転轍器

古き良き時代の鉄道情景

スカ色のクモハ73 御殿場線

 クモハ73の顔はバラエティ豊かで楽しい。前面窓は形状と窓枠、傾斜の有無、前照灯の位置(幕板埋込み・屋根上)、方向幕・運行窓・通風器の有無、雨樋・パイピングと枚挙にいとまがない。この編成は両端クモハ73、中2輛がサハ78のようで、2輛めは3段窓の古いハコに見える。御殿場線の73系は昭和43年の電化から54年の引退まで11年間活躍した。 クモハ73024〔静ヌマ〕 国府津 S51(1976)/2/7

 国府津駅御殿場線ホームは東海道上下線の間に挟まれ、電照式案内板は「3番線/松田・山北・御殿場・沼津方面」と表示されている。国府津側の顔は沼津側と窓配置は同じだがウインドシル・ヘッダーが巻かれて印象が異なる。パンタグラフの横桟が交差しなくて並行なタイプはPS13と思い込んでいる。パンタ引込線が無くすっきりとした顔に見える。 クモハ73359〔静ヌマ〕 国府津 S51(1976)/2/7

 「鉄道模型趣味264」昭和45年6月号の表紙で旧形国電の存在を意識したのではないかと思う。当時は私の周りの鉄道車輛の色と言えば蒸気機関車や貨車の黒、客車の青色・茶色、ディーゼル機関車気動車の朱色、電車は421系のあずき色位しか縁がなかった。旧形国電とは各地でこんなにもカラフルなのかと大きな驚きであった。巻末の表紙写真説明によって私の視野と興味の幅が広まったのは言うまでもない。一番親しみを覚えたのはやはり気動車色の仙石線であった。ちなみに上段左から新潟クハ76・大糸線クモハ60・御殿場線クモハ73・片町線クハ79、下段左から飯田線クモハ54・新潟クハ75・阪和快速クハ76・仙石線クモハ73・仙石線クモハ54。残念ながら写真は撮れなかった列車から見ただけの呉線可部線の広島色、福塩線スカイブルー、東海道・山陽緩行線のぶどう色、直江津新潟色が目に浮かぶ。

筑豊本線 遠賀川橋梁の両岸

 若松発直方行気動車列車は遠賀川を渡って直方平野を南下する。複々線の線路は中間から先は複線となる。石炭輸送全盛期の筑豊本線は折尾から中間まで複々線、中間から筑前植木までは複線+単線の3線区間であったことを知る。 筑豊本線筑前垣生~筑前植木 S47(1972)/8/11

 D50140〔直〕がセキ6000の石灰石返空編成を牽いて迫って来る。中間から筑前植木までの複線に1線増設されたのは大正12年で両側が複線、中線が単線で使われたらしい。昭和29年頃に1線撤去され複線に戻された歴史がある。手前の線路は香月線。 筑豊本線中間~筑前垣生 S47(1972)/8/11

 若松機関区のC55は激減し、旅客列車は新しいナンバーのD51が牽引することが多くなった。3線が敷かれていた時代は画面右下に見える香月線も新手辺りから3線構造となり、若松へ向かう石炭列車は筑豊本線をアンダークロスして中間構内西側の筑豊本線上り線と接続する貨物最優先でレイアウトされていた。 筑豊本線中間~筑前垣生 S47(1972)/1/6

 DD51764〔直〕の牽くセメントクリンカ専用ホキ6800編成が遠賀川橋梁上り線を行く。上下線の間隔が広く、この間にかつての線路跡と煉瓦の橋脚が残っていた。上り線はかつての3線の外側(下流側)にコンクリート橋で架け替えられたようだ。 5292レ 筑豊本線中間~筑前垣生 S47(1972)/8/11

 トラス橋の下り線を行く返空編成は遠賀川左岸、筑前垣生寄りで撮る。筑豊本線中間~筑前垣生 S47(1972)/8/11

 DD51763〔直〕が返空セラを従えて筑前垣生駅を通過する。遠く遠賀川の向こうに中鶴炭鉱のボタ山が見える。 1690レ 筑豊本線筑前垣生 S47(1972)/8/11

 3線から1線撤去されて複線化の際は遠賀川橋梁では上り線が、筑前垣生~筑前植木間では中線が撤去されたと聞く。上下線間の開きはその名残りであろうか。 筑豊本線筑前垣生~筑前植木 S47(1972)/8/11

 初めて筑豊本線に乗車した時、上り列車から筑前垣生手前でシャッターを押していた。手ブレで見づらい写真ながら確かに上下線の間にもう1線分の用地が実感できる。この時の牽引機はC5551〔若〕であった。 1734レ 筑豊本線筑前垣生~筑前植木 S45(1970)/8/3

 筑前垣生駅でもう1カット撮っていた。駅の前方に見える遠賀川橋梁は上下線ともトラス橋なのがわかる。上り線は昭和45年の時はトラス橋で、47年訪問時はコンクリート橋になっていたのでこの間に架け替えられたものと思われる。 筑豊本線筑前垣生 S45(1970)/8/3

  「石炭列車と筑豊の鉄道 複線・三線複々線」(鉄道友の会九州支部資料/大塚孝著/平成10年4月)によると、 3線時代の運転形態は下り線が貨物(石炭)と旅客の一部、中線(単線)は上下旅客と貨物(石炭)の一部、上り線は貨物(石炭)との事であった。3線時代の筑前垣生駅の線路配置は上り線にホームは無く、単線の中線と下り線でホームを挟んでいた。中線が撤去された際は駅部分は外側の上り線が撤去された形となり、現上り線外側の空地はその名残りではないかと想像する。写真からは駅舎とホームの間は2線分の間隔が感じ取られる。

 D51206〔若〕は鹿児島電化の昭和45年10月、出水から若松にD50の後継機として転属している。筑豊本線は本来D51は入っていなかったが、D50とD60の検査切れで各地からD51を迎え入れなければならなかった経緯がある。 8653レ 筑豊本線筑前垣生~筑前植木 S47(1972)/8/11

 かまぼこ形ドームのD511064〔若〕は若松工場で出場した貨車の試運転運用に就いていた。筑豊本線では営業の貨物列車とは別にぴかぴかの出場貨車を連ねた試運転列車が魅力であった。 試8752レ 筑豊本線筑前垣生~筑前植木 S47(1972)/8/11

 セキ6000群+セラ1群+ホキ8000群の石灰石編成は船尾発の後藤寺線糸田線伊田線筑豊本線鹿児島本線ルートの専用列車である。直方から先の牽引機は9600・D50・D51D60と何れが来ても絵になる列車であった。威風堂々一番人気のD5110〔直〕と会えたのは幸運であった。 8592レ 筑豊本線筑前垣生~筑前植木 S47(1972)/8/11

大分交通宇佐参宮線

 宇佐参宮鉄道は官設鉄道宇佐駅を挟んで宇佐神宮のある宇佐町と周防灘に面する高田町を結び、大正5年3月1日に開業した。大分交通宇佐参宮線となったのは、国東・宇佐参宮・耶馬渓・豊州の各鉄道を合併した別府大分電鉄が大分交通として商号変更した昭和20年4月からである。大分交通は鉄道・軌道線合わせて100Km以上の路線を持つ大私鉄であったが、たび重なる災害やモータリゼーションの進展によって宇佐参宮線は昭和40年8月20日に廃止された。

 宇佐から宇佐八幡へ行く線路は大きな弧を描く築堤で日豊本線と国道10号線を乗り越していた。廃止から13年経っていたが築堤の橋脚だけが残っていた。トラスビーム架線柱が橋脚よりも高く見えるのは、複線電化の際に路盤が嵩上げされたのではないだろうか。 日豊本線宇佐~西屋敷 S53(1978)/9

 宇佐参宮線の線路の築堤だけ撤去され、国道と日豊本線を跨ぐ橋脚は取り残されていた。画面左が宇佐構内、右が立石峠方で日豊本線と国道10号線は並走する。 日豊本線宇佐~西屋敷 S53(1978)/9

 宇佐参宮線宇佐神宮参拝で乗ったことがある。小学校低学年の頃ではっきりとした記憶はないが終点の駅は広く車輛がたくさん停まっていた印象が残っている。父親が遺した人物ばかりのネガの中に1枚だけ宇佐駅下りホームの構図(昭和39年1月頃)があった。画面右の宇佐参宮線から日豊本線下り列車に乗り換える際のスナップと思われる。カメラを右に振れば「宇佐神宮へ」を掲げる社の形の待合室と、黄色と緑の大分交通カラーの気動車が写っていたであろうと気持ちが逸る。おぼろげな宇佐参宮線への思いを語りたく、現役時代の写真を北九州市の加地一雄さんにお借りした。

 「宇佐八幡行」のサボを掲げたキハ502“みやばと”が急カーブで宇佐構内に入ってきた。扉が開いているのに驚く。行き違い線が収束する辺りに転轍小屋が見える。キハ502は宇佐参宮線廃止後中津へ移り、エンジンを降ろしてホハフ502となる。 宇佐 S40(1965)/1/15 撮影:北九州市 加地一雄さん

 宇佐参宮線のホームは宇佐神宮を模した上屋が独特であった。「豊後高田行」サボを付けたキハ503“かみばと”は前面3枚窓で運転席のひさしが精悍な顔つきを作っている。ホームに積まれた荷物は国鉄線への積換えだろうか。国鉄大分交通の渡り線が見える。 宇佐 S40(1965)/1/15 撮影:北九州市 加地一雄さん

 DTD編成は宇佐を出ると大きな弧を描いて18.2‰の勾配を上り、日豊本線と国道10号線を乗り越す。大勢の参拝客がハニフのデッキにあふれている。 キハ502+ハニフ114+キハ503 宇佐~橋津 S40(1965)/1/1 撮影:北九州市 加地一雄さん

 客車長大編成はL形ディーゼル機D21とD22のプッシュプル運転のようだ。D21は昭和28年製で国東線から移動、D22は昭和30年製でこの2輛とDL化後も温存されたクラウスBタンク26(形式10)で国鉄乗入れ列車に備えたと聞いた。この位置は画面右側に国道10号線の桜並木が通り、線路跡を偲ぶことができる。 宇佐高校前~宇佐八幡 S40(1965)/1/1 撮影:北九州市 加地一雄さん

 神社のような造りの宇佐八幡駅舎は門前町にふさわしい佇まいの味のある雰囲気が漂う。広いホームと貨物上屋の側線、振り返れば留置線や車庫が並び、8.8Kmの路線にしては規模の大きい車輛基地を備えた終着駅ではないだろうか。私のかすかな記憶を呼び覚ましてくれた宇佐八幡の情景に陶酔している。 宇佐八幡 S36(1961)/8/28 撮影:北九州市 加地一雄さん

 宇佐付近の国道10号線を通るたびに古き良き時代に思いを馳せていた。宇佐参宮線が輝いていた鉄道情景を堪能することができ、貴重な記録を提供いただいた加地一雄さんに感謝申しあげます。

101系・103系 非冷房の頃

 目黒付近の地形は都会とは思えない深い谷があった。わざわざ山手線の103系を撮りに来たのではなく、掘割のような低い位置を通る貨物列車が目当てであったが、うぐいす色の電車しかやって来なかった。目黒を出て恵比寿へ向かう編成は貨物線をオーバークロスする。前方にエビスビールの工場と煙突が見える。パンタグラフのあるモハ103のナンバーはモハ103-914と読める。 山手線目黒~恵比寿 S49(1974)/7

 冷房と非冷房編成がすれちがう。手前は先頭がATC準備の高運転台で側面端部に行先表示幕が備えられている。モハ103のナンバーはモハ103-357で、新製時からの冷房装置取付車とのこと。 山手線目黒~恵比寿 S49(1974)/7

 振り返るとこの構図。内回りの電車は近代的な顔に見える高運転台のクハ103だ。当時、同一編成で前後数輛が冷房車、中間は非冷房車で組まれている場合があった。山手貨物線は旧形電機の牽く貨物列車の他にクモニ13の荷電、荷台に車軸を積んだクモル・クルのコンビの配給電車も見たことがある。画面右側奥からは目蒲線の複線が崖を伝うように敷かれていたのが印象的風景として記憶に残る。 山手線目黒~恵比寿 S49(1974)/7

 EF10とEF12の牽く貨物列車の向こうはグローブ形ベンチレーターが並ぶ非冷房の103系が通る。武蔵野線根岸線が開業した昭和48年頃から山手線に新形冷房車が投入され、冷房化率は少しずつ上がっていった模様。 山手線大塚~巣鴨 S49(1974)/7/21

 手前の柱で台無しの写真だが、先頭車にパンタグラフが付いていたので自分としては貴重な記録ではないかと掲載した。「桜木町」を出したスカイブルーのクモハ103京浜東北線用7+3の編成を組むのに誕生したらしい。2基の出発信号機は京浜東北線、山手線それぞれの線からこの先田町まで双方の線に入れる標記がなされている。 田端 S49(1974)/7/21

 駒込と田端の間は台地に上がって山越えの様相を呈する。旅客線は切通しを抜けて、貨物線はトンネルで崖の東側へ出る。東側は低地となり京浜東北線、田端操車場へと合流する。非冷房の内回りと外回り電車、東北本線側からの貨物列車が同時に画面に納まった。 山手線駒込~田端 S49(1974)/7/21

 根岸線が全通して間もない頃の本郷駅から大船行を撮る。編成は103系8輛編成のように見える。 根岸線本郷台 S49(1974)/8

 この頃の南武線は旧形から新性能電車へ移行する最中であったと思われる。カナリアイエローの101系とぶどう色の73形が並んでいる。 中原電車区 S49(1974)/4

 まるで地方都市の駅の雰囲気が漂う総武本線西千葉駅。古い跨線橋や木製架線柱、枕木柵等のストラクチャーと101系電車との対比がアンバランスに映る。 西千葉 S51(1976)/2/25

 多摩川を渡る103系スカイブルーの4輛編成。風前の灯となった旧形国電を撮りに来た時に103系にもカメラを向けていた。 五日市線熊川~東秋留 S52(1977)/12/2

 五日市線は当初京浜東北線で捻出されたスカイブルーの103系で運転され、その後オレンジに塗り替えられていったようだ。 五日市線熊川~東秋留 S52(1977)/12/2

 当時、新性能通勤電車に惹かれることはなかったが、今振り返るとあの時代の当たり前な景色を切りとっておいて良かったと痛感している。何の意識もなくスナップした構図は不思議なくらい冷房装置が屋根に載せられる前の編成ばかりであった。オレンジバーミリオンの快速電車が高架のホームに入って来たある朝の日常を捉えていた。 中央本線高円寺 S53(1973)/2

北千住から乗った旧形電車

 カーラジオから流れてきた曲の「北千住駅のプラットホーム」の歌詞が耳に留まり、何という曲だろうかと後の検索で“あいみょん”の「ハルノヒ」を知った。と同時に遠い青春時代、北千住駅から吊り掛け電車に乗ったことを思い出す。常磐線東武伊勢崎線営団地下鉄日比谷線、千代田線が集まる魅惑の鉄道地帯であったにもかかわらず北千住では撮影していない。「ハルノヒ」のワンフレーズは忘れていたこのワンショットを想起させられた。 東武伊勢崎線松原団地 S53(1978)/2

 東武伊勢崎線は北千住から松原団地まで乗車した。竹ノ塚までは複々線で、当時私鉄の複々線としては関西の京阪電鉄に次いで2番めに長い距離と報じられていた。外側が急行線、内側が緩行線でまるで国鉄線を走っているような錯覚に陥る。走る電車から見える煙突の数が変わる「お化け煙突」の話はこの時知っていたか、後になって知ったかは定かではない。東武鉄道営団日比谷線の都心乗入れによって沿線の田園地帯は住宅団地へ変貌し沿線人口は急激に増加、その混雑解消を図るべく複々線化が早くに計画されたとのことであった。

 北千住までどのような経路を辿ったのだろうか。景色を眺めながら地上を行くのが恒例だが、中央・総武本線のバイパス路線も乗っておきたいと中野から営団地下鉄東西線で地下に入り、東武鉄道と相互乗入れを行う日比谷線茅場町で乗換えたものと思われる。中野は中央快速線を外側にして緩行線の間に東西線が割り込む複雑な線路配線であった。国電乗換えの高田馬場飯田橋、大手町では地上との連絡が気になっていた。ステンレス色にブルーの帯をまとった営団5000系は国鉄形フェイスに似て好感の持てる顔であった。中央本線高架線はオレンジとカナリアイエローの編成の他にステンレス色をした地下鉄乗入れ編成とまれに見るアルミカーと呼ばれた編成と行き会うこともあった。

 茅場町から日比谷線の人となる。地下線では車窓は楽しめないかわりに暗闇の中、渡り線や折返しY線の存在、むき出しの信号機の形状などを観察していた。三ノ輪の先は急坂を登るように地上に出て高架線となって視界が開け、浅草からの東武線と合流して北千住へ降りて行くような印象が残っている。今となっては隅田川のヤードとそのとなりの車輛基地が見えていたかどうかは記憶に残っていない。当時の感性ではこの日比谷線の電車は良い顔とは思えずあまり好きになれなかった。でも「マッコウクジラ」の愛称はとても良く言い当てていると感心する。中目黒の引上げ線で待機する姿や方向幕「日吉」を出して東急東横線を疾走する光景はよく見かけたものだ。