転轍器

古き良き時代の鉄道情景

栄枯盛衰唐津線 笹原峠

 久保田と西唐津を結ぶ唐津線筑紫山地の西端に沿って走り、多久と厳木の間に立ちはだかる笹原峠は難所であった。サミット手前の笹原トンネルは石炭輸送の増加を見込んで複線断面で掘られている。

 多久を出た下り西唐津行は国道203号線を乗り越すと、笹原トンネルまで19.2‰の上り勾配が続く高さのある築堤を踏みしめて登る。 727レ 唐津線多久~厳木 S48(1973)/8

 県庁所在地へ向かう朝の客車編成の輸送力列車は大概の線区ではその日の夕方に折返す場合が多いが、唐津線の場合は西唐津発佐賀行の朝の通勤通学列車は佐賀到着後直ちに折り返して西唐津に戻り、日に1往復の客車列車は午前中で終わりとなる。

 パイプ煙突の39659〔唐〕が客車7輛を従えて多久を発車する。緩やかな下り坂を小城、久保田と進み、長崎本線に出て一路佐賀を目指す。下りホームは佐賀発西唐津行朝2番の気動車列車が見える。上り722レ7:19発、下り723D7:21発。 唐津線多久 S48(1973)/8

 撮影時の722レ→727レはこのスジであった。唐津線は昭和30年代初頭には旅客列車は全て気動車で運用されていた。朝1往復の客車列車はいつ頃から走り出したのであろうか。手持ちの時刻表で調べてみると昭和42(1967)年9月号で西唐津→佐賀間片道だけの726レを発見。翌43(1968)年10月号で726レ→727レ西唐津~佐賀間往復を見出すことができた。一時的な増発のようにも見えるが、その後客車列車は継続のまま列車本線は削減されている。

 79601〔唐〕の牽く下り貨物列車。重たいホキやタキを従えているがは補機は付いていない。 唐津線多久~厳木 S48(1973)/8

 唐津線は撮影後の昭和48(1973)年8月28日を持ってDL化され、西唐津機関区10輛の9600は検査期限のある半数が行橋と後藤寺へ移り、残りは廃車され、唐津線蒸気機関車の歴史に幕をおろした。

 写真5点:大森工場さん

 多久駅は都会的な橋上駅に変身、駅周辺も整備されてかつての面影を感じることはできなくなった。笹原峠への築堤は昔のままで、多久を出て右曲線を経て跨道橋を渡った辺りから上り勾配が始まる。画面右が多久駅方、左が厳木方で多久駅上り遠方信号機が建っている。 多久西方500m付近 H30(2018)/10/7

 国鉄難読駅名の十指に数えられる厳木(きゅうらぎ)駅は千鳥配置のホームで構内の有効長は長い。上りホーム先端はかつてスロープがあって、本屋側改札口へ渡る平面横断通路があった。また写真中央の電柱辺りに給水スポートと火床整理で灰を落とすアシュピットも設けられていた。それらの設備は時代と共に姿を消したが、構内脇に鎮座する赤煉瓦の給水塔は鉄道遺産として大切にされている。
 厳木 H20(2008)/5/13

栄枯盛衰唐津線 岩屋

 岩屋駅北側のこの広い空地が気になっていた。画面右側から国道(今は山側に高規格道路ができて県道になっている)、駐車場、唐津線1線の岩屋構内、市営住宅(合併前の町営住宅)が並ぶ。

 唐津線唐津興業鉄道が唐津炭田の石炭を唐津港へ輸送するために建設された。岩屋は明治32(1899)年6月に西唐津から厳木まで開通した時に開業した。初めて駅前の国道を通った際は駅舎も無く往時の面影は何も感じられなかった。右に見えるスロープを上がるとホームに出る。

 ホームに立って相知方を見る。広い構内東側は縦断道路が作られて町営住宅が並んでいる(唐津市合併前は東松浦郡厳木町)。画面左側は道路を横切って炭鉱までの引込線もあったとのこと。駅は昭和46(1971)年11月に民間委託駅に、48(1973)年1月に無人駅となり、その後駅舎も解体されたようだ。

 住宅側の線路に沿った道路からホームを望む。線路が剥がされた跡を感じる寂しい空地が広がっている。岩屋炭鉱は明治以前から石炭は掘られていたとのこと。鉄道開通までは荷車で河口まで運搬、河舟で唐津港まで搬出されていた。

 駅横の広場から厳木側を見る。この空間にかつて石炭積込みのための巨大なコンクリート造りの貯炭ポケットがあったことを知る。

 同じ位置からふり返って相知側を見る。かつての岩屋構内は画面左、道路との境から右は住宅の建っている奥に厳木川が流れ、その淵まで広がっていたと思われる。

 厳木川に注ぐ小川に設けられた煉瓦の橋脚が残っている。左の道路橋は線路が剥がされた跡に架けられ、ヤード跡地は住宅地として整備された。

 国土地理院地図・空中写真閲覧サービス MKU643X-C11-17 昭和39(1964)年5月 唐津から

 岩屋炭鉱は岩屋駅のある厳木町相知駅のある相知町にかけて採炭エリアが広がっていた。岩屋駅は広い構内を有していたことがわかる。岩屋で組成されたセム・セラの編成は多久からの石炭列車に連結されるのか、それとも単独編成で大島へ運ばれたのだろうか。西唐津区の機関車が巨大ホッパーの下で石炭車の入換を行う光景を思い浮かべる。

 「各駅停車全国歴史散歩42 佐賀県(河出書房新社/昭和55(1980)年11月刊)」から

 広大な空地にあったコンクリート建造物の姿を見てみたい、の思いを抱き探し回って出会ったのが上記書籍である。『ホームに降り立って目を奪われるのは、巨大なコンクリート建造物、これはコールドビルと呼ばれる貨車積み込み用の貯炭ポケットだが、なまじ堅固につくられたばかりに壊すのにも金がかかると放置され、閉山15年の今日もむなしく残骸を虚空にさらしている』と記述され、過去への淡い郷愁とロマンを誘われる。

 多久駅東側に残っていた貯炭ポケットと比べると岩屋駅のそれは巨大さが桁違いに異なる。唐津線沿線の炭鉱は昭和30年代後半から40年代初頭にかけて閉山しているので、唐津線石炭輸送を捉えた写真は希少である。

 写真:H26(2014)/9/21 R3(2021)/11/23 R4(2022)/11/24 R5(2023)/2/1

D6069 大分時代

 D6069は昭和39(1964)年9月出水から直方へ、翌40(1965)年9月直方から柳ヶ浦へ、42(1967)年9月大分へ移動している。大分から再び直方へ渡ったのは44(1969)年9月で、大分での稼働期間はわずか2年であった。

 D6069は昭和30(1955)年9月、D5033(大正13(1924)年12月川崎製)から長野工場で改造されて誕生している。キャブの銘板にその事が全て標記されている。C53の流れを汲むと云われるキャブの大形1枚窓と各所のリベットに威厳と風格を感じる。

 大分発豊後森行640レが野矢でひと息ついている。1輛めは狭窓が並ぶスハフ32が連結されている。本屋寄り下りホームは駅員の姿が見える。下りの急行が通過するのを待っているようだ。 久大本線野矢 S44(1969)/7

 D6069となったD5033の登場時は形式9900でナンバーは9932であった。昭和3(1928)年に形式D50と改番されている。D5033のキャブ窓は試作から量産に移行した頃の製造で2枚窓で登場、後年になってひとつにまとめられて写真のような形態になったらしい。ナンバーによって窓サイズは異なるとのこと。 久大本線由布院 S44(1969)/7

 長野工場で改造されたD60で九州で稼働したナンバーは31・32・33・34・69・70の6輛であった。何れもデフとデフステイが特ちょうのある形で共通していた。煙突も少し長めのパイプ煙突であったが31と69だけは化粧煙突で違っていた。 筑後吉井 S44(1969)/3

 テンダは20立方米形で、後部の切り欠きが大胆に大きいのが特ちょうであった。20立方米形テンダは2通りあって、切り欠き部が大きいタイプと、切り欠き部が少ない12-17形スタイルがあるらしい。D6034・D6071は後者のようである。 筑後吉井 S44(1969)/3

 日田杉の美林を背景に上り勾配に挑むD6069〔大〕牽引の639レ大分行。このスジは昭和44(1969)年10月改正で気動車に置換えられてしまった。折しも新製キハ45系の投入は久大本線の客車列車を一気に減らしてしまった。 久大本線豊後中村~野矢 S44(1969)/8/2

 昭和44(1969)年10月改正は久大本線に新しく入ったキハ45・キハ53の影響で、大分運転所のD6069とD6071は直方へ転属することになった。豊後森機関区の給炭線に転向を済ませたD6069〔大〕が入っている。 豊後森機関区 S44(1969)/7

写真は全て:小川秀三さん

D6069 出水時代

 平瀬さんのアルバムを拝見した際、上路式転車台に載ったD6069の写真に目を奪われた。大分か柳ヶ浦かと思いきや、転車台と周りの様子が違うことで一瞬たじろいだこの写真は熊本で撮影されたとのこと。出水機関区のD60は熊本まで運用されていたことを示す貴重な記録であると思う。 D6069〔出〕 熊本機関区 S38(1963)/2/14 撮影:平瀬清隆さん

 出水にD60が配置されたのは昭和34年10月、北海道は池田からの46・57・69が最初で、その後豊後森から22が加わって4輛配置となった。この時D50が同数廃車になっているのでその置換えと思われる。出水機関区は熊本~鹿児島間が運用範囲で機関車は常時17輛位が配備され、昭和36年4月ではD60-3、D50-4、D51-11輛の内訳であった。D60配置の導因は「水俣から出水間の補機に使用」との記述を見たことがあるが、書籍に載った鹿児島本線D60の写真を見ると、ハドソンといっしょに写った八代駅頭の姿が印象に残っている。熊本機関区で撮影された写真から、D60の運用範囲は熊本~出水間であったのではないかと推察する。補機として運用されたなら水俣~出水間に袋をサミットとした16.7‰の勾配があるが、湯浦~津奈木間の津奈木太郎越えも難所であったと聞く。

 出水機関区は昭和39年10月改正で機関車形式をD51に統一し、D60の配置は解消された。手持ちの配置表から推測すると、D51直方→出水とD60出水→直方の交換によって各区の形式統一を行ったものと思われる。その後D6057は直方から大分へ、D6069は直方から柳ヶ浦を経て大分へ転属し、それぞれ久大本線で働くことになる。

立石峠

 立石峠は宇佐から立石にかけて25‰の勾配が立ちはだかる日豊本線の難所のひとつであった。電化前は柳ヶ浦機関区のD60が前付けや後押しで補機を務めていた。西屋敷を出た長い編成の貨物列車は前補機D6066〔柳〕、本務機D50341〔柳〕の兄弟機が立石隧道めざして力を合わせる。 569レ 日豊本線西屋敷~立石 S36(1961)/8/22 撮影:平瀬清隆さん

 国東半島のつけ根を横断する宇佐から杵築にかけて23.4Kmの区間は、下り列車は立石から先は下り勾配、上り列車は杵築から立石隧道まで長い上り勾配が続く。DF50の牽く編成の長い“高千穂”や“日向”は停車駅の杵築から補機を付けていた。DF50先頭の門司港発大分行下り517レはテンダ標識灯赤色板が凛々しいD6059〔柳〕が補機を務めていた。 日豊本線西屋敷~立石 S36(1961)/8/22 撮影:平瀬清隆さん

 D6059〔柳〕は立石までの補機運用を終え、単機で宇佐もしくは柳ヶ浦まで戻るところで、坂を軽快に下っているように見える。 日豊本線西屋敷~立石 S39(1964)/8/28 撮影:平瀬清隆さん

 幹線系で使われたD50を下級線区へ転用するため、動輪重量を先輪と1軸増した従輪に移して軸重変更されたのがD60である。昭和29(1954)年から30(1955)年にかけて久大本線投入用として大分に10輛のD60が新配置された。D5059はその内の1輛で、D6066と共に立石峠の補機として柳ヶ浦へ配置変えとなり、直方から転属のD6034を加えた3輛で電化まで立石峠の補機として活躍した。電化完成後、34は直方へ行くも、59と66は揃って柳ヶ浦で最後を迎えた。