転轍器

古き良き時代の鉄道情景

大分港駅の記憶


 大分港駅の開業年月は「貨物駅・信号場変遷一覧」(国鉄全線各駅停車⑩九州720駅/小学館/昭和58年刊)によると昭和30年12月1日と記載されている。ちなみに日豊本線の貨物支線は苅田港と細島があった。西大分からの臨港線の存在は知ってはいたが、列車が通るのは見たことがなく興味の対象とはなっていなかった。道路沿いに停まっていたタンク車が気になって貨車の写真を撮ったのが時あたかも昭和56年で、廃線の3年前であった。せっかく大分港駅に立寄ったにもかかわらず、視点は車輛ばかりで構内を見渡す構図は皆無で今となっては残念でならない。

 撮った写真の背景や線路の様子、かつての地図から構内図を描いてみた。ポイント分岐の位置は東西の先端は別として一部推測である。大分交通別大線の複線の軌道は昭和47年の廃止まで健在で、王子町〜専売公社前の間で臨港線と平面交差していた。構内東寄りは県道22号沿いに線路が敷設されていて、タンク車が停まっていた。中央4線のヤードは木材満載のトラやトキ、ワムやワラの有蓋車が長い列を作っていた。西側は岸壁突端まで線路は続き、倉庫群の中に駅本屋が置かれていた。

 ヤード海寄りを見る。後方は木材市場の埋立地が広がり丸太が大量に積まれていた。大分港での印象は木材満載の無蓋車といえる。 オトキ25811 形式トキ25000 S56(1981)/2/11

 海側から見たヤード風景。この時期はリブが特徴のとび色の貨車ばかりが並んでいた。黒色のトラの積荷は砕石か石炭か…。 トラ71146 形式トラ70000 S59(1984)/8

 西大分から分岐する臨港線の終点に大分港貨物駅がある。港湾荷役の倉庫と木材置場にまたがってヤードは広がり、それはかつては電車通り沿いにかなりの長さで敷設されていた。木材積載用のトキやトラ、ワラ・ワムが留置され、道路に沿ったガスタンクの位置にはタンク車がいつも停まっていた。昭和59年2月改正は貨物輸送のヤード輸送から直行輸送への大転換が行われ、貨物取扱駅はことごとく廃止された。大分港駅も昭和30年12月開業以来28年間の歴史に幕を閉じることとなった。  日豊本線貨物支線大分港 S59(1984)/1/17

 構内中央のヤード風景を見る。突込み線から反対方向へきれいなカーブを描いて4線のヤードが展開する。ワラ1・ワム70000・ワム80000が並んでいる。後方木材市場の建物が見え、遠く別府の山並みが望まれる。 S56(1981)/2/11

 東側のヤードはさらに延びてかつての電車通りと並走する。 「昭和42年版専用線一覧表」(トワイライトゾーンMANUAL5/ネコ・パブリッシング/平成8年11月)によると大分港の専用線はモービル石油・昭和石油日本石油日本鉱業の4社が掲載されている。石油各社の側線はちょうどこの辺りと思われる。電車通りと並んで敷設されたガスタンク沿いのヤードにはいつもタンク車が停まっていたのを思い出す。 S56(1981)/2/11

 安達製作所の真鍮キット、タキ35000を組み立てて無造作に線路に置いた、といった事を思いながら撮ったひとコマ。撮影時の視点は車輛ばかりで、ヤード周りの風景など全く無頓着であった。 タキ35682 形式タキ35000 日本石油輸送株式会社 ガソリン専用 燃32 大分港 S56(1981)/2/11 

 臨港線の貨車移動機は、かつて大分運転所に常駐して扇形庫へ無火機関車を出し入れしていたもので、この時は西大分・大分港のヤードで使われていた。形態から協三工業の10t機と思われる。ここの側線は古い地図を見るとこの先かなり奥まで続いていたようだ。 S56(1981)/2/11

 岸壁の突堤に突出した臨港線。フォークリフトで使用するパレットが山積みされている。 S59(1984)/1/17 

 反対側から見る。岸壁突端まで敷設された2線は終端部で収束し、機回し線のようにも見える。画面左はトラックヤード、右は県営上屋の表記の入った倉庫群で臨港線の独特の雰囲気が感じられる。各地の臨港線は名称があって、さしずめここは“県営上屋線”といったところか。  S59(1984)/1/17

 ワラ1の後方の建物は「県営上屋」の標記が見える。

 突堤から西大分方向を振り返る。時代的にはワム80000のとび色ばかりで黒色のワラ1とワム70000がアクセントとなっている。道床のバラストは薄く線路は地面に埋まった感じで、臨港線の異様な雰囲気が絶妙に漂っているように感じられる。  S59(1984)/1/17 

 西大分駅東方、海寄りで臨港線は国道10号線と平面交差している。日頃は赤にならない臨港線と交差する信号が「赤」になっているのに驚き、とっさにカメラを出して車の窓から眼前を行く貨物列車を撮る。大分港の構内にはいつも貨車が入っていたが、貨車の出し入れに遭遇したのは初めてで、しかもこの後廃線となったので千載一遇のチャンスであった。 S58(1983)/10/27

 昭和59年2月以降、貨物列車の車掌車や緩急車が廃止され、不要になったワフ29500ばかりが大分港に集結していた。車票から着駅は西大分や大分港となっていた。検査期限を残しての休車留置で、いつしか小倉工場へ回送されるのであろう。ワフ29500は2個窓と3個窓の車体があるのがわかる。 S60(1985)/4

 大分港臨港線は西大分東部構内の貨物引上線から分岐していた。線路は手前から日豊本線上り線、下り線、貨物引上線と3線が並び、その奥、画面上方に弧を描いているのが大分港へ向かう臨港線である。撮影時はすでに廃線になっていたが道床はしっかりとして踏切警報機もまだ現役然としていた。 S61(1986)/9

 日豊本線のコンテナ取扱駅はかつて東中津・延岡・宮崎・都城等があったが、たびたびの貨物輸送合理化の際に縮小され、昭和59年2月改正以降は西大分・延岡・南延岡だけになっていた。西大分は島式ホームの海側がコンテナヤード、山側に貨物側線、富士紡績大分工場への専用線跡もあって構内は活況を呈していた。木造駅舎は古き良き時代の趣があり、駅名標記板は点灯式で白い光に「西大分」が浮かびあがっている。駅前の国道交差点は「西大分駅前」が掲出されている。夕刻の西大分駅前風景。 S60(1985)/4

 D511081〔延〕がコキ+ヨを従えて待機している光景に遭遇する。昭和44年当時、D51の運用は大分以南であったので、西大分に来ているということは大分港へ出向いて入換をした帰りと思われる。鉄道ピクトリアル№225(昭和44年6月号)に掲載された「九州線におけるSLの現況(谷口良忠著)」から大分運転所C58の項を抜粋する。ーC58:豊肥本線宮地以東、一部の旅客(725・746レ)及び貨物列車、また日豊本線の旅客列車(1533レ)、ならびに下郡旅客車基地、大分・西大分の入換に使用。ーとあり西大分の入換は大分港をも含むと思われ、C58が大分港に入っていたと推測される。  西大分 S44(1969)/6

 大分交通別大線廃止のニュースを聞いてこれまで見向きもしなかった路面電車の写真を撮りに西大分方面を訪れた。当時は路面電車同様、国鉄の引込線にも興味はわかず、この画面左側には大分港臨港線があったはずである。軌道はこの少し先の専売公社前付近で西大分からの臨港線と平面クロスし、その場所を自転車で通った記憶があるが、現在のような感慨は全く無かった。撮影対象が豊富にあったあの時代、蒸機以外に目を向けなかったのは致し方無いことか…。 1101亀川行 大分交通別大線春日浦〜王子町 S47(1972)/4/3