転轍器

古き良き時代の鉄道情景

西武池袋線石神井公園

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 数年ぶりに訪れた石神井公園駅で池袋行の電車を待っていた。同行者といっしょに会話しながらの歩行で駅構内での撮影は遠慮していた。“レッドアロー特急ちちぶ”が一瞬のうちに通過、咄嗟にバッグからカメラを取り出して後追いを撮ったのが石神井公園でのただ1枚のスナップとなった。4番ホームは練馬・江古田方面を表示している。列車案内表示器は「通過」のサイン。ここは2面3線の配線で中線が2・3番乗り場となっていた。この時、側線を跨いだ跨線橋は駅北側へ伸びていた。 西武池袋線石神井公園 S58(1983)/5/3

 石神井公園は昭和50年代初頭によく利用していた。当時は撮影の対象にはなっていなかったようでカメラを向けることはなかった。今、回顧すると、西武池袋線は首都圏の私鉄線でありながら古風な機関車の牽く貨物列車が走っていたこと、主な駅には貨物側線があったこと等は私が抱く私鉄の概念とは少しちがう存在であった。広大な池袋構内では貨車が滞留し、国鉄線との受け渡しがあったものと思われる。国鉄緩急車によく似た西武仕様の緩急車は何故か好きになれなかった。

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 国土地理院地図・空中閲覧サービス CKT843-C7A-15 昭和59(1984)年 東京

 空から見た駅の様子は2面3線のホームや貨物ヤード、北側へ伸びた跨線橋がよくわかる。中線は各駅停車の退避や終着始発電車が使っていたように記憶している。池袋からは椎名町ー東長崎ー江古田ー桜台ー練馬(豊島園分岐)ー中村橋ー富士見台を経て8つめが石神井公園である。準急は池袋を出ると石神井公園まで10.6kmを無停車で走っていた。

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 国土地理院地図・空中閲覧サービス CKT7415-C23-18 昭和50(1975)年 東京

 東京西部の山手線をターミナルとする鉄道網を眺めると、東武東上線西武池袋線西武新宿線国鉄中央本線がそれぞれ西に向かって延びている。これを横の線とすると、これらの線を結ぶ縦の線はバス路線が巧妙に張りついていた。各鉄道会社系バスや都バスがその路線を担っていたように思う。石神井公園駅前ロータリーは横の鉄道線を縦に結ぶ路線バスが集まり活況を呈していた。駅西側(画面左上)は富士街道の踏切がありよく渋滞していたのを思い出す。北側の改札はまだ無く、貨物ヤードが広がり貨車がたくさん停まっている。電車が往来する脇で古典の電気機関車が入換を行っていたかもしれない。昭和50年の空中写真からあの頃の石神井公園駅の様子が克明に蘇ってきた。

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 当時見向きもしなかったレモンイエローの電車は青春の淡い思い出として頭の片隅に残る。

伊予鉄道松山市内線

 松山市の中心部、松山市駅前のロータリーに出ると、柑橘王国愛媛を象徴するオレンジとベージュのツートンカラーの路面電車が行き交っていた。新旧さまざまなタイプがやって来ては出て行く様は見ていて飽きることはなかった。

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 モハ50形モハ51 昭和26年登場の古参組。深い屋根と前面3枚窓上の庇が精悍な顔に見える。車体側面の伊予鉄社紋は“イ”を4つ組合せたひし形で「いびし」と呼ばれるらしい。 城南線松山市駅前~南掘端 H26(2014)/10/8

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 モハ50形モハ52 51~53の3輌が同じグループ。集電装置は登場時のポールからビューゲル、その後Zパンタに換装されている。 城南線松山市駅前~南掘端 H26(2014)/10/8

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 モハ50形モハ69 車体側面は補強のようなリブが入っている。屋根は浅く同じモハ50形といってもさまざまなバリエーションがあるようだ。「試」の丸形サボを付けている。 城南線松山市駅前~南掘端 H26(2014)/10/8

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 モハ50形モハ66 城南線松山市駅前~南掘端 H26(2014)/10/8

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 モハ2000形モハ2006 モハ2000形は元京都市電で、昭和53年廃止後松山に移り、車体改装の後昭和54年から55年にかけて始動している。 城南線松山市駅前~南掘端 H26(2014)/10/8

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 モハ50形モハ57 松山駅前から市街地を眺めると伊予鉄道高浜線と平面交差し、駅前で直角に曲がる市内線の軌道が見える。そのカーブした先に「電車のりば 道後温泉・市駅方面ゆき」のネオンサインが目立つJR松山駅前電停がある。 JR松山駅前 H26(2014)/10/8

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 モハ72は昭和38年製、モハ2101は平成14年製、年の差39の新旧が並ぶ。 松山市駅前 H26(2014)/10/8

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 モハ2100形モハ2101 平成14年に登場した連接構造でない超低床車。まるて四角い箱がレールに載っているような感じ。 城南線松山市駅前~南掘端
 H26(2014)/10/8

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 モハ2100形モハ2109 こちらはカラーリングが異なりオレンジとグリーンが並ぶとまさに柑橘系。 城南線松山市駅前~南掘端 H26(2014)/10/8

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 松山市駅は鉄道線と市内線、バスターミナルが集まる松山の交通の中心地に位置する。屋上観覧車のあるターミナルビルは圧倒的な規模を誇る。道後温泉行の超低床電車が市駅を後にする。 H26(2014)/10/8

世田谷線

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 東急世田谷線三軒茶屋と下高井戸を結ぶ5.1kmの路線で全線専用軌道である。元は東急玉川線の一部で他都市と同様モータリゼーションの洗礼を受けて地下鉄化で廃止、専用軌道のルートだけ存置されて世田谷線となった経緯がある。「三軒茶屋⇔下高井戸」のサボを付けたデハ80形82号は満員の乗客を乗せているようだ。サボの横の表示は「連結2人のり」と読める。運転は全て2輌連結で行われていた。ホーム先のオープンな詰所や踏切警報機とゼブラ模様の柵は懐かしい情景として心に残る。 三軒茶屋 S52(1977)/4

津久見越え

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 臼杵湾津久見湾の間につき出した長目半島を横断するのが津久見越えである。鉄道建設時は『地勢嶮峻、山腹絶壁を開き懸崖を渉り』と、これ以上の表現がないような難工事区間であったと「九州の鉄道100年(産業図書)」に記されている。道路は臼津峠(旧道は十国峠)の名称があるが鉄道線にその名前はなく通称“津久見越え”と呼ばれている。9.7kmの駅間に徳浦信号場を置き、トンネルは8箇所、1,601mの徳浦トンネルをサミットに15.2‰の勾配は難所である。電化前DF50が喘ぎながら山越えする光景が印象に残っている。

 臼杵津久見間の乗車記で記憶に残る文言や表現がいくつか浮かんでくる。

 『造船所の間から臼杵湾を見ながら出発するが、やがて海も消えまた山間に入り、今度は石灰岩の採掘で白くなった岩肌の山が見えてくる。みかん畑の濃緑とこの白い岩肌のやや奇怪なコントラストに目を奪われていると津久見に着く』は「日本の鉄道11九州/鹿児島・日豊本線山と渓谷社)」の路線記から。

 『1200馬力のMAN機関がうなりをあげる』、『幸崎で架線と別れ、大分~佐伯間は無停車で走る。このDF50に与えられた速度は特ツF6』、『長いトンネルが連続し、煤煙の浸み込んだ古風なレンガ造りがその歴史を物語る』、『エンジンの苦しげなうなりが山間にこだまする。速度が落ちていく』、『大分~宮崎間のDF50単機牽引の定数は換算27車、“彗星”8両の換算は26.0車。悪条件の鉄路に“彗星”は行き悩む』は「鉄道ジャーナルNo.23」所収、列車追跡シリーズ「青い旅情」の乗車ルポ。手に汗握る機関車内の奮闘は鉄道少年にはたまらない文章で、列車運行と鉄道マンの格好良さを感じたものだ。

 『トンネルを出ると臼杵湾が見えてくる』、『トンネル一つで沿線の雰囲気は一変した。伊豆半島に来たようだ』、『臼杵から延岡まではリアス式海岸がつづく。ギザギザの海岸線を列車は入江に沿い、トンネルを抜けながら行く』、『海と島の眺めはきれいだ』は宮脇俊三著「最長片道切符の旅(新潮社)」。乗車率25%程度の電車急行“日南3号”宮崎行に乗って。

 「日本鉄道名所勾配・曲線の旅8/鹿児島線長崎線日豊線小学館)」から。『臼杵からは半島のつけ根を越えて津久見湾の側に出なければならない。下り松、第一、第二板知屋、大泊、そして徳浦とトンネル五つをくぐり、徳浦信号場。第一、第二鳥越トンネルと石灰石採取場の西を迂回して、第一津久見トンネルをくぐると津久見駅に着く』。

 写真は大泊トンネルから顔を出したRED EXPRESS“にちりん”。DF50の時代からすると樹木の生い茂りで様相は一変している。大泊トンネルを出て次の徳浦トンネルへ入るまでの一瞬、美しい海とおにぎりの形をした津久見島が見えるはずである。列車で体験する山越えの様子や車窓からの景色は、旅人それぞれの視点と感性で十人十色であろう。

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 津久見越えは海と山の織りなす景趣がすばらしい、と私は思う。

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鹿児島電化 昭和45年10月1日

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 昭和45年10月1日、鹿児島本線熊本(操)~鹿児島間200.6kmの電化が完成し、鹿児島本線全線の電化が完了した。これで青森から鹿児島までが電化でつながることとなり、鹿児島鉄道管理局は「熊本~鹿児島電化記念・日本縦貫電化完成」と「さようなら蒸気機関車」の2つのタイトルで記念入場券が発売された。秋に消えるハドソン達の最後の雄姿を見に行きたかったが、遥かなる南国への旅は時刻表上での話であった。西鹿児島駅に依頼して郵送してもらったように記憶している。

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 裏面:C61形式テンダ機関車/貨物列車用D51形を旅客列車に改造した機関車です。太平洋戦争中は貨物重点の輸送でしたが、戦後は旅客輸送に重点が移ったため、貨物列車用機関車が余って旅客列車用機関車が足りなくなりました。このために33両をこれに改造しました。昭和33年に登場した鹿児島初の特急 「はやぶさ」を牽引した当時の花形機関車です。

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 裏面:C60形式テンダ機関車/C59形機関車(幹線用)を準幹線用に改造したものです。これは線路の構造上、その上を走る線に適応するよう、機関車の車輪がレールにかかる重さ(これを軸重といいます)を軽くする必要があったからです。C59は173両製造されましたが、これからC60に改装した両数は47両です。

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 裏面:C57形式テンダ機関車/均整のとれたスマートな容姿をもつ、いわば美人機関車です。C55形を改良したもので、201両製造されました。

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 裏面:D51形式テンダ機関車<愛称デコイチ>/貨物列車用に作られたもので、耐久力・引張力・姿の3拍子そろったわが国の傑作機関車といわれています。製造両数は1,100両をこえ、戦前・戦後を通じて実質的に同形のものが、樺太、台湾にまで渡っています。国鉄の貨物用蒸気機関車の主力を成しており、むかしから重用しています。

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 裏面:B20形式タンク機関車/この機種は、太平洋戦争中の極度の機関車不足を補うため、資材を極度に節約し、製造工程もごく簡略化して作った戦時設計形の機関車です。戦争末期から終戦直後までを通じて15両つくられました。この10号機関車は昭和21年に製造されたもので、現在は構内入換機として専用しています。
 ビーコロちゃん/この写真のB2010は、B20という種類で10号機関車です。小さくて、かわいい機関車ですので「ビーコロ」と呼ばれています。いま日本で1台しか使われていません。写真は、大きなC55とC12機関車があと押しして走るとこです。

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 記念入場券が4枚入った切符袋は門デフC6113の牽く列車と桜島、ヤシの木がデザインされている。C6113は昭和25年3月、D511115から改造されて鳥栖に配備、その後鹿児島へ移動している。

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 切符袋の裏面には西鹿児島駅のスタンプが押され、うれしいサービスが行われていた。

 電化の4ヶ月前、中学校の修学旅行で鹿児島本線西鹿児島から宇土まで乗車する機会に恵まれた。何という幸運だろうか、これで見たことのないC60とC61に会えると確信していた。当時は何の情報もなく列車の進行方向右側の席から対向の次々と現れるであろうハドソン達を撮ろうと意気込んでいた。結果は次から次に現れたのはD51の貨物列車ばかりで、ハドソンに会えなかった理由は何だったのか、今改めて当時の趣味誌を開きながらその原因を探ってみることとした。

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 C60とC61の配置は表の通りで電化前も昭和44年時点のナンバーと変化はなかった。昭和43年からの変動は東北本線青森電化でC6016・18が鹿児島へ、C6017が熊本に転属している。16と18は煙突両脇に小形デフが付いた東北装備であった。熊本の2輌は定期運用はなく臨時列車に運用されるとのことで“しろやま51号”等を牽いていたのかもしれない。

 C59から47輌が改造されたC60は東北本線28、常磐線8、鹿児島本線11輌の内訳であった。鹿児島は昭和35年から36年にかけて11輌が配置され、以降常磐線電化で鳥栖と熊本に各2輌が移り、昭和38年時点で鳥栖6、熊本2、鹿児島7の15輌が活躍していた。
 D51から改造されたC61は東北本線18、常磐線9、鹿児島本線6輌の内訳であった。昭和23年から24年にかけて鳥栖に6輌が配置され、31年11月に全機鹿児島に転属し電化までそのナンバーは変わることはなかった。C6113だけ前方に傾いた独特のスタイルのデフレクタを装備していた。

 西鹿児島から乗車した上り修学旅行臨時列車と相対する鹿児島本線下りの時刻表を区間ごとに区切って作成したのが以下の表である。

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 川内~鹿児島間の時刻表。黄色はC60の牽くスジである。修学旅行臨時列車は湯之元で“あかつき1号”と交換しているのでその時刻から逆算して西鹿児島は8:30頃の発車と思われる。川内からと出水からの客車列車は発車した後と思われる。複線区間になった木場茶屋串木野間で憧れのハドソンとすれちがう。後で現像してその機関車は東北装備のC6016〔鹿〕とわかる。幸先良い出会いだったのでこの後も当然期待がふくらむ。(赤い印は撮影できた交換列車)

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 湯之元で下り特急“あかつき1号”と出会う。9時頃と思われる。 21レ S45(1970)/6/4

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 初めて見るハドソンC60!ほんの一瞬であった。 荷43レ S45(1970)/6/4

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 出水~川内間の時刻表。修学旅行臨は西方で“そてつ1号”、阿久根で“霧島”と交換する。駅間の所要時間からしてC61の牽く127レとは高尾野ですれちがうのではないかと思われる。しかしネガは折口でD51貨物、次は出水での“有明”しか写っていない。肝心なハドソンを逃していることに気づく。ここは単線区間なので対向列車は必ず駅構内である。撮リ損なったという記憶もないので席についていなかったかもしれない。残念の極みである。

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 DPEのプリント写真なら気動車D51貨物の交換としか見えないが、PCでスキャン画像を拡大すると列車間にもう1個列車キハ58の顔が写っている。“そてつ1号”がそれである。駅本屋は画面左側、修学旅行臨は1番線、D51235〔出〕の下り貨物列車は2番線で退避、下り急行“そてつ1号は”画面右側3番線を通過する。 西方 S45(1970)/6/4

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 阿久根1番線で“霧島”の通過を待つ。 S45(1970)/6/4

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 次の折口でD51貨物と交換する。ホームに乗車待ちの人が見える。ということはこの先間違いなく旅客列車とすれちがうことになる。それはC61の牽く鳥栖西鹿児島行127レで間違いない。列車は出水に接近するので出水機関区が列車進行方向の左右どちら側にあるのか、そればかりに気をとられていたような気がする。 S45(1970)/6/4

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 宇土~出水間の時刻表。八代を過ぎ千丁で“はやぶさ”と交換する。12:50頃であろう。ここは複線区間で、宇土到着までにC60の牽く133レとは松橋辺りですれちがうのではないかと思われる。しかしこれも記憶がなく、ネガも“はやぶさ”が最後であった。車内では降車時の注意とバス乗換えの説明が行われていたのかもしれない。またもや逃した獲物は大きい。改めて時刻表を辿って行くとハドソン3本を仕留めることができる行程であったが、結局約5時間の乗車でC601カットだけの結果となった。私にとっては忘れられない邂逅となった。

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 跨線橋工事真っ盛りの千丁で“はやぶさ”と会う。このまま構えてしばらく待てばC60の牽く鳥栖西鹿児島行133レと会っていたかもしれない。 S45(1970)/6/4

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 電化前は熊本機関区のD51が荒尾~鹿児島間を、出水機関区のD51は熊本(操)~鹿児島間で運用されていた。修学旅行臨で北上中、次から次へと出会う貨物列車に圧倒され、両区のD51達の活躍が見られたのはとても幸運であった。熊本・出水のD51は電化後以下の転属が成されている。
  熊本機関区 176・222・482→南延岡/272・1026→厚狭/655→横手/546・547→酒田
  出水機関区 541→南延岡/94・453・536・589・714→吉松/206・542→若松/235・592→厚狭
 D51はかなりの数が次の働き場所へ移動しているが、C60・C61は適応できる線区がなかったからか全機廃車されている。しかし翌年、奥羽本線電化でC61が宮崎転属の報を聞いて首をかしげてしまう。それなら何故鹿児島のC61を使わなかったのかとても疑問であった。

 かくして鹿児島電化は鹿児島機関区にED76-36輌(内2輌は大分から転属)、鹿児島運転所に457・475系が投入されて昭和45年10月1日スタートした。