転轍器

古き良き時代の鉄道情景

栄枯盛衰唐津線 岸嶽

 山本~岸嶽間4.1Kmは時刻表では唐津線の表記であったが、「岸嶽線」や「唐津線岸嶽支線」の呼称の方が分岐線なのでしっくりとくる。石炭産業の盛衰に翻弄され、蒸気動車も走った特異な線区であった。

 岸嶽線の気動車を捉えた貴重な写真と出会って感激した。サボは楷書体で駅名電略は「ヤモ」と記されている。サボは運転区所ではなく駅に所属するので山本駅の管理と思われる。キハ30は東唐津筑肥線管理所の車と思ったが、昭和44(1969)年と48(1973)年の配置表で探すとどちらも直方の記載で驚きであり意外であった。 岸嶽線岸嶽 S45(1970)/7

 美しいキハ30が1線だけになった岸嶽に停車している。運用は山本~岸嶽間8往復で、朝最後の仕業は岸嶽発東唐津行で車庫入り、午後再び東唐津発岸嶽行として夕方の仕業に就く。 キハ3024〔門カタ〕 岸嶽線岸嶽 S45(1970)/7

 岸嶽駅は明治45(1912)年1月に開業、駅のある北波多村は石炭搬出で大いに賑わった。昭和30年代からの相次ぐ炭鉱の閉山により人口は激減し、昭和46(1971)年8月20日に岸嶽線は廃止された。この年の年末は臼ノ浦線世知原線も同様に廃止されている。

 岸嶽線の手がかりはないかな、と思っていた矢先の岸嶽駅の写真はまるで願い事が叶ったようで歓喜雀躍した。何というモダンな駅舎だろうか。入口に貼られた「万国博記念回遊券」のポスターが時代を物語っている。 岸嶽線岸嶽 S45(1970)/7 

 写真は全て:小川秀三さん

 唐津興業鉄道が唐津港まで石炭搬出のため大島から山本、厳木、多久まで開通させたのは明治32(1899)年12月であった。この時はまだ岸嶽線は開通前で、北波多村の石炭は川舟とエンドレスと呼ばれる運炭軌道で山本駅まで運び、貨車に積替えていたと郷土誌に記されていた。岸嶽まで開通後は輸送量が増大し、唐津港送りとは別に、山本・久保田・早岐を経由して長崎までの搬出もあって、炭質の良さから船舶用だったのかもしれない。