転轍器

古き良き時代の鉄道情景

客車列車 昭和53年頃

 今振り返ると昭和53年頃は機関車の牽く客車列車は当たり前の時代、旧形客車だからと意識して撮るようなことはなかった。オハ35やオハ47等を連ねた客車列車は普通に走っていた。しかし九州はこの年から筑豊本線を手始めに50系客車が投入され、その後各地に新形客車は波及し合せて電車化・ディーゼル化も進んで旧形客車は数を減らしていくことになる。手元にある昭和53年10月号の時刻表と配置表から九州各地に残る客車列車を探ってみた。
 ED7627〔大〕の牽く門司港発大分行525レ 日豊本線宇佐~西屋敷 S53(1978)/9

 ■長崎本線鳥栖肥前浜間・諫早~長崎間

 長崎本線は全線通しの客車列車はすでになく、電化区間とはいえローカルは気動車列車で占められていた。電化前に肥前山口~長崎間に1往復の設定があった。夜行“ながさき”は肥前山口から諫早までは佐世保線大村線経由のかつての長崎本線のルートを辿っている。肥前浜以遠は夜行を除いて客車列車は皆無となっていた。肥前浜発の朝の輸送力列車は肥前山口から325レ折返し330レとして鳥栖行となり、肥前山口佐世保からの4330レを併結する。長い編成が朝の筑紫平野を走っていたのだろう。

 ■佐世保線肥前山口佐世保

 鳥栖佐世保間の客車列車は電化前と同じ2往復が残っていた。佐世保5:30発4330レは肥前山口肥前浜発と併結する。佐世保からと肥前浜からと機関車が2台となりそのまま重連鳥栖へ向かうのだろうか。牽引機は電気機関車だったのかDD51だったのかも気になるところ。DD51重連ブルートレインは誌上で目にしたが、普通列車はお目にかかっていない。
 佐世保鳥栖行430レのスジはその送り込みとして早岐佐世保行429レがあり、早岐佐世保間は佐世保発着列車と車輛基地間の回送があって往来の激しい区間であった。蒸機時代は機関車の連結位置や向き等趣味的におもしろい所で一度は行ってみたかった。

 ■大村線佐世保諫早

 大村線は夜行“ながさき”以外にかろうじて朝夕の輸送力列車が1往復運転されていた。蒸機時代は風光明媚な大村湾に沿って走る早岐のC57が牽引していた列車を思い浮かべる。早岐客貨車区には特急用14系の他にオハ46・オハフ45・スハフ42が配置されて、“ながさき”の佐世保編成や大村線運用を賄っていたものと思われる。

 ■唐津線佐賀~西唐津

 西唐津機関区の9600が受持っていた唐津線の客車運用は機関区の統廃合が進んだこの時は早岐機関区DE10の牽引で、佐賀に向けて朝だけの1往復が運転されていた。客車は「門ニシ」標記のオハ35・オハフ33・スハフ42が西唐津に配置され、この運用に充てられていた。佐賀はこの時高架化されて、DE10の客車編成は折返しの1時間は高架ホームで待機したのだろうか。復路の多久からの上り勾配はDE10でも苦しい上り坂にちがいない。

 ■筑肥線博多~東唐津

 伝統の博多~東唐津間の客車通勤通学列車が未だ残っていた。C11は昭和44年に姿を消し、以後香椎機関区のDE10が牽いていた。気動車列車中心の筑肥線を走る機関車牽引列車は、都市化の進む福岡市街と松浦川に面したヒカラ標記の気動車で賑わう東唐津構内ではひときわ目立つ存在であったにちがいない。往年の写真を見ると8輛編成で運転されていたようだ。筑前箕島から博多構内へ駆け上がる坂はかなり急勾配だったように思う。

 ■鹿児島本線鳥栖~熊本間

 鹿児島本線門司港鳥栖間は2往復の筑豊本線乗入れ以外客車列車は皆無であた。鳥栖~熊本間にかろうじて2往復見つけることができた。時刻表から推察すると運用は次のようになる。6:10熊本発120レー鳥栖8:17着10:06発133レー西鹿児島18:47着ヨ6:41発130レー熊本12:37着13:15発132レー鳥栖15:37着17:16発143レー熊本19:28着。WEB上でこのスジを渡瀬や銀水で記録された写真は何れもED76重連の牽引であった。ちなみに鹿児島本線の長距離鈍行はこの鳥栖西鹿児島行133レが288.5Kmで最長、次いで鹿児島発熊本行130レが201.9Km、八代発西鹿児島行135レが163.0Kmであった。

 ■鹿児島本線熊本~鹿児島間

 鹿児島本線も熊本以南になると客車列車は俄然多くなり、八代、出水が運用中継点に見える。その中の区間列車が興味深い。水俣~出水間1047レは荷物列車に旅客車をつないで空白の時間帯を有効に使っている。休日運休の佐敷行2129レは片道運行で学校がらみだろうか。朝の通勤通学伊集院発は電化以前から続く運用で日豊本線間合いのDF50が使われていたことがある。普通客車の配置区は鳥栖・熊本・八代・鹿児島でこの時期さすがに60系は姿を消し、一部体質改善工事済車を含めたオハ35系・スハ43系・ナハ10系が揃っていた。

 上りの荷物列車利用は川内から八代までと距離も長い。旅客車はたぶん始発の鹿児島から連結して川内から八代まで客扱いを行い(八代1:07着)、ここで解放、今度は下り荷1047レに連結して(八代5:03発)水俣~出水間で客扱いを行った後締切扱いで鹿児島へ戻るのではないだろうか。朝の伊集院発は前夜の最終2142レで伊集院滞泊のようだ。川内朝一番の126レは折返しがないので前夜の川内終着2138レがそのまま熊本へ上って行くのであろうか。

 ■日豊本線門司港~大分間

 新幹線博多開業前は門司港から柳ヶ浦・宇佐へ向かう客車列車は5本あって、夜の柳ヶ浦構内は夜間滞泊の客車列車が並ぶ壮観な光景を見ることができた。その後は電車に置換えられて様相は一変した。伝統の宇佐・田川線方面行の行橋分割列車は蒸機時代から続いている。

 下りの宇佐・後藤寺行はどういう訳か上りは後藤寺からの単独列車になっていた。後藤寺からの6輛編成は行橋で4~5輛増結されていたものと思われる。2422レと520レはこの後50系に置換えられ、国鉄時代末期はED76が牽く11~14輛の「豊前路を行く長大編成のレッドトレイン」として話題となった。旧形客車の時代はそれが当たり前の日常で顧みることなく、50系時代になって慌てた時にはもうあの汽車の代名詞的な「旧形客車」は過去のものとなっていた。

 ■日豊本線田川線日田彦山線門司港~後藤寺間

 田川線の朝夕の後藤寺発着列車はC11の時から行橋で分割併合し日豊本線内は宇佐発着列車と2個列車で走っていた。晩年は9600が牽きDL化でDE10が引継ぎスジは連綿と続いていた。走行線区は鹿児島・日豊・田川・日田彦山線にまたがっている。

 ■日豊本線大分~宮崎間

 佐伯以南はまだ普通列車に電車はなく、一部区間列車の気動車を除き客車列車時代は続いていた。その後電車急行の全廃に伴って475系3連が普通列車として運用されるようになる。別府発南延岡行2525レは大分からの回送と機回しが必要になる。延岡発南宮崎行531レは前日の南宮崎発延岡行538レの折返しで、回送は機関車だけかと思われる。

 日豊本線のキロ程は門司港~大分144Km、大分~宮崎207Km、宮崎~西鹿児島125.9Kmで全線(門司港~小倉含む)476.9Kmである。この間を走る走行距離の長い、いわゆる長距離鈍行は以下のようになる。(1)351.0km/宮崎発門司港行534レ、(2)332.9Km/大分~西鹿児島間537レ・532レ、(3)192.1Km/佐伯発都城行539レ。

 ■日豊本線宮崎~鹿児島間

 この区間は宮崎機関区に籍を置く22輛のDF50が活躍していた。清武と山之口の間の青井岳をサミットとする山越えと財部から国分にまたがる日豊本線最高地点を擁する霧島越えの難所がある。客車は以前宮崎にも配置されたいたが、この時は都城に集約されたようだ。隼人からは肥薩線列車が乗り入れて、DF50とDD51が見られる貴重な区間であった。DD51には縁のなかった日豊本線は北は日田彦山線乗入れで城野まで、南は肥薩線乗り入れがあったことがおもしろい。

 上りの国分・吉松行2548レはかつての蒸機時代、西鹿児島からのC57は編成の後半を残して発車、待機していたC55が残りの客車を牽いて肥薩線へ歩を進めていた。この時はC57がDF50にC55はDD51に、ということになろうか。上りは都城中継は無く、西鹿児島から宮崎行と下り同様大分と門司港行だけの設定であった。都城は郵便荷物車以外の座席車56輛配置の内、ナハ10・11、ナハフ10・11がその約半数を占めて、かつての対本州急行列車受持区の名残りを感じる。

 ■吉都線都城~吉松間

 吉都線は全線2往復が健在で、牽引機は宮崎機関区のDF50とDE10が使われていた。早朝の小林発吉松行681レは列車番号から貨物列車に客車をつないだ準混合列車と思われる。蒸機時代、朝霧の小林盆地を行くC55の牽く混合列車の画が思い浮かび、この頃からのスジが続いているのであろう。

 ■肥薩線八代~隼人間

 肥薩線は八代~人吉、人吉~吉松、吉松~隼人で運転系統が異なり、吉松は都城から、鹿児島からも乗入れがあったので客車運用は八代・人吉・都城・鹿児島の受持ちがあったかもしれない。人吉~吉松間混合列車に使われたダブルルーフのスハフ32が有名であったが、この時期は八代客貨車区にオハユニ61が、人吉支区にオハフ33が配置されてさすがのフハフ32は姿を消していた。

 鉄道ピクトリアル誌に掲載された「客車列車の編成記録」に肥薩線を見つける。年代は少し古いが味わってみたい。人吉と吉松、都城のスハ32系やオハ60系で運用されていたことがわかる。
昭和36年7月吉松駅で/吉松発人吉行816レ/D51572〔人〕(1)スハ32791〔熊ヒト〕(2)オハフ3013〔鹿ヤコ〕(3)スハ32574〔鹿ヤコ〕(4)オハニ61271〔鹿ヤコ〕(5)オハユ619〔鹿ヤコ〕
●昭和34年鹿児島駅で/鹿児島発八代行814レ/C51141〔吉〕(1)オハフ61100〔熊ヒト〕(2)オハ61943〔熊ヒト〕(3)オハニ61191〔熊ヒト〕以上八代行/(4)オハフ61237〔鹿ヨマ〕(5)オハ61555〔鹿ヨマ〕(6)オハニ61193〔鹿ヨマ〕以上吉松行

 ■久大本線鳥栖~大分間

 客車は主に大分受持ちで豊後森までは鳥栖のナハ11が入った編成が来ていたのを見たことがある。昭和54年から大分に50系が投入され始め、日豊本線豊肥本線と置換えが始まり、久大本線が50系化されたのは55年11月であった。荷物輸送のオハニ61はその後廃車期限を迎え、日豊本線の夜行“日南4号”が20系+12系に衣替えした際にオハニ36が大分へ移動し久大本線で運用された。

 D60の時代と基本的には変わっていない時刻表である。大分発由布院行644レは翌朝由布院鳥栖行626レで西進する。由布院に転車台がなかったなごりを感じる運用である。豊後森発大分行623レは湯布院から客車9輛、鳥栖発大分行641レは日田まで10輛編成で圧巻であったと思う。豊後森発日田行638レのスジはかつての機関車回送もかねた混合列車で客車は2輛の運用であった。

 ■豊肥本線豊後竹田~大分間

 豊肥本線ディーゼル化の後、大分口2往復、熊本口に1往復残った客車列車は熊本~宮地往復は気動車に置換わり、大分~豊後竹田往復は1往復がまだ健在であった。この時点では廃車となっていた1等車改造のオハ41が大分に居て、車体全部がロングシートの車輛がつながれていたのが印象的であった。旧形客車の編成は昭和54年3月までで以後50系に置換わってしまった。

 ■筑豊本線若松~原田間

 客車列車本数は若松4、門司港2、直方飯塚6、原田4の割合は新幹線博多開業の昭和50年3月からと変わっていない。昭和47年3月改正以前は若松7、門司港3、直方飯塚9、原田7と圧倒的な数を誇っていたが以降気動車化で急激に減少した。若松はオハ35・オハフ33・オハフ61の茶色ばかりの配置からナハ11・オハ46・スハフ42等、青い客車が多くなっていた。

 昭和53年3月31日現在の配置表は門司港運転区にオハ50-16、オハフ50-20輛が記載され、九州ではいち早く筑豊本線上山田線に50系客車が走るようになっていた。この時は若松受持ちの列車と香月線乗入れ以外は50系で運転されていたものと思われる。

 ■鹿児島本線門司港~黒崎間

 筑豊本線列車門司港乗入れは2往復が健在であった。架線下をDD51が牽く「原田行」のサボを掲げた旧形客車往年の姿は若松機関区のC55やD50の時代を思い起こす。

 ■上山田線飯塚~上山田間

 上山田線朝の客車列車はC55やC11、D60の時代をそのまま引継いでいるように見える。新飯塚発着も含めた朝の3往復は機関車が2輛必要になる。上山田発朝1番4720レは飯塚で原田発門司港行2820レに併結されて筑豊本線を北上する。

 ■香月線折尾~香月間

 石炭輸送最盛期は中間と新手の間は筑豊本線につながる貨物2線と旅客1線の3線が敷かれていた。香月近くの炭鉱は昭和43年頃閉山となって貨物輸送は激減し、8620が細々と客車列車を牽く路線へと変わってしまった。
 この時の運用はDE10が若松から4輛編成を回送で香月へ運ぶ。120レ→123レ→122レ→125レ→124レの順に香月線を2往復して折尾に戻り、折尾から若松まで回送で戻る。若松はオハ46やオハフ33等20輛が配置されていた。

 ■室木線遠賀川~室木間

 筑豊本線は二島と折尾の間にあった本城信号場から鹿児島本線折尾の水巻寄りにつながる短絡線があった。若松から室木線運用の列車が通るのはもちろん、若松工場への通路にもなっていた。この時期の客車は茶色より青色が多くなっていた。日に6往復の運用は4輛編成1本でこと足りるが、客車検査交代の場合は始発終着時もしくは日中の間合い時間に若松へ出入りするスジが引かれているのかもしれない。

 ■勝田線吉塚筑前勝田間

 石炭搬出で賑わった勝田線は粕屋炭田の閉山が早く、昭和40年代初めには閑散路線へと様変わりしていた。筑豊の支線よりも早くDE10が投入され、客車は4輛編成であったがこの時は3輛になっていた。香椎線酒殿から勝田線志免には短絡線があって石炭輸送、特急編成の方向転換、自動車輸送と話題豊富な気になる路線であった。

 昭和53年10月時点で九州内の客車列車は18線区、197本が運転されていた。鹿児島・長崎・佐世保・大村・唐津・筑肥・日豊・久大・豊肥・肥薩・吉都・筑豊・田川・日田彦山・香月・上山田の各線である。以前走っていた線区は伊田添田・宮田・松浦・高森・細島・古江・指宿枕崎の各線があった(昭和43年頃)。

 DE10の旧形客車5輛編成は豊後森発大分行2635レ 久大本線賀来~南大分 S53(1978)/11