転轍器

古き良き時代の鉄道情景

栄枯盛衰唐津線 岩屋

 岩屋駅北側のこの広い空地が気になっていた。画面右側から国道(今は山側に高規格道路ができて県道になっている)、駐車場、唐津線1線の岩屋構内、市営住宅(合併前の町営住宅)が並ぶ。

 唐津線唐津興業鉄道が唐津炭田の石炭を唐津港へ輸送するために建設された。岩屋は明治32(1899)年6月に西唐津から厳木まで開通した時に開業した。初めて駅前の国道を通った際は駅舎も無く往時の面影は何も感じられなかった。右に見えるスロープを上がるとホームに出る。

 ホームに立って相知方を見る。広い構内東側は縦断道路が作られて町営住宅が並んでいる(唐津市合併前は東松浦郡厳木町)。画面左側は道路を横切って炭鉱までの引込線もあったとのこと。駅は昭和46(1971)年11月に民間委託駅に、48(1973)年1月に無人駅となり、その後駅舎も解体されたようだ。

 住宅側の線路に沿った道路からホームを望む。線路が剥がされた跡を感じる寂しい空地が広がっている。岩屋炭鉱は明治以前から石炭は掘られていたとのこと。鉄道開通までは荷車で河口まで運搬、河舟で唐津港まで搬出されていた。

 駅横の広場から厳木側を見る。この空間にかつて石炭積込みのための巨大なコンクリート造りの貯炭ポケットがあったことを知る。

 同じ位置からふり返って相知側を見る。かつての岩屋構内は画面左、道路との境から右は住宅の建っている奥に厳木川が流れ、その淵まで広がっていたと思われる。

 厳木川に注ぐ小川に設けられた煉瓦の橋脚が残っている。左の道路橋は線路が剥がされた跡に架けられ、ヤード跡地は住宅地として整備された。

 国土地理院地図・空中写真閲覧サービス MKU643X-C11-17 昭和39(1964)年5月 唐津から

 岩屋炭鉱は岩屋駅のある厳木町相知駅のある相知町にかけて採炭エリアが広がっていた。岩屋駅は広い構内を有していたことがわかる。岩屋で組成されたセム・セラの編成は多久からの石炭列車に連結されるのか、それとも単独編成で大島へ運ばれたのだろうか。西唐津区の機関車が巨大ホッパーの下で石炭車の入換を行う光景を思い浮かべる。

 「各駅停車全国歴史散歩42 佐賀県(河出書房新社/昭和55(1980)年11月刊)」から

 広大な空地にあったコンクリート建造物の姿を見てみたい、の思いを抱き探し回って出会ったのが上記書籍である。『ホームに降り立って目を奪われるのは、巨大なコンクリート建造物、これはコールドビルと呼ばれる貨車積み込み用の貯炭ポケットだが、なまじ堅固につくられたばかりに壊すのにも金がかかると放置され、閉山15年の今日もむなしく残骸を虚空にさらしている』と記述され、過去への淡い郷愁とロマンを誘われる。

 多久駅東側に残っていた貯炭ポケットと比べると岩屋駅のそれは巨大さが桁違いに異なる。唐津線沿線の炭鉱は昭和30年代後半から40年代初頭にかけて閉山しているので、唐津線石炭輸送を捉えた写真は希少である。

 写真:H26(2014)/9/21 R3(2021)/11/23 R4(2022)/11/24 R5(2023)/2/1