転轍器

古き良き時代の鉄道情景

栄枯盛衰唐津線 多久

 昭和30年代の多久市は人口5万人の炭都で、多久駅は門鉄管内でも有数の石炭積出駅であった。駅から東に三菱古賀山炭鉱、西に明治佐賀炭鉱までそれぞれ専用線が敷かれて活況を呈していた。

 化粧煙突の継足しが異様に長い79624〔唐〕が下り貨物列車の先頭に立つ。西唐津機関区の9600は12輛が配置され、唐津線や佐賀線で運用されていた。 唐津線多久 S45(1970)/7

 多久駅本屋寄り1番ホームは久保田・佐賀方面の上り列車が入る。佐賀行の2輛編成はキハユニ26とバス窓のキハ16か17のようだ。佐賀機関区もしくは筑肥線管理所のどちらの車輛が運用されていたのだろうか。駅名標のとなりの名所案内は「多久聖廟」が記されている。構内は石炭車の姿も見える。 唐津線多久 S44(1969)/4

 下り列車は多久を出て笹原トンネルまで19.2‰の上り勾配が続くので多久もしくは東多久で補機が連結されて厳木まで後押しする。

 29656〔唐〕は磨き出しの美しい煙室扉ハンドルが輝いている。

 タブレットを取って出発進行。構内を出てR400の右曲線を過ぎると大築堤にかかる。 唐津線多久 S44(1969)/4

 2条の白煙を上げて笹原峠に挑む。レ・レムとワフだけの冷蔵車編成は漁業基地唐津港を控える唐津線の名物であった。 唐津線多久~厳木 S44(1969)/4

 写真は全て:小川秀三さん

栄枯盛衰唐津線 岸嶽

 山本~岸嶽間4.1Kmは時刻表では唐津線の表記であったが、「岸嶽線」や「唐津線岸嶽支線」の呼称の方が分岐線なのでしっくりとくる。石炭産業の盛衰に翻弄され、蒸気動車も走った特異な線区であった。

 岸嶽線の気動車を捉えた貴重な写真と出会って感激した。サボは楷書体で駅名電略は「ヤモ」と記されている。サボは運転区所ではなく駅に所属するので山本駅の管理と思われる。キハ30は東唐津筑肥線管理所の車と思ったが、昭和44(1969)年と48(1973)年の配置表で探すとどちらも直方の記載で驚きであり意外であった。 岸嶽線岸嶽 S45(1970)/7

 美しいキハ30が1線だけになった岸嶽に停車している。運用は山本~岸嶽間8往復で、朝最後の仕業は岸嶽発東唐津行で車庫入り、午後再び東唐津発岸嶽行として夕方の仕業に就く。 キハ3024〔門カタ〕 岸嶽線岸嶽 S45(1970)/7

 岸嶽駅は明治45(1912)年1月に開業、駅のある北波多村は石炭搬出で大いに賑わった。昭和30年代からの相次ぐ炭鉱の閉山により人口は激減し、昭和46(1971)年8月20日に岸嶽線は廃止された。この年の年末は臼ノ浦線世知原線も同様に廃止されている。

 岸嶽線の手がかりはないかな、と思っていた矢先の岸嶽駅の写真はまるで願い事が叶ったようで歓喜雀躍した。何というモダンな駅舎だろうか。入口に貼られた「万国博記念回遊券」のポスターが時代を物語っている。 岸嶽線岸嶽 S45(1970)/7 

 写真は全て:小川秀三さん

 唐津興業鉄道が唐津港まで石炭搬出のため大島から山本、厳木、多久まで開通させたのは明治32(1899)年12月であった。この時はまだ岸嶽線は開通前で、北波多村の石炭は川舟とエンドレスと呼ばれる運炭軌道で山本駅まで運び、貨車に積替えていたと郷土誌に記されていた。岸嶽まで開通後は輸送量が増大し、唐津港送りとは別に、山本・久保田・早岐を経由して長崎までの搬出もあって、炭質の良さから船舶用だったのかもしれない。

栄枯盛衰唐津線 笹原峠

 久保田と西唐津を結ぶ唐津線筑紫山地の西端に沿って走り、多久と厳木の間に立ちはだかる笹原峠は難所であった。サミット手前の笹原トンネルは石炭輸送の増加を見込んで複線断面で掘られている。

 多久を出た下り西唐津行は国道203号線を乗り越すと、笹原トンネルまで19.2‰の上り勾配が続く高さのある築堤を踏みしめて登る。 727レ 唐津線多久~厳木 S48(1973)/8

 県庁所在地へ向かう朝の客車編成の輸送力列車は大概の線区ではその日の夕方に折返す場合が多いが、唐津線の場合は西唐津発佐賀行の朝の通勤通学列車は佐賀到着後直ちに折り返して西唐津に戻り、日に1往復の客車列車は午前中で終わりとなる。

 パイプ煙突の39659〔唐〕が客車7輛を従えて多久を発車する。緩やかな下り坂を小城、久保田と進み、長崎本線に出て一路佐賀を目指す。下りホームは佐賀発西唐津行朝2番の気動車列車が見える。上り722レ7:19発、下り723D7:21発。 唐津線多久 S48(1973)/8

 撮影時の722レ→727レはこのスジであった。唐津線は昭和30年代初頭には旅客列車は全て気動車で運用されていた。朝1往復の客車列車はいつ頃から走り出したのであろうか。手持ちの時刻表で調べてみると昭和42(1967)年9月号で西唐津→佐賀間片道だけの726レを発見。翌43(1968)年10月号で726レ→727レ西唐津~佐賀間往復を見出すことができた。一時的な増発のようにも見えるが、その後客車列車は継続のまま列車本線は削減されている。

 79601〔唐〕の牽く下り貨物列車。重たいホキやタキを従えているがは補機は付いていない。 唐津線多久~厳木 S48(1973)/8

 唐津線は撮影後の昭和48(1973)年8月28日を持ってDL化され、西唐津機関区10輛の9600は検査期限のある半数が行橋と後藤寺へ移り、残りは廃車され、唐津線蒸気機関車の歴史に幕をおろした。

 写真5点:大森工場さん

 多久駅は都会的な橋上駅に変身、駅周辺も整備されてかつての面影を感じることはできなくなった。笹原峠への築堤は昔のままで、多久を出て右曲線を経て跨道橋を渡った辺りから上り勾配が始まる。画面右が多久駅方、左が厳木方で多久駅上り遠方信号機が建っている。 多久西方500m付近 H30(2018)/10/7

 国鉄難読駅名の十指に数えられる厳木(きゅうらぎ)駅は千鳥配置のホームで構内の有効長は長い。上りホーム先端はかつてスロープがあって、本屋側改札口へ渡る平面横断通路があった。また写真中央の電柱辺りに給水スポートと火床整理で灰を落とすアシュピットも設けられていた。それらの設備は時代と共に姿を消したが、構内脇に鎮座する赤煉瓦の給水塔は鉄道遺産として大切にされている。
 厳木 H20(2008)/5/13

栄枯盛衰唐津線 岩屋

 岩屋駅北側のこの広い空地が気になっていた。画面右側から国道(今は山側に高規格道路ができて県道になっている)、駐車場、唐津線1線の岩屋構内、市営住宅(合併前の町営住宅)が並ぶ。

 唐津線唐津興業鉄道が唐津炭田の石炭を唐津港へ輸送するために建設された。岩屋は明治32(1899)年6月に西唐津から厳木まで開通した時に開業した。初めて駅前の国道を通った際は駅舎も無く往時の面影は何も感じられなかった。右に見えるスロープを上がるとホームに出る。

 ホームに立って相知方を見る。広い構内東側は縦断道路が作られて町営住宅が並んでいる(唐津市合併前は東松浦郡厳木町)。画面左側は道路を横切って炭鉱までの引込線もあったとのこと。駅は昭和46(1971)年11月に民間委託駅に、48(1973)年1月に無人駅となり、その後駅舎も解体されたようだ。

 住宅側の線路に沿った道路からホームを望む。線路が剥がされた跡を感じる寂しい空地が広がっている。岩屋炭鉱は明治以前から石炭は掘られていたとのこと。鉄道開通までは荷車で河口まで運搬、河舟で唐津港まで搬出されていた。

 駅横の広場から厳木側を見る。この空間にかつて石炭積込みのための巨大なコンクリート造りの貯炭ポケットがあったことを知る。

 同じ位置からふり返って相知側を見る。かつての岩屋構内は画面左、道路との境から右は住宅の建っている奥に厳木川が流れ、その淵まで広がっていたと思われる。

 厳木川に注ぐ小川に設けられた煉瓦の橋脚が残っている。左の道路橋は線路が剥がされた跡に架けられ、ヤード跡地は住宅地として整備された。

 国土地理院地図・空中写真閲覧サービス MKU643X-C11-17 昭和39(1964)年5月 唐津から

 岩屋炭鉱は岩屋駅のある厳木町相知駅のある相知町にかけて採炭エリアが広がっていた。岩屋駅は広い構内を有していたことがわかる。岩屋で組成されたセム・セラの編成は多久からの石炭列車に連結されるのか、それとも単独編成で大島へ運ばれたのだろうか。西唐津区の機関車が巨大ホッパーの下で石炭車の入換を行う光景を思い浮かべる。

 「各駅停車全国歴史散歩42 佐賀県(河出書房新社/昭和55(1980)年11月刊)」から

 広大な空地にあったコンクリート建造物の姿を見てみたい、の思いを抱き探し回って出会ったのが上記書籍である。『ホームに降り立って目を奪われるのは、巨大なコンクリート建造物、これはコールドビルと呼ばれる貨車積み込み用の貯炭ポケットだが、なまじ堅固につくられたばかりに壊すのにも金がかかると放置され、閉山15年の今日もむなしく残骸を虚空にさらしている』と記述され、過去への淡い郷愁とロマンを誘われる。

 多久駅東側に残っていた貯炭ポケットと比べると岩屋駅のそれは巨大さが桁違いに異なる。唐津線沿線の炭鉱は昭和30年代後半から40年代初頭にかけて閉山しているので、唐津線石炭輸送を捉えた写真は希少である。

 写真:H26(2014)/9/21 R3(2021)/11/23 R4(2022)/11/24 R5(2023)/2/1

D6069 大分時代

 D6069は昭和39(1964)年9月出水から直方へ、翌40(1965)年9月直方から柳ヶ浦へ、42(1967)年9月大分へ移動している。大分から再び直方へ渡ったのは44(1969)年9月で、大分での稼働期間はわずか2年であった。

 D6069は昭和30(1955)年9月、D5033(大正13(1924)年12月川崎製)から長野工場で改造されて誕生している。キャブの銘板にその事が全て標記されている。C53の流れを汲むと云われるキャブの大形1枚窓と各所のリベットに威厳と風格を感じる。

 大分発豊後森行640レが野矢でひと息ついている。1輛めは狭窓が並ぶスハフ32が連結されている。本屋寄り下りホームは駅員の姿が見える。下りの急行が通過するのを待っているようだ。 久大本線野矢 S44(1969)/7

 D6069となったD5033の登場時は形式9900でナンバーは9932であった。昭和3(1928)年に形式D50と改番されている。D5033のキャブ窓は試作から量産に移行した頃の製造で2枚窓で登場、後年になってひとつにまとめられて写真のような形態になったらしい。ナンバーによって窓サイズは異なるとのこと。 久大本線由布院 S44(1969)/7

 長野工場で改造されたD60で九州で稼働したナンバーは31・32・33・34・69・70の6輛であった。何れもデフとデフステイが特ちょうのある形で共通していた。煙突も少し長めのパイプ煙突であったが31と69だけは化粧煙突で違っていた。 筑後吉井 S44(1969)/3

 テンダは20立方米形で、後部の切り欠きが大胆に大きいのが特ちょうであった。20立方米形テンダは2通りあって、切り欠き部が大きいタイプと、切り欠き部が少ない12-17形スタイルがあるらしい。D6034・D6071は後者のようである。 筑後吉井 S44(1969)/3

 日田杉の美林を背景に上り勾配に挑むD6069〔大〕牽引の639レ大分行。このスジは昭和44(1969)年10月改正で気動車に置換えられてしまった。折しも新製キハ45系の投入は久大本線の客車列車を一気に減らしてしまった。 久大本線豊後中村~野矢 S44(1969)/8/2

 昭和44(1969)年10月改正は久大本線に新しく入ったキハ45・キハ53の影響で、大分運転所のD6069とD6071は直方へ転属することになった。豊後森機関区の給炭線に転向を済ませたD6069〔大〕が入っている。 豊後森機関区 S44(1969)/7

写真は全て:小川秀三さん