11

 汽笛一声、下郡信号場を発車したC58277〔大〕の牽く回送列車が大分川を渡る。 豊肥本線下郡(信)~大分 S47(1972)/5/3

 大分川右岸から2本の鉄橋を見る。DE10投入による大分地区無煙化は目の前に迫っていたこの時期、西日を浴びた煙の流れは蒸機終焉間近を思わせる哀愁の構図となった。この時2本の鉄橋間にあった旧橋梁跡の煉瓦のピーアは撤去されて、以前ここに鉄橋が架かっていた面影はなくなってしまっていた。 豊肥本線下郡(信)~大分 S47(1972)/5/3

下郡信号場のこと

 下郡信号場は大分川の東、日豊本線豊肥本線が離れる場所に位置し、豊肥本線から大分電車区が分岐するのに設けられている。上記の場所は少年時代の私にとって蒸気機関車を身近に見ることのできる魅惑の鉄道地帯であった。日豊本線D51貨物にC57旅客が、豊肥本線は9600とC58の客貨を、下郡信号場では大分からの回送客車を牽く8620とC58が日に数往復していた。市道から築堤上の線路を見上げると単線の日豊本線は橋梁の架け替えで2線のガーダー橋が、信号場の入出区線はコンクリート橋が架けられ、また築堤壁面はさまざまな形の橋脚が露出して、不思議な鉄道地帯の雰囲気を味わうことができた。

 西日のさす入出区線に夕方の通勤列車編成を迎えに来たハチロクが規則正しい排気音を鳴らして待機している。誘導掛が入換信号機の方向を注視していた。 下郡(信) S47(1972)/1/30

 69616〔熊〕の牽く貨物列車が場内信号機手前を徐行して通り過ぎる。 795レ 下郡(信) S44(1969)/4

 上の位置からくるりと反対側を向くと回送客車が出発線に入線していた。逆光で黒くつぶれた客車は「豊後竹田行」のサボを下げたオハ3554〔分オイ〕であった。この編成は大分駅6番ホームに据え付けられるとスイッチバックして再び豊肥本線に入る。その際編成の前後で、解放される下郡からの牽引機、連結される豊後竹田仕業C58の光景が展開されていたはずだ。 回746レ 下郡(信) S44(1969)/4

 配給車代用の貨車を従えた回送列車をC58224〔大〕が牽く。手前の線路は日豊本線。 豊肥本線下郡(信)~大分 S44(1969)/4

 豊肥本線から分岐した下郡信号場入出区線を見る。日豊本線はDF50重連の旅客が通っている。 下郡(信) S47(1972)/5/25

 日豊本線側から見た下郡信号場。何かの点検台のような、乗降用ステップのような物がある。 S47(1972)/5/25

 下郡信号場の建物を撮った写真はないが、偶然写り込んだくれた建屋は豊肥本線側に遠望がきく張り出しが付いていた。新見から来た、集煙装置を外したC58262〔大〕の煙突は心なしか短く見える。場内信号機が赤なので停止している。 6795レ 下郡(信) S47(1972)/5/25

 下郡から出て行った回送編成は、今度はC58124〔大〕の牽く豊後竹田行となって再び下郡信号場を駆け抜ける。沼地に架かる低い鉄橋を渡って大分平野は南に進路をとる。翌朝は再びここを通り、客扱いを終えた客車は下郡で昼寝をする。 豊肥本線滝尾~下郡(信) S46(1971)/9

 下郡信号場は日豊本線から豊肥本線が分岐する際に設けられたのが最初で、以降の変遷は「停車場変遷大事典」から詳細を知った。初めは日豊本線側に設けられ、大分から単独の豊肥本線ができた時に廃止されている。その後日豊本線の電化による基地の新設で新たに設置された経緯がある。日豊本線側と豊肥本線側から整理してみた。
日豊本線
 M44(1911)/11/1  別府から延伸した大分線(豊州本線)は大分まで開業する。
 T3(1914)/4/1    大分以南の佐伯線(豊州本線)は幸崎まで開業する。
 この際、同時開業した犬飼軽便線を分岐させるのに下郡連絡所が設置される。
 T11(1921)/4/1   下郡連絡所は下郡信号場に改称される。
 T12(1923)/12/15 豊州本線と宮崎本線が統合されて小倉~吉松間が日豊本線となる。
 S38(1963)/3/20   下郡信号場(初代)廃止。
豊肥本線
 T3(1914)/4/1    犬飼軽便線として大分-下郡連絡所-中判田間が開業する。
 T11(1922)/4/1  下郡連絡所は下郡信号場に改称される。
 T11(1922)/9/2   犬飼軽便線は犬飼線と改称される。
 S3(1928)/12/2   犬飼線と宮地線が統合されて熊本~大分間が豊肥本線となる。
 S38(1963)/3/20  豊肥本線は独立線となり下郡信号場(初代)廃止。
 S42(1967)/8/13  日豊本線電化により大分電車区の分岐点として下郡信号場(2代)が新設される。

南大嶺雨景色

 家族旅行で雨に煙る厚狭川に沿った、所々で美祢線の線路と並走する道路を走っていた。その美祢線を乗り越す際にふと目に入った光景は見覚えのある駅風景であった。D51石灰石ピストン列車と大嶺支線の混合列車を撮りに来たのは昭和47年夏、あれから15年の歳月が経っていた。思わず車から降りてカメラを向けるも、貨車で賑わっていたあの時の面影はなく、単行キハ30だけが佇むがらんとした構内は寂しさが漂っていた。 美祢線南大嶺 S62(1987)/6