転轍器

古き良き時代の鉄道情景

美祢ヤードのDD51

 美祢駅の北側に幹線の駅間にあるような貨物ヤードが広がっていた。蒸機時代は手前の南大嶺で下車したので、もし美祢まで来ていたらこのヤードに出入りするD51の大群を見られたかもしれない。DD51881〔厚〕は昭和48年5月に新製配置されたナンバーである。後方にセキ6000の長い列が数編成並んでいる。右手前から宇部興産のセメント工場へ向かう専用線が延びている。 美祢線美祢 S62(1987)/6

 目的地へ急ぐ小旅行であったので美祢ヤードはこの2枚しかスナップしていない。今思うことであるが、構内の様子、セメント工場への分岐等撮る箇所はいくらでもあったのに当時そのような視点はなかったものと思われる。 DD51851〔厚〕 美祢線美祢 S62(1987)/6

 国土地理院地図・空中写真閲覧サービス CCG7412-C1B-15 昭和50(1975)年 宇部から

 画面左下は2面3線の美祢駅で、駅前ロータリーは広く見える。貨物側線は本屋側に設けられ、貨車が止っているのがわかる。画面中央、駅の北側を進むと宇部興産からの専用線が合流し、その先は幹線筋で見かけるまるで操車場のようなヤードが続いていた。白く見える3本の列はセキ6000の長い編成と思われる。この時はDD51牽引の石灰石列車が運転されて活況を呈していた。

光岡の交換

 神奈川県の小川秀三さんから見せられた光岡駅の写真は昭和45年8月の撮影で、下り線に日田彦山線からのC11が牽く貨物列車が写っていて驚嘆した。日田彦山線の貨物列車、しかも久大本線で見るのは初めてであったからだ。小川さんからこの列車のダイヤを教えていただき、こちらもまた驚きの事実を知る。それは門司からの列車は香春から添田までは添田線を経由していたことだ。行路は門司8:53発ー東小倉ー香春ー大任ー添田宝珠山ー光岡16:24発ー日田16:39着であった。何と1日かけて日田彦山線を縦断していた。テンダのリベットが美しいD60牽引の大分発鳥栖行638レは光岡16:28発で日田行貨物が先に発車するようだ。画面左側は貨物側線があって木材製品や農産物が発送されたものと想像する。 久大本線光岡 S45(1970)/8/1

 638レは大分から豊後森までD60の前にDE10が付いていたとのこと、豊後森で解放されるDE101018〔大〕を撮っておられた。この時期は私もD60を待っていたがことごとくDE10が付いて裏切られていた。訓練運転のDE10は私の体験では上りは640レ、下りは1635レで大分~豊後森間を往復していた。638レにもDE10が付いていたことを今になって知る。 久大本線豊後森 S45(1970)/8/1 写真提供 小川秀三さん

 当然D60が来ると思っていたらDEのホイッスルが聞こえて落胆して撮った残念写真…。 640レ 久大本線庄内~天神山 S45(1970)/5

 D60旅客とC11貨物が交換した昭和45年から6年後の光岡の様子。私が乗車した門司港発日田行729Dが光岡に停車。交換列車があると聞いてホームに降り立つ。何が来るのか全くわからないなか、3輛編成の急行らしき編成が姿を現す。乗務員は運転席から身を乗り出してタブレットを渡そうとしている。この列車は天ヶ瀬発日田彦山線美祢線経由浜田行402D“あきよし”であった。光岡はホームから見ると分岐器までの有効長はとても長いと思う。 久大本線光岡 S51(1976)/9/20

 現在の光岡駅。古き良き時代の面影はない。かろうじて画面左側にかつての貨物側線の跡地がそのまま残っているのが垣間見える。

 下り線側から。駅本屋へ続く道は昭和45年撮影時と同じようだ。構内を隔てる枕木柵はフェンスに変わっている。密集した建物はなくなって寂しさを覚える。

 踏切から振り返って日田寄りを見る。上下線の分岐器の位置も同じようで有効長は当時と変わっていないようだ。

 駅前の道路から奥まった駅のロータリーを見る。「すこやか光岡」の看板を掲げた地域コミュニティの施設が駅舎のかわりのようだ。通学の時間帯は賑わっているように感じた。

 日田駅日田彦山線筑前岩屋駅を結ぶ列車代行バス西鉄バスによって運行されていた。乗客の姿は見えない。まさか日田彦山線添田~夜明間の線路が無くなるなど思いもしなかった。古き良き時代を懐かしむ者として、今の自動車交通の時代を思うと当然の帰結とはいえ、あの頃の鉄道模様を顧みらずにはいられない。 JR光岡 R4(2022)/9/4

県境の風景 久大本線夜明と筑後大石の間

 大分・福岡県境を越える久大本線は日田盆地から筑後川沿いを走り、光岡を過ぎると一気に山間の様相に転じ、筑後川右岸の段丘にある夜明駅から日田彦山線が北に分岐する。トンネルを潜り夜明ダムを過ぎると川幅が一気に広くなってトラスの筑後川橋梁を渡ると先ほどまでの山深い景色がうそのような広大な筑紫平野の東の端に出る。大分・福岡県境は山峡と平野の始まりと終りが織りなす絵模様が展開している。

 68623〔森〕の牽く日田発鳥栖行が夜明発車、美しい弧を描いて大肥川橋梁に迫る。構内外れに立つ転轍器標識と本屋側に続く鉄管が見える。 624レ 久大本線筑後大石~夜明 S43(1968)/8/1

 夜明トンネルを抜けると右曲線で夜明構内は始まっている。左から日田彦山線が寄り添って夜明2番線に入る。鳥栖豊後森行を牽く58689〔森〕は筑後川の峡谷に沿い、今度は名前が変わって三隈川に沿って日田盆地をめざす。 629レ 久大本線筑後大石~夜明 S43(1968)/8/1

 由布院鳥栖行のD602〔大〕が夜明到着。大分のひと桁ナンバー2と3には会えなかっただけにこの機関車には特別な威厳を感じる。ホーム外れに立つ2基の信号機は曲線上に設ける中継信号機かも知れない。そのリレーボックスと詰所、自転車も見える。駅員の姿もあり、夜明はかなりの数の駅員が働いていたものと思う。 626レ 久大本線夜明 S43(1968)/8/1

 大分発鳥栖行638レから見た夜明3番線は門司発日田行729レが停車している。両列車とも16:34夜明を発車する。蒸気が上がるC11、日田行のサボが付いたオハフ33、ホーム上の「通票確認ニ秒間」の標語、手入れされた植木、ホーム擁壁面の縦位置の土止め等良き時代の鉄道情景が写っている。 夜明 S45(1970)/8/1

 夜明場内信号機横を行く日田発門司行728レは少し煙突が短いような気がするC11376〔門〕が牽いて来た。電柱脇に見える勾配標は今山からの連続下り勾配が夜明構内手前で6.2‰の上りを示しているものと思われる。後方の山に掲げられた看板は酒どころ日田の清酒の銘柄のようでとても懐かしく映る。 日田彦山線今山~夜明 S43(1968)/8/1

 上り列車で夜明を出ると長短6つのトンネルを抜けたところで筑後川橋梁を渡り、そこが大分県と福岡県の県境となる。車窓は深かった山の様相は一変、なだらかな平地に下りた印象を受ける。夜明から続いた連続下り勾配はR400の曲線を行く辺りから平坦になる。 久大本線筑後大石~夜明 S43(1968)/8/1

 D6021〔大〕の牽く大分発鳥栖行が筑後川橋梁を渡ってすぐの住宅地を抜けて水田の間のきれいな築堤を進む。通信線電柱がよくマッチする景色と思う。 628レ 久大本線筑後大石~夜明 S43(1968)/8/1

 朝霧の中、台地からハチロクの牽く日田発鳥栖行上り列車を見る。後方は大分県側の山並みが望める。 626レ 久大本線筑後大石~夜明 S44(1969)/7/29

 上り日田発鳥栖行626レと下り鳥栖豊後森行629レは何れもハチロク牽引で筑後千足で交換する。筑後大石から夜明にかけては上り勾配となり豊後森行68623〔森〕は4輛の客車を従えてドラフト高々に現れた。キャブ前方の扉が全開だ。 629レ 久大本線筑後大石~夜明 S44(1969)/7/29

 8620牽引の鳥栖行626ㇾの次は由布院鳥栖行628レがやって来る。カーブした築堤の先の切通しの跨線橋から上り列車を捉える。D6062〔大〕は9輛の客車を軽々と牽いて来た。由布院を出る時は4輛なので日田で増結するものと思われる。台地を覆う朝霧はまだ晴れていない。 628レ 久大本線筑後大石~夜明 S44(1969)/7/29

 以上10点 昭和43年~45年撮影 写真提供:小川秀三さん

北九州を行くセメント・石灰石列車 日田彦山線

 北九州を行く日田彦山線カルスト台地平尾台と福知山塊の間のわずかな平地をぬけて城野で日豊本線に合流する。石原町発の上り積車編成は城野に向けて下り勾配を軽やかに進む。石原町は九州最大のセメント・石灰石発送駅でD51牽引の専用列車が多数設定され、石原町発着列車のD51は上り積車編成は正位、下り返空編成は逆行で運転されていた。 石原町発黒崎行8870レ 日田彦山線石田~志井 S48(1973)/3/29

 黒崎行8870レはかなり長い編成で、機関車次位のセフに続き「黒崎─石原町間専用」のセキ6000が14輛、その後が異径胴タンク車のタキ9900が7輛で22輛編成であった。 日田彦山線石田~志井 S48(1973)/3/29

 D51382〔門〕の牽く石原町発東小倉行5796レは住友セメントのタンク車を率いてやって来た。石原町からは住友セメントと三菱セメントが、香春からは日本セメント専用線が敷かれ、それぞれの私有貨車で組まれたバラエティ豊かな編成が見られるのはこの区間の魅力であった。 日田彦山線石田~志井 S48(1973)/3/29

 前2輛のタンク車は葉巻形をした異色のタキ11500ではないかと思われる。後半は見慣れた住友セメントのタキ1900が続いていた。セメントタンカーは住友セメント小倉工場の東小倉と石原町のそれぞれの専用線の間で運用されていた。 5796レ 日田彦山線石田~志井 S48(1973)/3/29

 香春から来る編成は日本セメントのホキ3500で組まれていた。石田上り場内腕木式信号機は通過のサインを出している。 1894レ 日田彦山線石田~志井 S48(1973)/3/29

 上り列車通過を待って香春行ホキ3500編成が発車する。2基の場内信号機から通過列車は右側の線を通るようだ。次から次にやって来るセメント・石灰石列車にただただ驚くばかりであった。 門司(操)発香春行5767レ 日田彦山線石田~志井 S48(1973)/3/29

 城野を発車した日田行727Dの気動車からとなりの線に退避している貨物列車の機関車にカメラを向ける。対向列車ではなく追い越しだったので貨車の列が途切れてシャッターを押す時はもうかなりのスピードが出ていた。逆行D51275〔門〕は三菱セメントのホキ6700を従えて石原町から専用線へと入る。 5785レ 城野 S48(1973)/3/30

 小倉発豊前川崎行733Dは、門司港筑豊本線伊田線経由由布院行急行“はんだ”の出発を待って小倉を後に日豊本線を下る。15:15小倉発。城野は日豊本線下り1番線に入ると、D51215〔門〕の牽く香春発東小倉行5768レが5番線で待機していた。733Dは日豊本線上り線に渡り、さらに外側の日田彦山線に渡って進路変更する。733D15:24発、5768レ15:24発。 キハ1615〔門カタ〕の車窓からD51の“幸せいっぱい!”の発車を見る。 城野 S48(1973)/3/29

 豊前川崎行気動車列車が石田停車でしばらく待機。前方から速度を落とさない貨物列車が接近して来た。D51344〔門〕の機関助士はまさにタブレットを通票受けに掛けようとしている。石原町からの石灰石列車は猛スピードで通り過ぎて行った。石田は通過列車がスルーの線形で上下線どちらからも入線できる1面2線の配線で、場内信号機は2基設置されていた。城野~石原町間は列車密度が高く、石田と志井は列車交換が多い。 733Dと5868レ 日田彦山線石田 S48(1973)/3/29

 黒崎から石原町への返空編成は鹿児島本線貨物線を北上し、門司操車場でスイッチバック日豊本線に進路をとる。北九州でセメント関連の貨物駅は外浜・門司埠頭・葛葉・東小倉・黒崎・黒崎港等があった。逆行D51215〔門〕がタキとセキの編成を従えて小倉1番線に入る。 5881レ 小倉 S48(1973)/3/30

 D51215〔門〕は元早岐機関区の罐。3本の砂撒管が川の字のようにボイラを伝っているのとナンバープレートが前方移動のないキャブに収まるタイプはD51344〔門〕と同じ装備であった。シンダエプロンは裾広がりのない独特なスタイルだった。 小倉 S48(1973)/3/30

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鹿児島本線貨物線

 鹿児島本線貨物線を行くD511150〔若〕は後藤寺行の一般貨物の先頭に立っている。後藤寺までの経路は門司(操)から鹿児島本線貨物線─黒崎から筑豊本線─直方から伊田線─金田から糸田線と複雑で、牽引機は直方から9600に代わる。たまたま出会った若松のD511150はかつては長崎本線をならした機関車であった。 小倉 S48(1973)/3/30

 DD5149〔門〕牽引の日田彦山線石原町からの石灰石列車は両端セフに高さ不揃いのホキとセキをはさんだとても長い編成であった。石原町から黒崎へ行く石灰石列車は、日豊本線を北上し小倉の先の複雑巧妙な線路配線で鹿児島本線貨物線と合流し、東小倉を経て門司操車場に入る。ここで反対方向に機関車が付き、スイッチバックの形で鹿児島本線貨物線を下って黒崎をめざす。 小倉 S48(1973)/3/30

 独特な唸りをあげてやって来たのはED7210〔門〕で、ホキとセキのジョイント音が規則正しいリズムとなって新幹線高架橋にはねかえっていた。編成は黒崎発石原町行と思われるが電気機関車もその運用に就くのかと驚きであった。またED72の貨物牽引は初めてで興味あるひとコマとなった。 小倉 S48(1973)/3/30

 山陽新幹線の高架橋は小倉駅北側に着々と建設が進んでいた。

 ED73の牽くク5000の自動車輸送編成を見る。志免の自動車基地に向かう自動車輸送列車は、香椎(操)から香椎線に入り、酒殿からの短絡線で勝田線志免への経路をとる。自動車輸送は昭和42年頃から始められ、新鶴見(操)・北野桝塚・笠寺間で設定されていた。 小倉 S48(1973)/3/30

 雨の中、DD51が牽く上りの長い貨物列車がやって来た。電気機関車ではないので筑豊本線からの乗入れとも思ったが、編成中ほどはボギーのワキ5000が続いていたので鹿児島本線鳥栖からか、香椎からか、どこから来たのか謎の列車であった。 小倉 S51(1976)/9/19

 石炭車に分厚い蓋をしたような特異な形の貨車は生石灰を運ぶホラ100で、鹿児島本線貨物線を行く編成は牽引機も編成もバラエティに富んでいた。乗換え間合いのわずかな時間の偶然の出会いなので腰を据えて観察すればもっと珍しい車輛が撮れていたにちがいない。 小倉 S51(1976)/9/19