転轍器

古き良き時代の鉄道情景

北千住から乗った旧形電車

 カーラジオから流れてきた曲の「北千住駅のプラットホーム」の歌詞が耳に留まり、何という曲だろうかと後の検索で“あいみょん”の「ハルノヒ」を知った。と同時に遠い青春時代、北千住駅から吊り掛け電車に乗ったことを思い出す。常磐線東武伊勢崎線営団地下鉄日比谷線、千代田線が集まる魅惑の鉄道地帯であったにもかかわらず北千住では撮影していない。「ハルノヒ」のワンフレーズは忘れていたこのワンショットを想起させられた。 東武伊勢崎線松原団地 S53(1978)/2

 東武伊勢崎線は北千住から松原団地まで乗車した。竹ノ塚までは複々線で、当時私鉄の複々線としては関西の京阪電鉄に次いで2番めに長い距離と報じられていた。外側が急行線、内側が緩行線でまるで国鉄線を走っているような錯覚に陥る。走る電車から見える煙突の数が変わる「お化け煙突」の話はこの時知っていたか、後になって知ったかは定かではない。東武鉄道営団日比谷線の都心乗入れによって沿線の田園地帯は住宅団地へ変貌し沿線人口は急激に増加、その混雑解消を図るべく複々線化が早くに計画されたとのことであった。

 北千住までどのような経路を辿ったのだろうか。景色を眺めながら地上を行くのが恒例だが、中央・総武本線のバイパス路線も乗っておきたいと中野から営団地下鉄東西線で地下に入り、東武鉄道と相互乗入れを行う日比谷線茅場町で乗換えたものと思われる。中野は中央快速線を外側にして緩行線の間に東西線が割り込む複雑な線路配線であった。国電乗換えの高田馬場飯田橋、大手町では地上との連絡が気になっていた。ステンレス色にブルーの帯をまとった営団5000系は国鉄形フェイスに似て好感の持てる顔であった。中央本線高架線はオレンジとカナリアイエローの編成の他にステンレス色をした地下鉄乗入れ編成とまれに見るアルミカーと呼ばれた編成と行き会うこともあった。

 茅場町から日比谷線の人となる。地下線では車窓は楽しめないかわりに暗闇の中、渡り線や折返しY線の存在、むき出しの信号機の形状などを観察していた。三ノ輪の先は急坂を登るように地上に出て高架線となって視界が開け、浅草からの東武線と合流して北千住へ降りて行くような印象が残っている。今となっては隅田川のヤードとそのとなりの車輛基地が見えていたかどうかは記憶に残っていない。当時の感性ではこの日比谷線の電車は良い顔とは思えずあまり好きになれなかった。でも「マッコウクジラ」の愛称はとても良く言い当てていると感心する。中目黒の引上げ線で待機する姿や方向幕「日吉」を出して東急東横線を疾走する光景はよく見かけたものだ。