昭和58年6月に小学館から刊行された「国鉄全線各駅停車10九州720駅」の巻末綴じ込みに廃止停車場一覧表が載っていた。地図には載らない自分の知らない駅や信号場が多数あって興味深く見入っていた。目に留ったたくさんの気になる駅のひとつが唐津線の相知炭坑貨物駅であった。平成の時代になると鉄道・通運関係者向けの「専用線一覧表」を見ることができるようになり、私の知らないミステリアスな遠い過去へ彷徨うようになる契機となった。
筑肥線電化以前の東唐津と西唐津にそれぞれ車輛基地が置かれていた時代の筑肥線と唐津線の線形図を示す。相知炭坑貨物駅は山本起点となっていたので山本からスルーに向かう線形と想像したが、松浦川を渡った先の中相知信号場を介したスイッチバックの配線ということがわかった。距離程は山本から中相知まで5.4Km、中相知から相知炭坑まで0.7Kmで山本~相知炭坑まで6.1Kmとなる。
山本~相知間の営業キロは6.9Kmなので相知からこの地点(相知炭坑への分岐点)は相知駅から1.5Kmの地点ということになる。未だに分岐の跡が残っていたのに驚く。
上の写真の反対側。相知炭坑へ分岐する信号場跡はかなりの敷地があったようだ。病院の後方は熊野神社の森が広がっている。 唐津線相知~本牟田部
分岐跡が残る病院脇の踏切を西へ進むと線路敷のような築堤が目に入る。期待感を込めて道なりを進むと…
何ということだろう。綺麗な築堤跡が残っていてまるで線路が敷かれているような錯覚に陥る。後方の山は2つの峰があるので相知町と厳木町の境にそびえる作礼山ではないかと思われる。
病院が建っている所が分岐点で線路跡はそこから続き、まるで石炭が運ばれていた頃の原風景を見るようだ。
振り返るとこの構図。前方の工場の辺りが相知炭坑駅があった辺りと思われる。 R4(2022)/11/24
Googleマップからも線路跡がくっきりとわかる。
「停車場変遷大事典」から分岐点の変遷は以下の通り。
明治38年10月 相知貨物支線分岐点
明治40年7月 相知分岐点
明治42年1月 相知炭坑分岐点
大正4年9月 中相知連絡所
大正11年4月 中相知信号場
昭和41年~47年頃 廃止
「石炭とともに」(相知町鉱害被害者組合/平成11年刊)に大正12年頃の炭坑引込線が描かれた図を見つける。筑肥線はこの時はまだ未開通で便宜上引かれたものと思われる。鉄道関連の記述は「●明治38年10月に三菱相知炭坑へ唐津線から引込線を開通させ相知積込場を開設し相知駅が管理する●明治40年頃炭田から唐津港への輸送量は1山本駅2相知炭坑駅3岸嶽駅の順で鉄道78%川船22%●三菱相知炭坑の送炭は全て鉄道輸送で西唐津港へ出す●昭和44年頃石炭輸送のための中相知駅廃止」が記されていた。
相知炭坑貨物駅を管理していた相知駅。すでに中線と農業倉庫前の側線、本屋起点寄りの貨物側線は撤去されていた。 唐津線相知 H22(2010)/2/20
「石炭とともに」に8550が先頭に立つ石炭列車の写真が載っていた。中相知駅はこのような広大な構内が展開していたことがわかる。後方は熊野神社の森の説明から機関車は唐津方を向き、画面右側で相知炭坑からの支線が合流していたと思われる。
写真にあわせてGoogleマップを逆に配置すると熊野神社の森が一致する。
機関車は輪郭から8550とわかるが石炭車の列ははっきりとわからない。この時代の石炭車はどのような車輛だったのか想像してみた。
明治期に筑豊鉄道が外国製を模倣して作ったのが6トン積の鉄製石炭車らしく、降炭の際クレーンで吊り上げるための吊り環が付いていた。ホッパにはレール9個の丸い輪に見える九州鉄道のマークが付けられていた。
筑豊で使われていた石炭車は九州鉄道管理局の「九」の標記が印象に残っている。テタ(鉄製のテ、炭車のタ)を名乗るこのタイプは10トン積で後に増トン改造でセム1のグループに入ったようだ。ホッパの標記はその後鉄道省の門司鉄道管理局を現す「門」標記に変わっていったと思われる。台枠の中央にはその時々の組織名、鉄道院であったり鉄道省の標記が成されていたはずである。
九州鉄道で作られた石炭車は国有化の後ブレーキ管の取付けが始まり、ブレーキシリンダ未搭載の旧形車を区別するため十字標記が施されたと聞いた。
後の石炭車は15トン積となり、引継ぎ車は炭箱増大工事を行ってテタ形式と統合されてセム1となったようだ。セム1は製造時期によって鋼木合造や全鋼製があり、また更新車も加わって多種多様なタイプが存在した模様。
「ようこそ大之島鉄道へ」のHPに発表された「九州鉄道ソ1タイプの石炭列車」は貫通ブレーキのなかった時代を再現して、8000形が牽く石炭列車には数輛ごとに制動手が乗車していた。プロトタイプは筑豊ではあるが中相知での石炭列車と重ねて見てしまい、牽引機を8550にお願いして相知炭坑駅からの石炭列車を想像する。遠い日の鉄道情景も模型で再現できることに感動した。またこれまで知らなかった炭車形式(鋼製テタ、手動制動器付フテタ等)や制動システムのこと(制動手が炭層の上に乗っているのは貫通ブレーキが整備される前)、車輛の変遷等が理解できるようになったのは収穫であった。 写真:大之島鉄道さん