転轍器

古き良き時代の鉄道情景

難所仏崎を行く 大分交通別大線

 別府湾に沿った海岸線を通るルートは昔より海につき出た岬をいくつも回り、特に仏崎の海岸は断崖絶壁が屹立する交通の難所であった。

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 仏崎の岬は迫る山と海に挟まれたわずかな間隙に道路と軌道が通る。国鉄線は海岸線を避けて仏崎トンネルで難関を越える。別大電車は仏崎離合所を通過する。 S44(1969)/6

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 日豊本線下り線の築堤から仏崎離合所で交換待ちの202と通過する164を見る。仏崎の交換はスプリングポイントでそれぞれの電車は無停車でそろりそろりとすれちがう光景も見られたと聞いたことがある。164は昭和ひと桁製の114を昭和32年密着連結器取付、総括制御に改造の際に改番、202は昭和24年製の総括制御車である。張上屋根の200形は100・150形とは印象がかなり異なる。 仏崎離合所 S47(1972)/4/4

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 別府湾にせり出した仏崎の岬、大カーブの先端に設けられた落石防護棚を行く104。断崖絶壁の細道は風光明媚な沿線で唯一の難関であった。 仏崎~田の浦 S47(1972)/4/4

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 150形161が大カーブにさしかかる。 仏崎~田の浦 S47(1972)/4/3

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 断崖絶壁の岩肌に記された「南無妙~」と「交通安全」の文字が見える。落石防護の棚と柵で万全を期し交通の隘路を見守っている。矢印の入った「中津70Km・別府5Km」の道路案内標識が懐かしい。 102 仏崎~田の浦 S47(1972)/4/3

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 150形166が接近。高くそびえたパンタグラフが偉容に感じられる。フロントサイドのステップと屋根上のディテールもよくわかる。 仏崎~田の浦 S47(1972)/4/3

白木海岸 大分交通別大線

 往年の紳士淑女に「かつて別大電車に乗ったことありますか?」とたずねると大概の人が「白木の海水浴場に行く時に乗った!」の返事が返ってくる。撮影時は海岸線の所々に松の木がまだ健在であった。

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 白木トンネルの上から別府湾大分方向を望む。オールドタイマー100形は快調にシーサイドコースをとばす。水平線に蜃気楼のように浮かぶ景色は新日鉄大分工場と積荷搬出入設備のシーバースである。別大国道を走る車はマツダキャロルのようだ。 159 かんたん~白木 S47(1972)/4/4

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 全面広告電車の300形は派手な塗装で異彩を放っていた。昭和29年日立製で301と302の2輌が在籍する。車体はスマートで細く見えるがヘッドライトは胸と頭の2灯、標識灯も左右2個備えた凛々しいマスクをしている。パンタグラフ装備車300形の導入を契機に従前の車輌の集電装置をトロリーポールからパンタグラフに取替えが行われた。 301 かんたん~白木 S47(1972)/4/4

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 別大電車の車体番号は昭和44年に大分駅前で撮った写真を見ると妻面左側に大きく標記されていた。その後広告看板は左側にも追加された為、ナンバー標記は車体裾部の補強板に変更されたものと思われる。ナンバーが小さくなったので遠くからは見えにくくなった。かんたんから単線になってSカーブをお別れ装飾を施した100形が通る。山側は石積みの日豊本線下り線の築堤で、上り線はそれより高い位置に敷設されている。115 かんたん~白木 47(1972)/4/4

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 100形が日豊本線下り線より低い専用軌道を軽快に進む。白木の先、仏崎に至る岬に松の木が健在なのがわかる。 112 かんたん~白木 S47 (1972)/4/3

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 家並が続く白木電停付近。かんたん~東別府駅前間は海が見える専用軌道を走る。電停間距離は、かんたん~白木1.7Km、白木~田の浦2.1Km,田の浦~別院前1.0Km、別院前~両郡橋1.8Km、両郡橋~東別府駅前0.7Kmで海岸線の距離は7.3Kmであった。 白木~仏崎 S47(1972)/4/3

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 遠ざかる電車は大分駅前行でカーブを曲がった先に白木停留所がある。形の整った一本松が電車を見送っているようだ。脇をすり抜ける車はトヨタパプリカか、いすゞベレットか、ダイハツベルリーナの何れだろうか。 白木~仏崎 S47(1972)/4/3

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 昭和25年7月7日付の大分市報(大分市公式ホームページから)に白木海水浴場の事が載っているのを発見した。「白木海水浴場開場」のタイトルで記事は「市民に多年親しまれた白木海水浴場も大分交通株式会社の手で本年より脱衣場、ブランコ、遊動円木、鉄棒、飛込台等の設備が完成し7月5日より開場されました。大分からの電車賃金は往復11円(5割引)、学生8円50銭(6割引)で、大分より白木行が増発され又納涼大会等の催し物も計画されている。夏に鍛えるため理想的なこの海水浴場の利用を皆様にお勧めします(教育課)」と綴られている。大手私鉄が沿線の宅地、商業、娯楽施設等の開発を手がけてきたのと同様、地方の鉄道会社も沿線の資源開発で躍進を図っていた事がうかがわれる。
 また下2段の大分交通の広告は手書きガリ版風の趣きで懐かしさを覚える。海水浴は軌道別大線は「施設完備の白木へ」、鉄道国東線は「週末には奈多海岸へ毎日曜直通列車運転」のそれぞれのキャッチコピーに強烈な印象が刻まれる。あの時代、行楽は列車や電車で行くのが当り前であった。古き良き時代のテイストが漂う宣伝に感激した。

高崎山別院前 大分交通別大線

 不等辺三角形の形をした標高628mの高崎山は別府湾につき出るようにそびえている。猿で有名な高崎山自然動物園の最寄りに別大電車の別院前停留所が設けられている。昭和28年3月、猿の餌付けに成功して開園、さつまいもを求めて猿が餌場に出るようになり国内外からの観光客で賑わうようになった。「大分交通40年のあゆみ」(昭和60年4月刊/大分交通株式会社)によると、観光客増加の利便を図るため、1)2区間以上乗車した乗客に別院前の途中下車を認める、2)別院前停留所ホームを拡張、3)折返し電車の引込線と待合所を建設、とある。出現した猿の数を知らせる「ただ今〇〇匹」の告知板は好評を博し昭和31年に発表された火野葦平の小説「ただいま零匹」のタイトルに取りあげられ一躍脚光を浴びた。

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 桜満開の別院前停留所は観光地とあって各方面の乗場案内を大きく掲げ、名物になった猿の「ただ今700匹」の看板が高崎山のお馴染みの構図として浸透している。春休みで観光客は多く別大電車はほんとうに廃止になるのか疑いたくなる光景である。仏崎で大分駅前行と交換した200形202はここでも大分駅前行と出会う。 別院前S47(1972)/4/4

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 電停待合所前に設置された告知看板「700匹」の数字が目を引く。亀川から来た大分駅前行は100形105であった。別院前停留所は昭和27年12月の開業で別大線では最後に設置された電停で、高崎山自然動物園は28年3月の開園であった。後方は高崎山の斜面で海にせり出す様子がわかる。 別院前 S47(1972)/4/4

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 別院前は観光シーズンの折返し運用に備えた待避線が大分寄りに1線設けられている。100形は昭和3年~7年にかけて16輌が川崎車輌で製造され、半数の8輌が密着連結器取付、総括制御に改造され150形に改番された。細いウインドシルのリベットが昭和ひと桁製の重みを感じる。前面の広告は大分側が日産チェリー、亀川側は大奥トルコ徳川が掲示され時代を感じさせられる。 別院前 S47(1972)/4/4

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 先ほどの105が大分駅前折返しで亀川駅前行となって再び別院前に姿を現す。後方の築堤、日豊本線下り線は別府折返し“火の山2号”くずれの豊後竹田行各停1746D7輌編成が駆け抜けて行くところ。 別院前 S47(1972)/4/4 

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 別院前の電車交換風景を横断歩道橋から見る。専用軌道に設けられた低いホームと乗場案内、「電車のりば」を掲げた駅舎風待合所、「手荷物一時預り所」の窓口、踏切警手小屋等のストラクチャーが良き時代の軌道情景を演出している。 別院前S47(1972)/4/4 

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 200形201がホームに入った後、タブレットを受け取って100形105が出て行く。横の国道を方向幕別府駅行を出した大分交通バスが併走する。電停待合所2階に掲げた「九州横断道路・九重高原・長者原、九重ハイランドホテル、大分交通貸切バスで」の看板は各都市の国鉄駅前で見かける「観光地〇〇は〇〇電車で」の私鉄案内と共通した趣きを感じる。

大分交通別大線

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 別大線の電車は豊州電気鉄道が九州では初めて、日本では5番目の明治33年に5月に別府(南町)~大分(堀川)間が開通し、35年4月南新地(竹町入口)まで延伸した。明治39年1月豊後電気鉄道、大正5年4月九州水力電気となった後の大正6年7月に外堀まで、8年2月に大分駅前まで達している。春日浦の海岸線沿いに軌道を移設し、大正10年4月大分駅前から新川が、11年3月新川~かんたんが開通して別府湾に沿う線形ができあがった。それに伴って堀川~かんたんは大正14年12月に廃止され、新川車庫が開設された昭和4年7月、堀川車庫への引込線も廃止された。
 別府側の延伸は大正11年11月別府桟橋まで、昭和2年7月別府大分電鉄となった後の4年5月に境川、5年12月亀川新川、全線の亀川駅前まで到達したのは17年3月であった。前後するが、境川まで達した昭和4年5月は枝線となる北浜~別府駅前が複線で開通している。この時大分駅前~かんたん、東別府駅前~別府桟橋も複線化が完了し、境川までは複線で開通した。別府桟橋まで延伸した大正11年11月は同時に当初の起点であった別府(南町)までの線形が新線に付替えられている。
 昭和20年4月、別府大分電鉄は耶馬渓鉄道・豊州鉄道・宇佐参宮鉄道・国東鉄道と合併して現在の大分交通となった。31年10月別府駅前支線廃止、33年2月、国鉄大分駅駅舎改築と駅前道路整備に伴って軌道の移設が行われた。車輌の投入や施設の拡充で発展を遂げるかに思えたが、昭和40年代はモータリゼーションの波に押し流されるように各鉄道線が廃止され、軌道線別大線もその例外に漏れることなく昭和47年4月を迎えることとなった。 

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 別大電車開業の明治33年が如何に早いかは国鉄線(当時は鉄道院)が別府、大分に達した明治44年(別府7月・大分11月)からすれば一目瞭然で、11年以上前のことであった。明治33年での九州西側を見ると九州鉄道が筑豊唐津炭田の一部と三角・八代・早岐・浦上までが開通しているに過ぎなかった。西日本鉄道の前身、福博電気軌道(福岡市内線)は明治43年3月、九州電気軌道(北九州市内線)は44年6月の開業から見ても突出して早く、当時の別府温泉の存在は絶大なものであったと想像する。
 ちなみに日本の市内電車は①京都電気鉄道(明治28年1月)、②名古屋電気鉄道(明治31年5月)、③大師電気鉄道(後の京浜急行明治32年1月)、④小田原電気鉄道(明治33年3月)と続き、豊州電気鉄道が5番めであった。

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 大分駅前には「高崎山別院前まで電車で20分ーただいま100匹ー」の案内を掲げたおさるの看板が目を引いた。100形は8輌在籍し、正面の大形ヘッドライトと深い屋根、大きなパンタグラフが特ちょうの昭和初期製の重厚なスタイルをしている。左に見えるのは昭和31年製の500形で7輌が活躍している。電車は大分駅前を出ると竹町通ー官公街勧銀前ー新川ー浜町ー春日浦ー王子町ー専売公社前ー西大分ーかんたんの順に進み、ここからは別大海岸のシーサイドコースとなる。 107 大分駅前 S44(1969)/4/29

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 別大電車がきょうで終わりなど全く信じられなかった。竹町通電停はかんたん行、亀川行電車が続行し活気に溢れている。大分駅方面へは200形がごお~んごお~んと音をたてて通り過ぎて行く。それよりも大分バスと大分交通バスが数珠つながりに通りに溢れ、あすからの電車に変わる主役を主張しているようにも見える。電車通り両側の建物と広告看板は懐かしさがこみあげてくる。 竹町通~官公街勧銀前 S47(1972)/4/4

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 昭和38年製の1101は4台車の2輌固定の連接電車。番号は前後とも同じでAとBが振分けられ、亀川向きがB車であった。塗装はグリーンとクリームの電車群の中でオレンジとクリームの塗分けは独特の存在であった。国鉄気動車色にも似て好感の持てるカラーリングであった。架線柱の「南蛮菓ざびえる」の広告看板が目をひく。軌道はこの先、大分港の引込線と並行し大きく右に曲がって専売公社前に至り、そこで大分港臨港線と平面クロスする。 1101 春日浦~王子町 S47(1972)/4/3

昭和通り交差点から 大分交通別大線

 昭和47年4月4日、72年間走り続けた別大電車が最後の日を迎えた。新幹線が岡山まで開通して半月、豊肥本線のC58旅客がDE10にバトンを渡して半月の時であった。私にとって別大電車はいわばバス的な存在で、興味の対象はやがて消えゆく蒸気機関車が最優先であった。廃止になるなど考えたこともない町の交通機関なので蒸機がなくなってからいつでも撮れるという思いがあった。予想だにしなかったがモータリゼーションの進展で別大電車が廃止されるというニュースを聞き、改めて大分交通別大線の存在を意識する。しかも日豊・豊肥本線蒸気機関車よりも先に姿を消すというのは大きなショックであった。

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 昭和通り交差点の歩道橋から大分駅方向を眺める。中心街の賑わいが伝わり、軌道の敷石がきれいな模様となって続いている。竹町通電停を出た505と203が信号待ちで眼下で停車した。一見重連のように見えるが505はワンマンカーなので単独運転しかできない。500形7輌のうち501と502以外の5輌がワンマンカーに改造されている。 大分交通別大線竹町通~官公街勧銀前 S47(1972)/4/4

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 1000形は昭和37年製の3台車式の連接車でナンバー1001ABの1編成のみの存在である。1100形は1000形の発展形で車体長は1000形がベンチレーター1個分短いことがわかる。主に大分市内往復の運用に就いていた。 大分交通別大線竹町通~官公街勧銀前S47(1972)/4/4

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 スマートな連接電車はラッシュ時に活躍する。方向幕は「大分市内」を掲げ、海岸コースの手前、大きな鳥居が建つ「かんたん」で折り返す。パンタグラフで賑やかなA車の屋根上とは対照的にB車は両サイド等間隔に並ぶベンチレーターだけですっきりしている。忙しく行き交う黄色と緑の大分交通、青と白の大分バス、三菱コルト等乗用車のスタイルや警戒色の道路信号機など忘れてしまった光景が蘇ってくる。 1102 大分交通別大線竹町通~官公街勧銀前 S47(1972)/4/4

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 行先表示は「大分ー新川」を掲げ新川車庫へ帰る200形203号が昭和通りを行く。200形は昭和24年製、総括制御で連結運転ができ201~204の4輌が在籍する。 大分交通別大線竹町通~官公街勧銀前 S47(1972)/4/4