転轍器

古き良き時代の鉄道情景

緩急車 ワフ・セフ

 模型の作例でよく見かけたのはこのタイプの黄帯を巻いた有蓋緩急車で「道外禁止」のレタリングとともに絵になる車輛であった。戦後製のワフ22000を2段リンク改造をせずに65Km/h制限とし、形式はワフ122000とされた。 ワフ122826 宗谷本線抜海~稚内 S49(1974)/9/14

 ワフ21000は戦前製の最初の鋼製有蓋緩急車とのこと。ワフ22000と外観で違うのは貨物扉のリブの有り無しと思われる。両形式ともデッキ端面腰部は板状ではなくパイプ状のようだ。 ワフ21577 船尾 S48(1973)/3/30

 ワフ22000の荷重は2トンで貨物扉は横2本のリブが付いている。形式標記ワフの上の△印は緩急車を表わす用途記号と思われる。反射板の付いたぶ厚い後部標識灯が付けられている。 ワフ22043 形式ワフ22000 分 南延岡駅常備 大分 S45(1970)/9

 こちらのワフ22000は△印は無く、ナンバーの前に□が入れられている。これを意味するのは何であろうか。貨物室側妻面にも後部標識灯が備えられている。 ワフ22228 形式ワフ22000 名イナ 寄居  S51(1976)/6/26

 斜め上からの角度。キャンバス張りの屋根やベンチレーターとストーブの煙突の並びがわかる。 ワフ22612 伊田線赤池~金田 S48(1973)/3/31

 ワフ29500は有蓋緩急車ワフの新製車として最後の形式となった。荷重は5トンとなって昭和30年から36年にかけて650輛が製作された模様。両サイドで窓の数が2個と3個で違うのが特ちょうであった。 ワフ30141 形式ワフ29500 分ノカ 大分港 S60(1985)/4

 窓2個側のサイド。かつての所属標記は管理局名が独特の書体で目立つように大きく記載され常備駅〇〇駅の方式であったが、いつ頃からか客車方式と同じ標記となっていた。 ワフ30142 形式ワフ29500 分ノカ 大分港 S60(1985)/4

 窓3個側のサイド。大分港も苅田港と同じく廃車前提の車掌車や緩急車が集結していた。 ワフ30143 形式ワフ29500 分ノカ 大分港 S60(1985)/4

 戦前製8トン積密閉式のワフ25000を開放式デッキに改造されたのがワフ35000で窓は両サイド2個ずつとなっている。所属標記は管理局名と常備駅の以前のパターンで緩急車を表わす△マークも付いている。 ワフ35734 形式ワフ35000 名 稲沢駅常備 大分 S45(1970)/9

 ワフ35000はデッキの柱が腰板の外側に付けられているのが特ちょうで、内側に収まるワム29500と比べて見るとその違いがよくわかる。 ワフ35893 形式ワフ35000 新ニソ 大分 S60(1985)/3/11

 密閉式ワフ25000の改造の際は荷重8トンが5トンに減少し、出入台と車掌室が拡大されている。昭和35年から40年にかけて登場し、国鉄末期まで有蓋緩急車の主要形式として活躍した。 ワフ35382 形式ワフ35000 高タソ 苅田港 S60(1985)/8/17

 黄帯が連続する石炭列車を締めくくるセフ1は魅力の石炭緩急車であった。ヨンサントオ以降、「制限速度65Km/h指定貨車」として黄帯が施され形式標記の前に符号「ロ」が付けられた。乗務環境の改善で従来からのセムフ1000の車掌室長さ(0.6m)をセフ1では大幅に拡大(1.5m)され、荷重は12トンとなった。形式標記の上は△マークが見える。上から撮られた石炭列車の写真では、セフだけ石炭が積まれていない場面をよく目にしたものだ。 ロセフ248 形式セフ1 船尾 S48(1973)/3/30

車掌車 ヨ

 貨物列車の編成の前後に付いていた車掌車や緩急車はとても魅力的であった。機関車メインの写真なのでそれらは写ってはいるが、どれも小さくて外形は皆同じように見えたものだ。改めて振り返ると形式ごとに様々なバリエーションがあったようで、車掌車(緩急車は別)の形式写真はかろうじてヨ3500・ヨ5000・ヨ6000の3形式を撮っていた。

 希少な車掌車を撮っていた。1段リンク車として登場したヨ3500は2段リンクへ改造されてヨ5000となり、わずかに信越本線用として残っていたようだ。運用票板は「信越線専用車高崎操ー直江津間」と記されている。碓氷峠を越える専用車としてステップの柱は白く塗られている。 ヨ4088 形式ヨ3500 信越線高崎操ー直江津間専用車 長シノ 寄居 S52(1977)/5

 ヨ5000はリベットのある重々しい車体と4個の窓の囲み枠、キャンバス張りの屋根が独特に映る。床下も蓄電池箱や器具箱、発電機が並んで賑やかだ。車体裾は補修の跡か補強板のような物が貼られている。このタイプは窓位置の高さの上下、窓間隔の広狭などバラエティがあるようだ。コンテナ特急仕様の淡緑色に塗られたのもヨ5000で、都落ちで地方ローカルで使われる姿も絵になった。 ヨ13618 形式ヨ5000 熊クマ 大分 S56(1981)/2

 ヨ5003はナンバーからヨ3500からの編入車ではないヨ5000の新製車と思われる。妻面2箇所の白帯は石油ストーブ搭載車、手摺りとステップの白塗装はハンドブレーキ装備側を示しているということがわかった。 ヨ5003 形式ヨ5000 天リウ 三角 S59(1984)/1/12

 北九州の石炭・石灰石列車用に積込設備のホッパーにそのまま入れるように屋根の高さを低く改造されたのがヨ5000 800番台車である。ベンチレーターの無い独特なスタイルをしている。 ヨ5816 形式ヨ5000 金田駅常備 門モシ 苅田港 S60(1985)/8/17

 製造初年昭和37年のヨ6000はヨ5000を小型軽量化したもので、車体長は窓1個分短くなり自重も軽くなって換算は0.8と標記されている。 ヨ6360 形式ヨ6000 大スイ 鶴崎 S56(1981)/3/15

 運用番「急」と記された運用の行路に目が行く。笹島・稲沢・小郡・鳥栖・熊本・鹿児島の駅名が読め、急行貨物列車で中京圏と九州を往復していたのだろうと想像する。 ヨ6215 形式ヨ6000 名イナ 苅田港 S60(1985)/8/17

 ヤード集結輸送の廃止で廃車予定の貨車が各地から留置のため苅田港へ送られていた。その中のヨ13918(形式ヨ5000)に気になる運用表が付いていた。「急147A、百済、運用区間及指定列車」の書体が何とも“国鉄”の香りを漂わせている。百済から氷見線能町までの経由地とルート、そしてどのような積荷の貨車とともに旅をしたのか、想像を膨らませる。

豊州路の汽車電車

 

 蒸機時代、豊後森から日田へ向かう夕方の区間列車があった。趣味誌で見たその列車はD60+8620+客車2輛+貨車のまるでメルヘンの世界のような光景で印象に残っている。そのスジはディーゼル化されることなく50系客車でこの時も連綿と続いているようであった。 久大本線豊後森 S59(1984)/9/27

 昭和60年代になると宅地化の進んだ沿線とは裏腹に普通列車の編成は短くなってきた。キハ58+キハ28+キハ40の3輛編成が行く。 久大本線南大分~大分 S60(1985)/4

 蒸機時代にキハ17を先頭にした大分~佐伯間を往復する気動車列車が1往復走っていた。南宮崎電化後もそれは残り、電車やED76牽引の客車列車と共存していた。上り列車の交換待ちをする佐伯行2539Dは6輛編成で、前から5輛めは背が低いので1輛だけ健在のキハ1747〔分オイ〕と思われる。側線は編成から外されたビュッフェ車サハシ455が留置されている。 日豊本線大在 S53(1978)/7/14

 夜の帳がおりた大在では特急列車通過待ちで下り貨物列車が3番線で退避する。ED7678〔大〕のブロア音が鳴り響いていた。 日豊本線大在 S54(1979)/6

 大野川に注ぐ冬田川を渡る段丘は勾配標が示す通り前後25‰勾配のV字谷になっている。きれいな顔のキハ55138〔熊クマ〕先頭の熊本行が通りがかる。 豊肥本線竹中~中判田 S53(1978)/11

 豊肥本線下りは外輪山を越えると波野から牧口にかけて一気に下り坂となる。国道と並走した線路は平井川の谷を離れて緒方盆地へと下って行く。“火の山5号”は上り寄りにキハ40を連結していた。 2746D 豊肥本線朝地~緒方 S59(1984)/1/12

 厳寒の朝、霜で白くなった道床を踏みしめて木々の間から漏れる朝日を受けてキハ40が行く。 宮原線宝泉寺~麻生釣 S59(1984)/11/28

 久大本線上りは天神山から南由布にかけて25‰の連続上り勾配が続く。大分川の河岸段丘は湯平から急に深い谷へと変わり、大分川を右へ左へ渡りながら由布院盆地へと這いあがる。鳥栖行636レを牽くDE101039〔大〕がエンジンを唸らせてやって来た。 久大本線由布院~南由布 S53(1978)/11/29

 早朝の由布院構内をのぞく。由布院駐泊の列車は蒸機時代とほぼ変わらず、下り鳥栖由布院止まりの気動車列車(1)、上り大分発由布院止まりの客車(2)と気動車列車(3)の3本であった。翌朝(1)は下り大分行1番、(2)は上り鳥栖行、(3)は下り大分行3番で折返す。 久大本線由布院 S53(1978)/11

 玖珠川の土手から豊後森駅を望む。駅裏手の田んぼは藁小積みが並び晩秋の様相を呈している。構内では宮原線仕業のキハ40と久大本線のDE10と50系客車が佇んでいた。 S59(1984)/11/1

相知炭坑貨物駅

 昭和58年6月に小学館から刊行された「国鉄全線各駅停車10九州720駅」の巻末綴じ込みに廃止停車場一覧表が載っていた。地図には載らない自分の知らない駅や信号場が多数あって興味深く見入っていた。目に留ったたくさんの気になる駅のひとつが唐津線の相知炭坑貨物駅であった。平成の時代になると鉄道・通運関係者向けの「専用線一覧表」を見ることができるようになり、私の知らないミステリアスな遠い過去へ彷徨うようになる契機となった。

 筑肥線電化以前の東唐津西唐津にそれぞれ車輛基地が置かれていた時代の筑肥線唐津線の線形図を示す。相知炭坑貨物駅は山本起点となっていたので山本からスルーに向かう線形と想像したが、松浦川を渡った先の中相知信号場を介したスイッチバックの配線ということがわかった。距離程は山本から中相知まで5.4Km、中相知から相知炭坑まで0.7Kmで山本~相知炭坑まで6.1Kmとなる。

 山本~相知間の営業キロは6.9Kmなので相知からこの地点(相知炭坑への分岐点)は相知駅から1.5Kmの地点ということになる。未だに分岐の跡が残っていたのに驚く。

 上の写真の反対側。相知炭坑へ分岐する信号場跡はかなりの敷地があったようだ。病院の後方は熊野神社の森が広がっている。 唐津線相知~本牟田部

 分岐跡が残る病院脇の踏切を西へ進むと線路敷のような築堤が目に入る。期待感を込めて道なりを進むと…

 何ということだろう。綺麗な築堤跡が残っていてまるで線路が敷かれているような錯覚に陥る。後方の山は2つの峰があるので相知町厳木町の境にそびえる作礼山ではないかと思われる。

 病院が建っている所が分岐点で線路跡はそこから続き、まるで石炭が運ばれていた頃の原風景を見るようだ。

 振り返るとこの構図。前方の工場の辺りが相知炭坑駅があった辺りと思われる。 R4(2022)/11/24 

 Googleマップからも線路跡がくっきりとわかる。
 「停車場変遷大事典」から分岐点の変遷は以下の通り。
 明治38年10月 相知貨物支線分岐点
 明治40年7月 相知分岐点
 明治42年1月 相知炭坑分岐点
 大正4年9月 中相知連絡所
 大正11年4月 中相知信号場
 昭和41年~47年頃 廃止

 「石炭とともに」(相知町鉱害被害者組合/平成11年刊)に大正12年頃の炭坑引込線が描かれた図を見つける。筑肥線はこの時はまだ未開通で便宜上引かれたものと思われる。鉄道関連の記述は「●明治38年10月に三菱相知炭坑へ唐津線から引込線を開通させ相知積込場を開設し相知駅が管理する●明治40年頃炭田から唐津港への輸送量は1山本駅2相知炭坑駅3岸嶽駅の順で鉄道78%川船22%●三菱相知炭坑の送炭は全て鉄道輸送で西唐津港へ出す●昭和44年頃石炭輸送のための中相知駅廃止」が記されていた。

 相知炭坑貨物駅を管理していた相知駅。すでに中線と農業倉庫前の側線、本屋起点寄りの貨物側線は撤去されていた。 唐津線相知 H22(2010)/2/20

 「石炭とともに」に8550が先頭に立つ石炭列車の写真が載っていた。中相知駅はこのような広大な構内が展開していたことがわかる。後方は熊野神社の森の説明から機関車は唐津方を向き、画面右側で相知炭坑からの支線が合流していたと思われる。

 写真にあわせてGoogleマップを逆に配置すると熊野神社の森が一致する。

 機関車は輪郭から8550とわかるが石炭車の列ははっきりとわからない。この時代の石炭車はどのような車輛だったのか想像してみた。

 明治期に筑豊鉄道が外国製を模倣して作ったのが6トン積の鉄製石炭車らしく、降炭の際クレーンで吊り上げるための吊り環が付いていた。ホッパにはレール9個の丸い輪に見える九州鉄道のマークが付けられていた。

 筑豊で使われていた石炭車は九州鉄道管理局の「九」の標記が印象に残っている。テタ(鉄製のテ、炭車のタ)を名乗るこのタイプは10トン積で後に増トン改造でセム1のグループに入ったようだ。ホッパの標記はその後鉄道省の門司鉄道管理局を現す「門」標記に変わっていったと思われる。台枠の中央にはその時々の組織名、鉄道院であったり鉄道省の標記が成されていたはずである。

 九州鉄道で作られた石炭車は国有化の後ブレーキ管の取付けが始まり、ブレーキシリンダ未搭載の旧形車を区別するため十字標記が施されたと聞いた。

 後の石炭車は15トン積となり、引継ぎ車は炭箱増大工事を行ってテタ形式と統合されてセム1となったようだ。セム1は製造時期によって鋼木合造や全鋼製があり、また更新車も加わって多種多様なタイプが存在した模様。

 「ようこそ大之島鉄道へ」のHPに発表された「九州鉄道ソ1タイプの石炭列車」貫通ブレーキのなかった時代を再現して、8000形が牽く石炭列車には数輛ごとに制動手が乗車していた。プロトタイプは筑豊ではあるが中相知での石炭列車と重ねて見てしまい、牽引機を8550にお願いして相知炭坑駅からの石炭列車を想像する。遠い日の鉄道情景も模型で再現できることに感動した。またこれまで知らなかった炭車形式(鋼製テタ、手動制動器付フテタ等)や制動システムのこと(制動手が炭層の上に乗っているのは貫通ブレーキが整備される前)、車輛の変遷等が理解できるようになったのは収穫であった。 写真:大之島鉄道さん

唐津線と筑肥線の立体交差

 佐賀と唐津を結ぶ国道203号線を唐津方面へ走って行くと、相知市街地を抜け、松浦川を渡った辺りから始まる不思議な鉄道風景に目を奪われる。並行して走る唐津線松浦川をトラス橋で渡ると、それよりも高い位置を通る線路敷らしきものが目に入る。回り込んで視界が開けるとまるで模型レイアウトの世界に入ったような錯覚に陥る2つの線路の交差が現れる。オーバークロスした線路はにわかに高度を下げ、その先から2条の線路は仲良く並んでまるで複線のような形で山本駅まで道路と並行する。

 松浦川右岸の堤防から対岸の線路交差地点を望む。山裾を回り込む上の線路は伊万里唐津を経由して姪浜を結ぶ筑肥線、がーダー橋をアンダークロスする下の線路は久保田と西唐津を結ぶ唐津線である。山間で線路が交差する光景はかつて通ったことのある、北陸本線敦賀新疋田間に設けられたループ線の上下線交差部分と重ねてしまう。

 近づいて見る。筑肥線伊万里から来たキハ125単行が唐津線をオーバークロスする上路プレートガーダーを行く。

 手前が国道203号線。「西唐津」行を掲げるキハ47が行くのが久保田からの唐津線。上の線路が伊万里から山本へ続く筑肥線である。

 反対側から見る。上の筑肥線は手前が山本方、画面右が伊万里方、下の唐津線は手前が本牟田部方、奥が相知方となる。模型レイアウトに引き込まれたような錯覚を覚える不思議な光景に映る。

 唐津線下りキハ125の前面展望。松浦川に架かるワーレントラスの「久保川橋梁」を渡る。川の名前と橋梁の名前が違うことは多々あると聞いたことがある。前方、山の中腹に筑肥線が通っている。

 多久・厳木・岩屋・相知の唐津炭田の石炭を輸送するため、唐津興業鉄道が山本~西唐津~大島間を明治31年11月に開通させ、以後厳木、多久と延伸し、明治36年に全線開業する。九州鉄道に買収の後、明治40年国有化されて唐津線となった。

 松浦川は進行方向右側に出る。筑肥線は左側、竹藪の上辺りに迫って来た。

 魅惑のクロス地点に差しかかる。

 オーバークロスした筑肥線が右側へ出て大きく回り込む。

 2条の線路はここで寄り添い、山本まで単線並列で進む。

 右側車窓。走る線路は唐津線でとなりの線路が筑肥線。国道203号線と松浦川が寄り添う。

 山本駅手前に建つ中継信号機。その先に唐津線は下り場内信号機、筑肥線は上り場内信号機が待っている。昭和46年に廃止された岸嶽支線はこの辺りで合流し3線で山本構内へ入って行ったのではないかと推測する。

 筑肥線側から魅惑のクロスを見ようと下り伊万里行に乗車し前方を注視する。山本を発車、分岐器は左側の筑肥線へ進路を示す。
 筑肥線は北九州鉄道によって博多から東唐津、山本と線路を伸ばし昭和10年3月に伊万里まで全線開業している。国有化は唐津線明治40年筑肥線昭和12年なのでそれまでは省線と北九州鉄道が並んで走っていたことになる。

 本牟田部駅唐津線の駅で筑肥線側にホームは無い。伊万里行軽快気動車はフルスロットル全速力で通過。まっすぐに立っていられないほどの振動を受ける。前述した唐津炭田の閉山は早かったのでこの区間を行く両線の運炭列車の記録にはお目にかかれていない。西唐津の庫は時代とともに8550・C12・C11・8620・9600と変遷し、伊万里はC11・8620が配置されていたようだ。

 筑肥線唐津線を乗り越すのでこの辺りから勾配を稼ぎ始める。

 外側に膨らんで12‰の勾配を上る。

 筑肥線は上路プレートガーダーで唐津線を乗り越す。2線が絡み合う迫力ある鉄道風景に惹きつけられる。

 高い位置を行く筑肥線からは下を行く唐津線が俯瞰できる。松浦川に鉄道と道路の橋梁が並んで架けられている。

 国道203号線を通るたびに魅惑のクロスが気になっていた。列車からの展望は思った通り道路や堤防からの眺めとはひと味ちがう雄大な景色が展開していた。私が思いつくこのような山間の立体交差は、冒頭の鳩原ループ線を初めとして、勇払原野の室蘭本線千歳線、直方平野は筑豊本線複々線のひねり、田川線添田線、球磨川沿いの鹿児島本線肥薩線が浮かぶ。 写真:R1(2019)/11/4 R4(2022)/11/24 R5(2023)/2/28