転轍器

古き良き時代の鉄道情景

唐津線と筑肥線の立体交差

 佐賀と唐津を結ぶ国道203号線を唐津方面へ走って行くと、相知市街地を抜け、松浦川を渡った辺りから始まる不思議な鉄道風景に目を奪われる。並行して走る唐津線松浦川をトラス橋で渡ると、それよりも高い位置を通る線路敷らしきものが目に入る。回り込んで視界が開けるとまるで模型レイアウトの世界に入ったような錯覚に陥る2つの線路の交差が現れる。オーバークロスした線路はにわかに高度を下げ、その先から2条の線路は仲良く並んでまるで複線のような形で山本駅まで道路と並行する。

 松浦川右岸の堤防から対岸の線路交差地点を望む。山裾を回り込む上の線路は伊万里唐津を経由して姪浜を結ぶ筑肥線、がーダー橋をアンダークロスする下の線路は久保田と西唐津を結ぶ唐津線である。山間で線路が交差する光景はかつて通ったことのある、北陸本線敦賀新疋田間に設けられたループ線の上下線交差部分と重ねてしまう。

 近づいて見る。筑肥線伊万里から来たキハ125単行が唐津線をオーバークロスする上路プレートガーダーを行く。

 手前が国道203号線。「西唐津」行を掲げるキハ47が行くのが久保田からの唐津線。上の線路が伊万里から山本へ続く筑肥線である。

 反対側から見る。上の筑肥線は手前が山本方、画面右が伊万里方、下の唐津線は手前が本牟田部方、奥が相知方となる。模型レイアウトに引き込まれたような錯覚を覚える不思議な光景に映る。

 唐津線下りキハ125の前面展望。松浦川に架かるワーレントラスの「久保川橋梁」を渡る。川の名前と橋梁の名前が違うことは多々あると聞いたことがある。前方、山の中腹に筑肥線が通っている。

 多久・厳木・岩屋・相知の唐津炭田の石炭を輸送するため、唐津興業鉄道が山本~西唐津~大島間を明治31年11月に開通させ、以後厳木、多久と延伸し、明治36年に全線開業する。九州鉄道に買収の後、明治40年国有化されて唐津線となった。

 松浦川は進行方向右側に出る。筑肥線は左側、竹藪の上辺りに迫って来た。

 魅惑のクロス地点に差しかかる。

 オーバークロスした筑肥線が右側へ出て大きく回り込む。

 2条の線路はここで寄り添い、山本まで単線並列で進む。

 右側車窓。走る線路は唐津線でとなりの線路が筑肥線。国道203号線と松浦川が寄り添う。

 山本駅手前に建つ中継信号機。その先に唐津線は下り場内信号機、筑肥線は上り場内信号機が待っている。昭和46年に廃止された岸嶽支線はこの辺りで合流し3線で山本構内へ入って行ったのではないかと推測する。

 筑肥線側から魅惑のクロスを見ようと下り伊万里行に乗車し前方を注視する。山本を発車、分岐器は左側の筑肥線へ進路を示す。
 筑肥線は北九州鉄道によって博多から東唐津、山本と線路を伸ばし昭和10年3月に伊万里まで全線開業している。国有化は唐津線明治40年筑肥線昭和12年なのでそれまでは省線と北九州鉄道が並んで走っていたことになる。

 本牟田部駅唐津線の駅で筑肥線側にホームは無い。伊万里行軽快気動車はフルスロットル全速力で通過。まっすぐに立っていられないほどの振動を受ける。前述した唐津炭田の閉山は早かったのでこの区間を行く両線の運炭列車の記録にはお目にかかれていない。西唐津の庫は時代とともに8550・C12・C11・8620・9600と変遷し、伊万里はC11・8620が配置されていたようだ。

 筑肥線唐津線を乗り越すのでこの辺りから勾配を稼ぎ始める。

 外側に膨らんで12‰の勾配を上る。

 筑肥線は上路プレートガーダーで唐津線を乗り越す。2線が絡み合う迫力ある鉄道風景に惹きつけられる。

 高い位置を行く筑肥線からは下を行く唐津線が俯瞰できる。松浦川に鉄道と道路の橋梁が並んで架けられている。

 国道203号線を通るたびに魅惑のクロスが気になっていた。列車からの展望は思った通り道路や堤防からの眺めとはひと味ちがう雄大な景色が展開していた。私が思いつくこのような山間の立体交差は、冒頭の鳩原ループ線を初めとして、勇払原野の室蘭本線千歳線、直方平野は筑豊本線複々線のひねり、田川線添田線、球磨川沿いの鹿児島本線肥薩線が浮かぶ。 写真:R1(2019)/11/4 R4(2022)/11/24 R5(2023)/2/28