転轍器

古き良き時代の鉄道情景

小樽築港

 「小樽築港」と聞くとC62がいた小樽築港機関区を思い浮かべる。呉線が電化された昭和45年10月、糸崎のC62が遠路小樽築港へ回送されるルポを「鉄道ジャーナル」で読んだことが頭をよぎった。昭和50年は小樽築港区に蒸気機関車の配置はなく、特別な名前のように思い抱いていた小樽築港駅に降り立ってみた。

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 石狩湾沿いの海岸線を来た上り列車は平磯岬をトンネルで抜けると小樽市街地へ入る。駅長は列車がトンネルから顔を出す前から到着を待っていた。前パンタのED76518〔岩二〕の牽く岩見沢倶知安行9輛編成が1番ホームにさしかかる。敬礼で列車を迎える駅長の姿が印象的。 134レ 函館本線小樽築港 S50(1975)/9/14

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 小樽発札幌行下り電車が現れた。右は海岸線に続く小樽築港の貨物ヤードが広がっている。小樽築港機関区は操車場の一番奥だろうか。 883M 函館本線小樽築港 S50(1975)/9/14

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 711系3輛編成の小樽行。この時期クハ711のおでこに砲弾形ライトはまだ付いていないようだ。 546M 函館本線小樽築港 S50(1975)/9/14

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 下り電車が行く外側の2線は貨物本線で、砂川、岩見沢方面を往復する石炭列車の発着線と思われる。旅客線から別れた貨物線は浜小樽貨物駅へ向かうのであろう。 885M 函館本線小樽築港 S50(1975)/9/14

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 手宮の貨物ヤード脇にある引込線にDD51が休んでいた。当時DD51は釧路、旭川、小樽築港、岩見沢、鷲別、五稜郭に配置されていた。DD51643は釧路機関区配置で広域で運用されていたのであろう。転車台手前の給水栓はつい最近まで小樽築港区の蒸気機関車が使っていた、そんな様子がうかがえた。 手宮手宮 S50(1975)/9/14

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 小樽築港付近の複雑な鉄道地帯を改めて整理してみた。石炭積出設備は小樽築港から手宮へと続いているものとばかり思っていたが全くの別線であることに気がつく。手宮の桟橋で船積されていた道央の炭鉱から来る石炭列車はその後浜小樽で捌くようになったと聞く。手宮は北海道の鉄道発祥の地でここから内陸の炭鉱へ路線網が延びて行った。以後石炭をはじめ木材や農産物が到着し小樽港で揚陸された建設資材や物品が発送されていた。

早朝の帯広

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 帯広5番線に停車しているのは広尾行の貨物列車のようだ。道外禁止の黄帯を巻いたワフ21000はステップの手摺りは白く塗られている。所属標記は釧オロと読める。後方に煙突が長い二段屋根の矩形庫が見える。 帯広 S49(1974)/9/18

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 朝もやのかかる広い空の下、6時05分帯広発広尾行貨物列車が汽笛一声、見送る駅長を横目に勇躍いざ行かん。1891レ 帯広 S49(1974)/9/18

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 59690〔帯〕の煙突は北海道仕様が施されていないように見える。もしかしたら道外から来たのではと配置表を辿るも道産子罐のようである。帯広は機関区ではなく運転区であった。ワフ21000の煙突が目立つ。 1891レ 帯広 S49(1974)/9/18

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 19671〔帯〕は短い煙突、ランボード一直線は59690〔帯〕と同様である。デフとテンダはゼブラ塗りであった。早朝の帯広は広尾線士幌線の下り貨物があったが、何故か広尾線しか撮影していない。 帯広 S49(1974)/9/18

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 初めて4桁ナンバーのキュウロクを見て歓喜する。4桁機にしてはテンダが前出2輛とちがって旧式ではないのがアンバランスに映る。キャブに密閉用のカーテンが見える。 9654〔帯〕  帯広 S49(1974)/9/18

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 もしかしたらこの編成は士幌線の貨物か、と思ったが9654〔帯〕は動力逆転機が付いて右運転台になっているので入換専用機ではないだろうか。 9654〔帯〕  帯広 S49(1974)/9/18

十勝平野の東

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 池田と北見を結ぶ池北線の起点は帯広から約24km、太平洋に注ぐ十勝川が作った十勝平野の東の端に位置している。十勝川と合流する利別川中流域までさかのぼっても視界が広がる平地が広がっていた。池田発北見行の貨物列車をフロントデッキゼブラ塗りのキュウロクが牽いてゆっくり近づいて来た。最後尾は荷物車が連結され、池北線の郵便荷物輸送は貨物列車で行われていたのであろうか。 1995レ 池北線勇足~南本別 S49(1974)/9/18

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 早朝北見を発った貨物列車は正午過ぎに池田へ着く。池田機関区で給炭、給水、転向、息つく間もなく下り貨物の運用に就く。本別手前で上り貨物を捉える。 1992レ 池北線本別~仙美里 S49(1974)/9/18

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 独特な北海道スタイルの29694〔北〕が迫って来る。回転式火の粉止を覆う防煙板は鎧のように見える。ゼブラ塗りのフロントデッキに架けられたスノープラウは他で見る形状とはちがい頑強なカウキャッチャーのようだ。 1992レ 池北線本別~仙美里 S49(1974)/9/18

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 停車する29694〔北〕の後方に「石井専用線 石井林業株式會社」の建て看板が見える。複数の木材会社の専用線があったのかもしれない。この時期も木材搬出で活況を呈していたのであろう。池北線沿線は木材集散地が点在していた。 池北線本別 S49(1974)/9/18

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 上りは編成が長く、チップ積貨車は積車のようだ。最後尾はやはり荷物車が連結されていた。本別は千鳥配置のホームに跨線橋のある構造で急行停車駅であった。駅裏は広大な木材ヤードが広がっていた。池北線は根室本線池田と石北本線北見を結ぶそれぞれのの頭文字をとった線名であるが、当初は道央から網走へ向かう幹線として建設された経緯があることを知る。 1992レ 池北線本別 S49(1974)/9/18

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 「昭和42年版全国専用線一覧表」によると本別林産協同組合0.6㎞、石井林業(株)0.1㎞、同国鉄側線0.1kmと記載され、作業方法はいずれも国鉄動車・手押であった。後方の貨物側線から分岐して木材ヤードへ引込まれる線もあったのであろう。 1992レ 池北線本別 S49(1974)/9/18

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 29664〔北〕の左サイドが見える。元空気溜の位置は右サイドとちがって前方にあるのでデフはタンクの部分が切取られ、ただの四角い板が付いているように見える。 1992レ 池北線本別 S49(1974)/9/18

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 1992レ発車。本別の場内信号機が見える。 池北線南本別~本別 S49(1974)/9/18

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 最後部は客車が付いてまるで混合列車のようだ。北見客貨車区にスユニ60が2輛配置されていたのでこのスジで運用されていたのであろう。 1992レ 池北線南本別~本別 S49(1974)/9/18

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 池北線140㎞全線を3時間半かけて走り通す池田発北見行はキハ12+キハ22の高さ不揃いの気動車列車であった。 933D 池北線勇足 S49(1974)/9/18

常紋越え

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 石北本線生田原~金華間15㎞は常紋信号場をサミットとした25‰の勾配が続く難所で常紋越えと呼ばれていた。本務機D51の貨物列車に9600が後押しで峠越えをしていたが、訪問時補機はDE10に置換えられていた。9600時代の補機は生田原留辺蘂間で運用され、それぞれの駅には転車台が設置されていた事を後年になって知る。

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 留辺蘂駅で列車に乗る際に地元のおじいさんから常紋信号場のトンネルは幽霊が出ると聞かされた。常紋トンネルの恐怖話はこの時が初めてなのか、趣味誌で読んで知っていたのか今となってはどちらが先だったのかわからなくなった。金華から歩いて山に入って行ったら構える間もなく上り貨物が接近して来た。 2594レ 石北本線常紋(信)~金華 S49(1974)/9/12

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 単灯式の信号機は金華の遠方信号機であろうか。 2594レ 石北本線常紋(信)~金華 S49(1974)/9/12

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 原生林の中上り勾配をゆっくりと進む。DE10が懸命に押している。 2594レ 石北本線常紋(信)~金華 S49(1974)/9/12 

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 補機のDE101706〔遠〕が山から駆け下りて来た。2594レの補機は留辺蘂から常紋(信)まで後押しし、常紋(信)で開放、単機で金華まで戻り次の1592レは生田原まで通す運用のようだ。 単5851レ 石北本線常紋(信)~金華 S49(1974)/9/12 

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 “大雪2号”は札幌発釧路行の気動車急行で、その走行距離は函館・石北・釧網本線を走破する543㎞と長大だ。距離の内訳は札幌~旭川136.8㎞、旭川~網走237.7㎞、網走~釧路169.1㎞で北海道の広さを痛感する。 キハ56201〔札サウ〕他 603D  石北本線常紋(信)~金華 S49(1974)/9/12 

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 連続して上り貨物列車がやって来る。木材積載、タンク車、コンテナ車等の編成は先発列車と同様のようだ。 1592レ 石北本線常紋(信)~金華 S49(1974)/9/12 

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 ドラフト音高々に眼下に迫って来た機関車は北見機関区のD51346だ。

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 猛煙が山の斜面におそいかかる。 速度が遅いので連写を試みるもどれも煙で画面真っ暗。かろうじて後押しの罐はDE101706と読めた。 1592レ 石北本線常紋(信)~金華 S49(1974)/9/12 

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 2本の上り列車を撮って金華に戻る途中、背後からエンジン音が聞こえるので振り返るとDD5129〔旭〕の牽く下り貨物列車が迫って来た。 1597レ 石北本線常紋(信)~金華 S49(1974)/9/12

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 列車は最後部にDE10の補機が付き転がるように下って行った。 1597レ 石北本線常紋(信)~金華 S49(1974)/9/12 

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 駅に着くと先ほどの列車が止まっていた。貨車が9輛残り、前方の編成が見えなくなっているのはどのような状況だったのか記憶に残っていないが、入換中と理解するしかないであろう。 石北本線金華 S49(1974)/9/12 

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 この日は遠軽機関区の2輛のDE10と会った。最初のDE101706はこの年の夏に落成したばかりの新車、次のDE104は昭和41年製、寒冷地形の試作車であった。 石北本線金華 S49(1974)/9/12

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 金華の側線に9600とC58の廃車体が留置されていた。 79667〔北〕 石北本線金華 S49(1974)/9/12

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 金華で見た時代の重みを感じる給水タンク。「17t」の標記は何ともノスタルジックな雰囲気が漂う。 

室蘭本線の駅から

■苫小牧

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 苫小牧のホームに立つと製紙・パルプ工業の巨大な煙突を背景に苫小牧機関区に並ぶ気動車や機関車群に圧倒される。下り列車に乗って窓の外を見ると広大な苫小牧操車場の真ん中にいるような魅惑の鉄道地帯が展開していた。室蘭発岩見沢行225レを牽くD5115〔岩一〕がすべりこんで来た。 室蘭本線苫小牧 S49(1974)/9/10

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 下りホームは室蘭発札幌行“ちとせ7号”が停車している。苫小牧操車場から来た上り貨物列車は通過して行く。D51146〔岩一〕の牽く貨物列車は東室蘭操車場行で始発は釧路操車場であった。 4484レ 室蘭本線苫小牧 S49(1974)/9/10

■登別

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 夕刻の登別、中線にD511118〔岩一〕が牽く上り貨物列車が退避していた。DD51の下り貨物列車が通過、続いて札幌行急行“ちとせ8号”が到着、少し遅れて函館行特急“おおとり”があわただしく出て行った。 登別 S50(1975)/9/10

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 3本の列車をやりすごして汽笛一声D511118〔岩一〕が動き出す。 1294レ 登別 S50(1975)/9/10 

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 D51297〔滝〕が冷蔵車の連なる編成を牽き出す。 270レ 登別 S50(1975)/9/11 

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 複線の室蘭本線は列車密度が高く、登別は鈍足の貨物列車が退避する中線が設けられていた。 D511120〔岩一〕が煙もうもうで下りホームに入って来た。 225レ 登別 S49(1974)/9/11 

■追分

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 追分の構内はとてつもなく広く、ヤードは貨車で埋まり活況を呈していた。D511085〔岩一〕の牽くセキ編成は室蘭本線の列車のようだ。 5993レ 追分 S49(1974)/9/10

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 C57135〔岩一〕の牽く室蘭行が発車を待っている。 228レ 追分 S49(1974)/9/10

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 追分は国鉄蒸気機関車の最後の地。この年名寄から来た39679〔追〕はいつもの入換の仕事をこなしていた。 追分 S50(1975)/9/12

■栗沢

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 C5757〔岩一〕の牽く岩見沢行227レとC5744〔岩一〕の牽く室蘭行228レが交換する。 栗沢 S49(1974)/9/17

岩見沢

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 C5757のナンバープレートは形式の57と機番の57で若干違って見えるのは目の錯覚だろうか。それぞれの5と7の字間が機番の方が間隔が開いているような気がする。追分で見たC57135と比較すると公式側だけに付いたデッキ上コの字形の手摺りが取り付けられていない。架線注意標識は1箇所だけ。煙室ハンドルの取手は1本だけ、と装備はさまざまのようだ。 岩見沢 S49(1974)/9/17