転轍器

古き良き時代の鉄道情景

民営化後の由布院

 由布院構内を起点側から見る。1番線は民営化直前に投入された軽快気動車キハ31が停車、3番線は上り急行列車を待つ乗客が佇んでいる。「ゆふいん温泉郷」の縦看板がよく目立つ。 由布院 H2(1990)/3

 上り急行列車が雪の積もった盆地を行く。 由布院~南由布 H2(1990)/3

 急行編成は新しい塗色に塗替えが進んでいた。先頭はキハ58607分オイ車であるが、国鉄時代の配置区標記が変わって寂しくなった。  由布院 H2(1990)/3

 中間キハ65 2輛を両端キハ58ではさむ強力編成が紫煙をあげて上り勾配に挑む。最後尾はキハ585003でキハ58の5000番台車があったことに驚く。改めて調べてみると、5000番台は急行“火の山”と“由布”の座席指定席車として改造されたリクライニングシート車で、国鉄時代に行われたとのことであった。

 駅舎が新しく建て替えられ、それに続くホーム上屋や跨線橋も意匠が凝らされていた。温泉地、観光地のシンボルとしての存在感が増していく。やって来る車輛はスタイリッシュなデザインとなって、国鉄時代は遠くになりにけりと痛感する。 由布院 H3(1991)/6

横浜機関区

 新鶴見機関区D51の仕事場は新鶴見操車場から高島貨物線に点在する貨物駅までであったのだろうか。横浜機関区の扇形庫は高島貨物駅ヤードの終端にあったと思われる。上路式転車台に載るD51516〔新〕の後方にとても優雅に映る扇形庫が見える。顔を出したDD13はナンバー192と読める。品川の機関車のようだ。

 転車台の支柱は「確認」の文字が読める。傘の付いた長い煙突が規則正しく並んでいる。D51516の後部標識灯は前後どちらも片側しか付いていない。

 転車台へ進むのはD51130〔新〕、機留線はD51558〔新〕が待機している。テンダの後方に見える三角屋根の塔は何だろうか。まるで路面電車の分岐部やバス転回場に建つ見張り台のようだ。

 写真:juncyan jiiji 故片岡淳一さん 横浜機関区 S45(1970)/2/14

 片岡淳一さんは闘病中、バズ・ライトイヤーに重ねて「もうダメだと思ったりまだイケると思ったり」と笑わせてくれて頑張っているものと思っていた。宣告よりも早く旅立ったことを知り、仏前に手を合わせに新幹線で東上した。

 投宿したホテルから京浜急行鶴見駅が見えた。青春時代の友と会い、半世紀に及ぶお互いの時を語りあう。国鉄鶴見駅京浜急行鶴見駅の間の三角地帯は地平の京急線国鉄引込線があったこと、「ありあけのハーバー」はここ鶴見が発祥の地ということを聞いた。

 重厚感のある鶴見線の乗場に立つ。つい若かりし頃の自分になりきって暗いホームに旧形国電が入って来るのを想像する。「鶴見線80周年までの足跡」が壁面に飾られている。貨物専用鉄道としての開業はつい九州の石炭・石灰石輸送で発足した私鉄と重ねてしまう。

 バスを待つ間、横浜市交通局を始めとした路線バスのLED行先表示を見る。「ここは知っているか」と言わんばかりに、かつての東横線小田急線、国鉄線の懐かしい駅名を掲げて次々と通り過ぎる。 横浜駅西口

 横浜の地図を見て、鶴見・保土ヶ谷磯子・上大岡も、菊名・日吉・長津田上星川二俣川等の知っている駅は皆横浜市にあることを改めて認識した。横浜市は広大だ。ミナトヨコハマ、横浜港はというと、鶴見沖から八景島辺りまでらしい。 横浜駅東口

 横浜駅9・10番線に思いを馳せる。私が知っていた横浜駅東海道横須賀線が同一の線路を使っていたので9・10番線があった所は貨物線であった。

 昭和50年の横浜駅8番線。となりに9・10番の新ホーム建設中の時であった。ここから根岸線桜木町へ行けば高島貨物駅に鎮座する瀟洒な横浜機関区扇形庫へ辿り着くはずである。中学生だった彼はバスを降りて桜木町行の電車に乗ったのだろうか。この度の五感で味わった横浜詣でを彼への鎮魂歌としたい。

路面電車があった九州の中心地 西鉄福岡市内線

 568貝塚行は循環線祇園町千鳥橋方へ進路をとる。画面右は呉服町へ向かう。後方は国鉄博多駅ビルがそびえている。

 西新行68は博多大丸を背景に呉服町から貫線に入る。

 千代町は貫線と循環線が交差する。手前が循環線千鳥橋方で、2054貝塚行の後方に貫線が横切る。画面右が天神方、左が九大前方である。

 城東橋電停は大牟田線の平面交差を挟んで画面手前左に西新方面乗場、電車が停まっている所が渡辺通一丁目方面乗場で離れていた。城南線で体験した鉄道線と軌道線のクロスする重たい音と振動が蘇ってくる。

 貫線大手門電停近く。木々の向こうに平和台球場の照明灯が見える。あの西鉄ライオンズはこの時は太平洋クラブ・ライオンズだったかな。

 西新は貫線と城南線が合流する。雪でぬかるんだ軌道を連接電車が行く。『北に札幌あれば南に福岡あり、どちらも日本で連接電車を重用した主要都市』は「わが心の路面電車(上)(小林茂著/プレスアイゼンバーン/平成6(1994)年1月刊)のキャプションから。

 写真は全て田口雅延さん 昭和49年撮影

 半世紀前、博多駅前の電停に向かって行った私は何もわからないまま、たまたまやって来たマルーンとベージュの路面電車に飛び乗ったものと思われる。福岡市西方の街、西新に向かうためである。循環線や貫線、城南線の名称を聞いたがどの線がどの経路という事はよくわからないままであった。天神のクロスが印象にあるので8系統(博多駅前―呉服町―天神―西公園―西新)に、大牟田線との平面交差が衝撃的だったので10系統(西新―六本松―薬院大通渡辺通一丁目―博多駅前)に揺られたのではないかと後付けで想像している。当時の運転系統図は1回乗車35円と記されていた。50年の時を経て「あの頃の九州の中心地、商都博多の街」を見ることができた私は幸せである。

栄枯盛衰唐津線 多久

 昭和30年代の多久市は人口5万人の炭都で、多久駅は門鉄管内でも有数の石炭積出駅であった。駅から東に三菱古賀山炭鉱、西に明治佐賀炭鉱までそれぞれ専用線が敷かれて活況を呈していた。

 化粧煙突の継足しが異様に長い79624〔唐〕が下り貨物列車の先頭に立つ。西唐津機関区の9600は12輛が配置され、唐津線や佐賀線で運用されていた。 唐津線多久 S45(1970)/7

 多久駅本屋寄り1番ホームは久保田・佐賀方面の上り列車が入る。佐賀行の2輛編成はキハユニ26とバス窓のキハ16か17のようだ。佐賀機関区もしくは筑肥線管理所のどちらの車輛が運用されていたのだろうか。駅名標のとなりの名所案内は「多久聖廟」が記されている。構内は石炭車の姿も見える。 唐津線多久 S44(1969)/4

 下り列車は多久を出て笹原トンネルまで19.2‰の上り勾配が続くので多久もしくは東多久で補機が連結されて厳木まで後押しする。

 29656〔唐〕は磨き出しの美しい煙室扉ハンドルが輝いている。

 タブレットを取って出発進行。構内を出てR400の右曲線を過ぎると大築堤にかかる。 唐津線多久 S44(1969)/4

 2条の白煙を上げて笹原峠に挑む。レ・レムとワフだけの冷蔵車編成は漁業基地唐津港を控える唐津線の名物であった。 唐津線多久~厳木 S44(1969)/4

 写真は全て:小川秀三さん

栄枯盛衰唐津線 岸嶽

 山本~岸嶽間4.1Kmは時刻表では唐津線の表記であったが、「岸嶽線」や「唐津線岸嶽支線」の呼称の方が分岐線なのでしっくりとくる。石炭産業の盛衰に翻弄され、蒸気動車も走った特異な線区であった。

 岸嶽線の気動車を捉えた貴重な写真と出会って感激した。サボは楷書体で駅名電略は「ヤモ」と記されている。サボは運転区所ではなく駅に所属するので山本駅の管理と思われる。キハ30は東唐津筑肥線管理所の車と思ったが、昭和44(1969)年と48(1973)年の配置表で探すとどちらも直方の記載で驚きであり意外であった。 岸嶽線岸嶽 S45(1970)/7

 美しいキハ30が1線だけになった岸嶽に停車している。運用は山本~岸嶽間8往復で、朝最後の仕業は岸嶽発東唐津行で車庫入り、午後再び東唐津発岸嶽行として夕方の仕業に就く。 キハ3024〔門カタ〕 岸嶽線岸嶽 S45(1970)/7

 岸嶽駅は明治45(1912)年1月に開業、駅のある北波多村は石炭搬出で大いに賑わった。昭和30年代からの相次ぐ炭鉱の閉山により人口は激減し、昭和46(1971)年8月20日に岸嶽線は廃止された。この年の年末は臼ノ浦線世知原線も同様に廃止されている。

 岸嶽線の手がかりはないかな、と思っていた矢先の岸嶽駅の写真はまるで願い事が叶ったようで歓喜雀躍した。何というモダンな駅舎だろうか。入口に貼られた「万国博記念回遊券」のポスターが時代を物語っている。 岸嶽線岸嶽 S45(1970)/7 

 写真は全て:小川秀三さん

 唐津興業鉄道が唐津港まで石炭搬出のため大島から山本、厳木、多久まで開通させたのは明治32(1899)年12月であった。この時はまだ岸嶽線は開通前で、北波多村の石炭は川舟とエンドレスと呼ばれる運炭軌道で山本駅まで運び、貨車に積替えていたと郷土誌に記されていた。岸嶽まで開通後は輸送量が増大し、唐津港送りとは別に、山本・久保田・早岐を経由して長崎までの搬出もあって、炭質の良さから船舶用だったのかもしれない。